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福岡伸一の本『生物と無生物の間』と『動的平衡1』について
- 福岡伸一の本『生物と無生物の間』と『動的平衡1』を読みました。ここでは、福岡氏が提唱する生命の再構築について考えます。
- 福岡氏の説明によると、私たちの体内では食べた食料がアミノ酸のレベルまで消化・分解され、再構築されるということです。
- しかし、指示がないのに細胞が自然に生命を形作るのはなぜでしょうか? この問いには明確な答えはなく、未解明の部分と言えるでしょう。
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まさしく生命の詳しい機序は判っていないのです。しかし著者は、生命の営みの根源は“魂”や、手塚治虫の『火の鳥』でいう“コスモ”のような神秘的なものではなく、単なる平衡の結果ではないかと予想しているのです。細胞に比べて分子はとてつもなく小さく、さらに原子は途方もなく小さいのです。原子レベルでは全ての原子が数か月という単位で置き換わっても、同じ人格を保って私たちは生きています。原子は一瞬わたしたちの体に留まり、そして出ていくのです。私たちの体と言うのは、川の流れの“淀み”のようなもので、それこそが「生きる」ということなのだと著者は思っているのです。 微細なものを研究している人に共通しているのは、神秘性の打破です。脳科学者の池谷裕二氏の『進化しすぎた脳』では、自由意思に疑問を投げかける実験を紹介しています。被験者にボタンを持たせて、『好きなタイミングで押してくださいネ』と言います。研究者は脳波をモニターしています。すると、押す1秒ほど前に運動前野という部分が動くのをモニターが映し出すのです。つまり、モニターを見ている研究者の方が、被験者よりも1秒も前に「ボタンを押すこと」が判るという奇妙な結果となったのです。 「押そう」という意志が生まれてから「押す」のではなく、「押そう」と脳が準備をしてから意志が生まれるということです。「行動」と「意志」で言うと、脳の活動においてはどちらが主で、どちらが従というのではなく、副産物的に生まれるのが意志ではないか、ということです。 だから何?というようなことです。疑問が解明されても、また新たな疑問が生まれてきます。それはまさしくフラクタルな世界です。自然な海岸線には大小さまざまな凹凸があり、パンフレットに北海道の海岸線は27000Kmでと書いてあっても、どの凸凹までを計測するかで、ずいぶん違ってくるではないかと疑問に思ってしまいます。真理も同じようなことで、池谷裕二氏は自身の研究の果てしなさをフラクタルと表現しています。
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ありがとうございます。 なぜかは「わからない」という事で理解しました。 福岡氏の説明を聞いて、ナウシカの巨神兵の胎児の成り立ちを思い出しました。「風の谷のナウシカ」で、「秘石」をくぼみにセットすると、巨神兵の骨組みに肉や神経が自動的に発生を開始する様子を連想しました。そこに機械的連動はなく、とにかくそこに秘石を「置く」と成長プログラムが発動するのです。当時宮崎駿は「動的平衡」を知らなかったと思いますが、宮崎駿は直感的にそういう「感覚」こそが正しいと考えていたのではないかと思います。 海岸線の話はわかります。「虹」の色もどこまで分割するのかというのと同じですね。