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複合型PTSDと診断され、放置。。
長文失礼致します。 まず複合型PTSDと診断される迄の生い立ちですが、私は実家の寺院にて住職の父より厳しく教育されておりました。というより、今思うと虐待だったのだと思われますが、その当時は幼心に只々悲しいと感じるだけで虐待と認識しておりませんでした。 家業柄早朝寺院の仕事をしてから学校に登校するという生活で、私や兄弟(兄2人)が父から任されていた寺院の仕事ができていなかったり、失敗したりすると宙を舞う程殴られるのは当たり前で、何よりつらかったのは毎朝仕事前に朝の挨拶という名のミーティングがあったのですが、その際父が母を「おまえは生きていて恥ずかしくないのか」「だからおまえはそんなに醜いんだ」と罵倒しながら殴る蹴るを繰り返し、「こんな人間にはなるな。見とけ。」と私達兄弟に正座させ延々と見させていました。子供達も時には恐怖を抱きながらも殴る父を止めに入るのですが、「こんな人間をかばうのか」とより逆上してしまいます。ですが目をそらしたくなる状況に学校がありますので朝の仕事に戻りますと席を立とうとすると、「見とけと言ってるだろ!」 と一喝されその場に居らざるおえませんでした。 そんな生活は私が中学一年まで続きました。長男は私が小学校に上がる頃に全寮制の宗派経営の高校に続き大学へ入学し、その後大学を中退しインドの寺院にて僧侶として勤めておりました。次男も、同じように宗派経営の大学まで行き、実家とは別の寺院に僧侶として勤めておりました。私が中学に上がる頃に父が実家の寺院を手伝えとインドにいた長男を呼び寄せ、実家を手伝わせていましたが、時折長男はインドに帰りたいと私には漏らしていたのですが、そんな事を父が理解できる訳もなく、長男は一年後首をつり自殺しました。 その時から私の中で、「やっぱりこの家おかしい」と家に居ることが苦しくなり、家に帰らず寄り付かなくなりした。家出や非行を繰り返しているうちに感情のコントロールができなくなるという異常が出始め、突然怒り暴れ出したかと思うと悲鳴に近い泣き声をあげ泣きじゃくる。これを見た担任の教師が異常に気付き「先生と病院行こう。ご両親が連れて行ってくれないんだったら先生が一緒に行くから!」と母に掛け合って下さり父には内緒で心療内科を受診しました。心療内科では、今までずっと辛い事が蓄積され、複合型PTSDだと診断され「本当は入院してもらいたい」と言われましたが、父に内緒の為できる訳がありません。通院という形をとりましたが、その後2回ほど受診し足が遠のきました。母も我が子が精神病と思いたくないと言って治療に消極的でしたし、私自身病名が付いた事がショックで認めたくないと思ったのだと思います。 ですが、症状は悪化し感情の矛先は友人、母となり家庭内暴力となりました。その頃からぶつぶつと独り言が多くなり、道端ですれ違った知らない人と頭の中で喧嘩をするような妄想が始まり、外でも一人でぶつぶつ話す事を止めれないといった発語コントロールができなくなっていました。そんな状況とは知らない次男は里帰りの際に、ただ妹がグレて家庭内暴力をしてると思い、私を殴りました。そしてまた私は家出をするという悪循環。ですが、次男の行動は間違いではないですよね。お互い大人になってから話し合いこの事については和解しました。 そして、私が15歳の時に母の癌がわかり、母の替わりにと実家の寺院の手伝いを始めますが、やはりあの家に居ることは私にとっては苦しく気が狂いそうでした。私が実家に戻り一時すると次男が父から呼び寄せられ、次男も戻り実家の寺院を手伝い始めます。 そうすると父の次男いびりが始まり、昔の母のような扱いをしだしましたが兄は親子の前に師弟関係がある為何も言えずひたすら耐えます。そんな生活が二年程続き私が17歳の時に母が他界しました。 母の他界から次男の様子がおかしくなり素人目からみても鬱傾向になり、ある日とうとう家を出て事実上蒸発という形になりました。私も、もうこの家から解放してあげたいと思い探しませんでした。そして父と私の2人での生活が始まるのですが、もちろん今まで次男に向いていた矛先が私に向き、私の症状も悪化し、発狂し泣きじゃくって父から殴られるという生活をしていましたが、私も家を出て社会で働きだします。 家を出てからも症状は改善せず、独り言が止まらなかったり、感情コントロールができなかったりしましたが、良くなったり悪くなったりを繰り返しながらも病院には通わずどうにか乗り切っていました。 ただ、症状が悪化する時期は人と会うことが苦痛で友人とも会えなくなります。友人だけならまだしも、職場の人とも会えなくなり、これが2~3日で収まればまだいいのですが、ひどいときは半年程続くこともあります。 そうなると仕事は辞め、休養してからまた奮起して新しい仕事をしだすというのを何年も繰り返しています。あと、独り言も改善していません。外でも一人でぶつぶつ言っています。こういった 症状はどういった病気が考えられるでしょうか。またこのまま自力で対応していると悪化してしまうでしょうか。お教え頂けますでしょうか。 今まで見ないように、思い出さないようにしていた自分の過去を振り返りながらまとめていたら、長々とご迷惑な文になってしまいました。 貴重なお時間を頂戴しまして誠に申し訳ありません。 お時間のある方がいらっしゃいましたら、是非ご解答頂ければと思います。
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私はもう中年の入り口に入った独身男性ですが、よくまとまったしっかりとした文章で少しは安心しました、悲しい内容ばかりとなった若い女性ご自身の生い立ち、しっかりと読ませていただきました。 多少は誰でも独り言を言って気分や寂しさを紛らわせようとすることは大人になってもあります。 ましてや、まだ成長途中の子供の頃には心のバランスをとるために、恒常的な威圧を繰り返されたり、愛する者を不幸な形で失ったりと、心的な外傷により極度のストレスが許容量を超えて蓄積された後には、些細なストレスさえも回避しようとして日常行動が偏ってしまう行動障害に陥ったのでしょう、それもお話からは当然です。 トラウマを受けたがために、思い出すと取り乱し発狂したくないために、独り言を多く言ってでも心のバランスを維持しようとするのは、長幼に関わりなく、大人でもする防衛本能でしょう。 父親の住職様は、人の人としての最後に立ち会うことで、生業(なりわい)とされるわけですから、尊卑の境界に絶えずいるために境界型の行動障害または精神障害をお持ちなんだと思います。卑しいものを潔癖なまでに拒絶し自身が汚れるのを回避しようとする精神障害でしょう。日本の僧には、この種の職業病的精神疾患やその傾向がよく見られます。それは日本の仏教徒が仏僧を尊敬の対象にしない国柄や神道観によるものなのでしょう、仏僧は居て当然という背景から、死者の尊卑へのこだわりだけが残ってしまっただけなのが、日本の宗教でしょうし、民衆が仏僧を尊敬しているがゆえに、また温暖な地域ゆえに、托鉢やらで生活の糧を十分に施してくれる南方系仏教とは日本は違いますから。 貴女の不幸を取り戻すために、貴女が健康に暮らして行けるためにも、実家を捨てるのも選択肢ではありませんか。 貴女の幸せを祈ってます。
お礼
airplane36様 ご回答ありがとうございます。 拝読し父と一緒に生活していた当時、この人は心の病気なんだと感じていたのを思い出しました。 7年前より実家とは絶縁状態にあります。 実家から離れた当初は症状も和らいでいたのですが、時間が経つと酷くなったり楽になったりの繰り返しです。 ですが、こんな後ろ向きな事ばかり言ってられませんね!どんなに辛くても私は死ねませんでした。なら生きるしかない。再婚し幸せそうにしている父をコノヤローと思いながら、それをバネに仕事を頑張ります。 早急なご回答誠にありがとうございました。