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夜行列車の寝台車をわざわざ座席車運用した理由

1977~1978年ごろだったと思いますが、寝台列車(電車)の一部車両の寝台を敢えてセットせず、座席車として運用するということが行われていました。 このようなことを実施するに至ったいきさつはどこにあったのでしょうか。 そして長続きしなかったのは利用者が少なかったからですか。

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  • aobajyo
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回答No.10

おはようございます。NO8です。 私は東北地方出身なので当時の「ゆうづる」事情が良い例だと思いで回答しましたが、質問者の意図から離れてしまったようですので再度回答します。 東北地方で寝台車の座席利用は最近では2例あります。 平成57年11月の東北・上越新幹線開業のダイヤ改正にときに、2往復あった急行「津軽」のうちの1往復のうちの1往復が特急「あけぼの」に格上げされました。(他に夜行の気動車急行「出羽」上野⇔酒田(奥羽・陸羽西線経由も廃止)。それまで「津軽」だけで10両以上あった座席車が、改正以降は1往復3両にまで減少してしまいました。当然、「津軽」は大混乱です。その対策で「あけぼの」のB寝台2両を座席車として使用することになりました。 平成5年12月のダイヤ改正で急行「八甲田」が定期列車としての運用を離れ、臨時列車化されました。そのときに特急「はくつる」が583系による2往復になったのですが(実質の特急格上げ)そのうちの1往復の1両(5号車)が座席車として使用されました。(青森⇔一関及び宇都宮⇔上野に立席特急券が販売されました) どちらのケースも急行列車を格上げするさいに、それまでの座席主体の列車を急に寝台列車とするには無理があった、ということでしょうか。はくつるは何回か利用しましたが利用者が多かった印象はありませんが、青森⇔八戸・盛岡や宇都宮・小山からの利用者がいつも何人かいたようですから、寝台車を必要としない短距離の需要は僅かであっても無視しなかったのでしょう。 質問者が疑問をもたれている時期は、昭和50年3月山陽新幹線の博多開業による夜行列車の再編が行われています。急行「高千穂・桜島」をはじめとする多くの山陽本線の急行列車が廃止されました。逆に急行「くにさき」・「阿蘇」が新設されていますので座席数は充分とおもわれるのですが、有効時間帯との関係等で寝台列車の座席利用をしていたと考えるしかないと思います。先の例のとおり、全区間乗車しなくても、大阪⇔岡山や岡山⇔広島などような夜間の短距離利用者が僅かでもいれば、国鉄としては無視できなかったのでしょう。その両急行も昭和55年10月のダイヤ改正で急行「雲仙」・「西海」とともに廃止(山陽本線の夜行急行の廃止)になっていますから、利用者は多くなかったでしょうけど。 また、昭和50年11月の料金の大幅値上(平均33%)、及びいわゆるスト権スト(8日間にわたって列車が止まった)及び昭和51年11月の運賃・料金の50%値上げと国鉄に対する国民の眼が厳しくなってきた時期です。その後昭和53年10月(ゴーサントー)のダイヤ改正で急行列車大幅削減、特急増発のなかで、座席車に寝台列車化による「実質的料金値上げ」の批判をかわすため、座席車として使用していたのかもしれません。 いづれにしても寝台車の座席利用は短命に終わっています。たとえば、かつて「大垣夜行」がありましたけど、切符さえあればいつでも乗れる(座れかどうかは別にして)とあらかじめ特急券(指定券)を用意しておかないと満員だと乗れない列車では利便性は大きく異なります。大垣夜行からムーンライトながらそして不定期化、と似たような運命を当時の座席車もたどったと考えるのが自然のような気がします。 朝から相変わらずの長文失礼します。回答というようり当時の雑感ですが、最後までお付き合いいただきましてありがとうございます。

meimio
質問者

お礼

非常に詳細なご回答を下さいましてありがとうございます 「あけぼの」や「はくつる」のケースは特に意識していなかったのですが、思いの外利用者の事も考えていたんですね。 山陽線関連はまさに私がもっとも疑問に感じていた点ですが、まさか近距離利用者の利便を考慮してのものであるとは思いも付きませんでした。 でも上の例も含め、たしかにそう言われてみますと国鉄には一方の側面として、少数を無視しないとか公平を尊重するという点がありましたね。 値上げ批判対策という方はいかにもという感じですね。この場合だと一旦そうしておいてほとぼりがさめた頃を見計らって廃止した、という考え方もできそうです。 おかげさまで長年感じていた疑問を解くことができました。 何度も貴重なお時間をお割き下さったことに感謝いたします。

その他の回答 (9)

回答No.9

NO-6.7です。 私が例にした「ゆうづる」の頃は、まだ小学生だったため 記憶が曖昧です。もちろん、尾久に583系が留置されているのを 見たことはあります。また、東大宮でも583系を見たことも あります。 私は神奈川県中部で生まれ育ったため、 質問者様がおっしゃる西の方の列車は、まったく無縁でした。 それはともかく、今は中年になってしまった当時の鉄道少年達に 聞きまくりました。 当時の「金星」「明星」「彗星」等は、「雷鳥」「しらさぎ」 と共通運用だったそうです。 冬場になると、北陸線の雪による影響で、名古屋(関西)から 九州に向かう寝台列車の、遅延や運休が問題になっていたようです。 そうすると、遅延や運休を阻止するため、座席から寝台に 変換できるところまでやって、間に合わなかった車両は、 座席のまま運転された・・・ ということもあったかも知れません。 もちろん、推測ですから、信じないでくださいね! なお、この中でわかったことは、遅延の問題で「金星」と 「しらさぎ」の共通運用は解消されたということです。 「金星」で名古屋に到着した車両は、「しらさぎ」に充当されず、 めでたく昼寝できたそうです。 あと、質問とは関係ありませんが、当時はスハネフ14の検査入場のため、 スハフ14が電源代わりに連結されたことが時々ありました。 また、1980年代になると14系B寝台の2段化改造に伴い、「さくら」 「みずほ」「いなば」「紀伊」で編成短縮や、スハネフ14の代わりに スハフ14や、オハネ14の代わりにオハ14が、頻繁に充当されていたことは、 今でも覚えています。 この質問を機会に、旧友たちと連絡を取り合うことができました。 ありがとうございました。

meimio
質問者

お礼

再度のご回答ありがとうございます。 >尾久に583系が留置されているのを >見たことはあります。また、東大宮でも583系を見たことも >あります。 そうでしたか。別に電車区でなくてもよかったんですね。 >私は神奈川県中部で生まれ育ったため、 >質問者様がおっしゃる西の方の列車は、まったく無縁でした。 私は逆に関西在住だったため当時の上野以北についてはほとんど無知で、「ゆうづる」などの事情も今回ご回答頂いて初めて知ることができました。 >当時の「金星」「明星」「彗星」等は、「雷鳥」「しらさぎ」 >と共通運用だったそうです。 なるほど。「しらさぎ」が583だったことはすっかり忘れていました。今回「金星」と書きながら、「『つばめ』消滅後は一体名古屋で何をしていたんだろうか?」と疑問に思ったりしていたのですがそういうことだったんですね。 九州の車両が日常的に吹雪の中を走行するなど現在ではあり得ない話で、なかなか感慨深いものがあります。 九州内での間合いは「有明」だったんでしょうね。 >冬場になると、北陸線の雪による影響で、名古屋(関西)から >九州に向かう寝台列車の、遅延や運休が問題になっていたようです。 関西在住でしたが運休があったとは知りませんでした。 しかしマニアでもない限り「北陸線の積雪がひどいため、本日の『月光』は運休させていただきます」なんて言われても全然「何のこっちゃ」だったと思います。 >座席から寝台に >変換できるところまでやって、間に合わなかった車両は、 >座席のまま運転された・・・ この場合寝台料金の払い戻しがややこしくなりそうです。 まあウヤになるよりはマシなんでしょうが…。 >「金星」で名古屋に到着した車両は、「しらさぎ」に充当されず、 >めでたく昼寝できたそうです。 私見で恐縮ですが、やはり私は583を昼間に特急に使用するのは無理があったと思います。 ボックス構造もさることながら、「寝台を折り畳んだ簡易座席が専用に設計されたそれにかなうはずがない」が私の持論です。 とにかくこれに乗る事を嫌い、撮影に行く際に583好きの友人とよくケンカになったりしました。 そんな事でこれは583、「しらさぎ」の乗客双方に益があったと思います。 >当時はスハネフ14の検査入場のため、 >スハフ14が電源代わりに連結されたことが時々ありました。 >また、1980年代になると14系B寝台の2段化改造に伴い、「さくら」 >「みずほ」「いなば」「紀伊」で編成短縮や、スハネフ14の代わりに >スハフ14や、オハネ14の代わりにオハ14が、頻繁に充当されていたことは、 >今でも覚えています。 全然知りませんでした。 でもそれは座席車として客扱いしたんでしょうか。 たとえ料金が払い戻されるとしても、寝台で寝るつもりだった乗客には大迷惑な話ですね。 >この質問を機会に、旧友たちと連絡を取り合うことができました。 >ありがとうございました。 こちらこそ色々情報を下さいましてありがとうございました。

  • aobajyo
  • ベストアンサー率68% (26/38)
回答No.8

こんばんわ。回答が締め切られていないようなので私の知っている範囲内での回答です。  昭和50年3月10日の山陽新幹線の博多開業により東海道・山陽線の夜行列車が整理され多くの車両が東日本地区へ配置換えとなりました。そのときに急行「十和田」2往復が特急「ゆうづる」となりました。この改正により特急「ゆうづる」7往復(他に、特急「はくつる」1往復)となりました。このうちのゆうづる1往復(下3号・上7号)が583系の座席車での運用でした。東京から北海道への輸送が飛行機に対してまだ鉄道が優位を保っていた時代のことです。夜間であり乗車時間が10時間を越えるので特急列車として営業するには寝台をセットするのが妥当なのですが、当時の国鉄の事情でできなかったのです。  質問者が「宮脇俊三」氏や「種村直樹」氏など当時の列車に乗車された方の著作物をお読みになっていたら説明しやすいのですが、当時の寝台車には「列車ボーイ」(列車乗務員・車掌補)が3両に1人の割合で乗務していました。「列車ボーイ」という言葉は耳にされたかもしれません。車掌補の仕事は、寝台のセット・解体のほか乗客の就寝時の車内の安全確保等です。つまり、座席主体の列車を寝台列車にすると12両編成で4人(上下で8人)もの車掌補が必要になります。それだけの要員が確保できなかったようです。もうひとつの理由として、青森・岩手地区から東京へ向かう列車の座席数が2列車分減ってしまったので、それを補う意味もあったのかもしれません。  さて、そうして異例の運用だった特急「ゆうづる」ですが翌年の昭和51年10月1日の改正により寝台列車化されてしまいます。その理由は、列車乗務員・車掌補が廃止されたからなのです。山陽新幹線の利用者の定着(飛行機の大衆化)により九州ブルートレインの凋落が始まり、運行中の寝台のセット・解体作業が廃止されたり簡略化されたのがこの改正からなのです。上野⇔青森の寝台列車は所要時間からみても運行中の寝台のセット・解体は必要なくなりました。(いわゆる寝台車を座席車としてするための最小限の作業は特急「あけぼの」で今でもありますが)  私の知っている範囲内での実施理由と廃止理由は以上です。長文失礼しました。  

meimio
質問者

お礼

長文のご回答ありがとうございます。 >当時の寝台車には「列車ボーイ」(列車乗務員・車掌補)が3両に1人の割合で乗務していました。 私は運行中に寝台をセットする必要のある列車に乗ったことはないのですが、そんなにも人手が必要とは知りませんでした。 ただ雑誌で、九州ブルトレの場合では静岡や浜松あたりで寝台セットのための要員が乗車し、次の停車駅までにそれを完了させて降車、そして後続の列車に乗り込んで同様の作業を行う、といった記事を見た覚えがあります。 >運行中の寝台のセット・解体作業が廃止されたり簡略化されたのがこの改正からなのです。 この変更は記憶にあります。 博多開業以前の話だと思っていましたが、1976年になってからでしたか。 ただ私がもっとも疑問に思っているのは、「ゆうづる」のようなハッキリしたケースではなく、編成中の1両か2両のみ寝台をセットしない列車が、とある一時期にのみ多数存在したという点です。 そしてその時期はご指摘の「簡略化」以降なんですよね。 単純に当時の国鉄が新たな観点から乗客増を狙って行った試み、というだけのことだったんでしょうかね。

回答No.7

NO-6です。 書き忘れました。 583系「ゆうづる」の座席運用が、終わった理由は、 20系⇒24系化によって寝台の数が減ったためだと思います。 その結果、583系の寝台をセットする要員が確保された のでしょう。 当時は、ようやくオイルショックから脱して、バブルに 走り出す気配が見えてきた頃だったと思います。

meimio
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >20系⇒24系化によって寝台の数が減ったためだと思います。 >その結果、583系の寝台をセットする要員が確保された >のでしょう。 ところで583の寝台セットは尾久でやっていたのでしょうか。青森に帰る前に足回りの点検とか場合によっては簡単な補修も必要になったかと思います。 当時の尾久といえば客車区というイメージしかないのですが電車用の設備もあったんでしょうかね。

回答No.6

「ゆうづる」のことですよね? 昭和50年3月のダイヤ改正で増発された「ゆうづる」の1往復は、 人手不足のため、583系で運転されていたにもかかわらず、 寝台をセットせず座席車のまま運転されました。 この変則的な運用は、翌年に20系で運転されていた「ゆうづる」が、 24系化される頃まで続きました。

meimio
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >昭和50年3月のダイヤ改正で増発された「ゆうづる」の1往復は、 >人手不足のため、583系で運転されていたにもかかわらず、 >寝台をセットせず座席車のまま運転されました。 これは全く記憶にありませんでした。 そうなると他に関しても人手不足という可能性もありますね。 ちなみに私が質問文のような運用についてハッキリ記憶しているのは「明星」、「なは」、「金星」などで、「あかつき」、「彗星」や「日本海」などにも同様の措置が取られていたように思います。

  • mukaiyama
  • ベストアンサー率47% (10402/21783)
回答No.5

>寝台列車(電車)の一部車両の寝台を敢えてセットせず、座席車として… 乗客の全員が全員、寝台を希望するとは限らないからです。 当時でも寝台料金はかなり高かったですから、全区間乗り通す人でも安い座席車で十分と考える人がいてもおかしくはないですし、短区間の利用者ならなおさら寝台料金など払いたくないでしょう。 そんな客のために座席車を一部残したのです。 また、電車の 583系に限って言えば、寝台セットは車両基地で行うこととされていましたから、例えば上野から尾久へ回送、尾久で車内清掃とともに寝台セット、また尾久から上野へ回送と、かなりの時間を要するわけですがこの時間が確保できず、あえて寝台セットを一部車両に限定したこともあったのは事実です。 >長続きしなかったのは利用者が少なかったからですか… いやいや、国鉄の増収策が裏目に出たのです。 当時大きな赤字を抱えていた国鉄は、急行を特急に、ハザをハネやロネに格上げするなどして客単価のアップを図りました。 結果として、それが鉄道離れ、特に夜行寝台離れにつながったことはご承知のとおりかと思います。 >乗車率が低かった場合やはり乗客は勝手に寝台セットしたりしていた… それはないです。 一部のマニヤを別にすれば、素人がセットできるような代物ではありません。 車掌に見つかれば当然怒られますしね。

meimio
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >乗客の全員が全員、寝台を希望するとは限らないからです。 その通りだと思いますが、利用者の意見に耳を傾けるような国鉄ではなかったと思います。 自らの都合がいいように列車を運用し、それに従う者だけ「乗せてやる」という感じではなかったでしょうか。 >そんな客のために座席車を一部残したのです。 1970年代に入ってからは寝台特急に座席車は存在しなかったと思います。ご承知のようにナハ20やナハフ20なども早期に寝台車に改造されましたしね。 ところがそれがなぜか突然復活し、そしてまたすぐに消滅したという理由が理解できません。 まあ貨物列車の高速化のためとか言って二軸貨車の製造を完全に中止しておきながら、10年後に突如としてワム80000を1万両も製造し、あげく数年後には倉庫として売却なんてことをやっていた国鉄のしたことだ、と言えばそれまでなんですけど。 >時間が確保できず、あえて寝台セットを一部車両に限定したこともあったのは事実です。 そんなことがあったのですか。確かに電車の場合は昼行が遅れたりすればあり得る話ですね。 >一部のマニヤを別にすれば、素人がセットできるような代物ではありません。 これに関しては当時の鉄道雑誌で読んだことがあったのですが、そう言えば「うまくセットできず段々になっていた」とかいった記述もありましたね。

  • ultraCS
  • ベストアンサー率44% (3956/8947)
回答No.4

583系は間合いで昼行はつかりの運用があったはずです。 他に、シュプール○○号や○○スキー号として都市からスキー場に向かう夜行運用では、スキーを網棚に引っ掛けてぶら下げる収納の関係で581/583系は寝台ではなく座席固定で運用をしていました。スキー列車は季節運用でしたが、早い時期に廉価なスキーバスに淘汰されてしまいました(スキーバスも自家用車に陶太)。

meimio
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >583系は間合いで昼行はつかりの運用があったはずです。 まあ581、583は元々コウモリのような車両でしたからそれは分かるのですが、夜行運用時に突如としてハザを用意した点が解せません。 更にこれは記憶違いかもしれませんがブルトレでもこれをやっていたように思います(もちろんオハ14の増結などではありません)。 >シュプール○○号や○○スキー号として都市からスキー場に向かう夜行運用では、スキーを網棚に引っ掛けてぶら下げる収納の関係で581/583系は寝台ではなく座席固定で運用をしていました。 そうだったんですか。まあこれはJRになってからのことだと思いますが、乗車率が低かった場合やはり乗客は勝手に寝台セットしたりしていたんでしょうね。

  • kuni-chan
  • ベストアンサー率22% (678/3074)
回答No.3

 その頃でしたら、寝台電車は昼も夜も使用されていましたから寝台セットの人員や手間の問題だったと思います。  寝台電車を夜行で使う場合、寝台をセットするのが本来の使い方ですから寝台をセットするようにして解消したと思います。  ただ、短距離客のために座席で残した場合もあったようです。  

meimio
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >人員や手間の問題だったと思います。 う~ん…。そうだったんでしょうか。 あるダイヤ改正時に全国で一斉に人手不足になり、1年かそこらでまたそれが一斉に解消したというのは何か不自然な気がするのですが。 また1の回答者様のお礼にも書きましたが、9両(581、583でサロ、サシ除いて)中の1両の手間を省くことで解決できる程度なら、当時進められていた合理化の余剰人員でなんとでもまかなえたのではないでしょうか。

  • sss457180
  • ベストアンサー率34% (398/1162)
回答No.2

あれ?つい先日まで走ってた最後の583系利用の急行「きたぐに」だって 半分は座席車として使ってませんでしたっけ?そういう意味では 長続きしてたのではないでしょうか? 寝台料金高いですからね。

meimio
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 少し質問文の説明が足りなかったようです。 どこかに「国鉄」という文言を入れておくべきでした。 JRになって以降ならこういう行いがあっても別にどうということはありませんが、頭の硬かった当時の国鉄がこのような試みを行ったことは大変な驚きでした(まあもっともそれをすべて(に近い)の寝台列車(電車)で一斉に実施し、また残らず廃止してしまうあたりはいかにも国鉄らしいですが)。

回答No.1

いくつか理由が考えられます。 1 台頭してきた夜行高速バスに対抗し安価な移動手段を提供するため。 2 座席車を連結した夜行急行列車の廃止の代替として近距離利用者救済のため。 3 多客時に輸送力を確保するため。 4 寝台車として営業するための要員(乗務員、整備員)が確保できなかったため。 廃止要員としては 1 バスの方が安くかつ乗り心地が良く対抗できなかった。 2 停車駅の削減で需要が無くなった。 3 多客時の鉄道シェアが減少し輸送力の確保の必要が無くなった。 4 乗客掛の乗務、途中での寝台解体が無くなり要員の確保の必要が薄れた。 の複合的なものでしょう。

meimio
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 色々な理由が考えられるものですね。 昔のことで記憶が定かではないのですが、やや疑問に思う点もありますので一応それを記させていただこうと思います。 失礼がありましたら申しわけございません。 1.バスが台頭してきたのは1980年代になってからだと思うのですが、私の記憶違いでしょうか。 2.なるほど。確かに特急の寝台車となると相当な追加出費が必要ですね。ただ、この頃は夜行急行も相当な数が存続していたように思います。10系寝台車もまだまだ健在でしたから。 3~4.こういう理由も考えられるとは思いますが、10両以上の編成の1~2両を座席車扱いとすることでこの問題の改善に役立ったのでしょうか。

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