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体罰容認派の方への意識調査
- 体罰問題がことさらに取り沙汰されている昨今、教育現場の現実を背に、生徒と向き合われている方々は戦々恐々とされているのではないでしょうか。非力ながら少しお察しもうします。
- 体罰は避けるべきだが、避けられない必要悪なのでしょうね。
- 体罰をおかした際はその罪を問われないべきでしょうか?体罰を受けたものが体罰基準を誤認し、私利的にねじ曲げようとする場合、どうすればいいでしょうか? リスク分散化のために、体罰を有資格者制度化することについてどうお考えですか? 体罰を選ばず、タイミングを待ち、作り、自らの背で語り、言葉を尽くすことには、どのような弊害が待ち受けていますか?
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永年、現場に在籍していた者として、 体罰事件がおきる背景はよく理解できます。 絶対に体罰をしてはいけないと思いつつ それでも時に手を出さねばならない場面は 確かにあります。 けれど2つのことを思っています。 (1) 殴ることは簡単だけど、情熱をもって 言葉をつくした説得が相手を変えること が大きい。部活しかり、生徒指導しかり。 殴ることは説得できない弱さ。その弱さを 暴力で従わせる。相手が反抗しないだろうと 予想しての体罰。 (2) 体罰=暴力になれると自分が何だか特別 に指導力をもつ偉い人間だと勘違いし始め ます。ここに人間的な堕落がある。 ※ ただし昔の教育現場にゆとりがあった頃、 いわゆる怖い教師が悪の生徒を殴りしかり とばし話をきいてやり説教もする、共感も してやる。遊び(レジャー)につれて行って やるなどのことができた。そんな中での、 げんこつの一発は親父のかわりだった。 今、教育現場はそんなゆとりをもたせて くれない。で、速攻の抑止効果がある暴力 が期待され、暴力で生徒を抑制できる、 教師が職員内でも高い位置につきがち。 生徒指導・部活指導の基本は話してわから せてあげること。わかったときの生徒は とても良い顔をします。
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NO2 かえるぞうです。 ご質問がありましたので、解答させていただきます。 教え教えられる間が対等な事は有り得ないですか? <体罰が起こりえる関係と前提させていただきますと、対等な事は有り得ないと思います。 有り得る場合は、どんなケースですか? <叱責、叱咤も体罰の範疇(私は体罰を、軽い重いにかかわらず物理的な行使と仮定して返答させていただきました)とするならば、目標目的を共有し、それにより近づく事を協力しあい、お互いを尊敬理解しあう仲間意識のある人ならば、教え教えられる間が対等であると考えますが、教える人がその行為により優越感を感じたり、教えられる人が嫉妬や劣等感を持った時点で対等な関係にならなくなってしまう(程度の高低も関係)と思います。 質問者様は、体罰資格制度にも言及されておりましたが、資格があったとしても所詮人間のする事です。人間は必ずミスをする動物ですから、そのミスをさせないように、ミスがあったとしてカバー出来るように、ミスが致命的にならないように、人は様々なマニュアルやシステムを考え出しています。私は体罰を受ける側(教えられる)が、それらに対してどう感じ考えているかをデイリー単位で吸い上げ、分析判断指導出来るシステムが必要かと思います。また、前回の解答に記したように教えられる人がマインドコントロールされて、正当な感情判断が出来ない場合も鑑みて、体罰をする側(教える人)の指導内容も、体罰される側同様のシステムが必要かと思います。 私の時代の小中学校の先生は、現在に比べ時間的余裕があったと思います。現在の先生は父兄からのクレームも多く、精神を病んだり神経を擦り減らしておられ、大変気の毒だと思います。しかし、子供は日本の「宝」です。日本の将来への「希望、夢」です。教師という職業を選んだからには、誇りと自信を持って子供たちを指導していただきたいと思いますね。
仰られたい事の主旨は、大体理解出来ます。 たくさんご質問がありますが、この問題で一番重要な部分は >体罰を有資格者制度化することについて これですね。 実際に、これが「制度になる」とすれば問題が起こる。 しかし、これが「制度にならない」から問題になる訳です。 あなたのご質問を、分かりやすいように例えて見ましょう。 例えば、「完全に体罰が否定された世界」と「完全に体罰が容認された世界」に分けたとします。 体罰否定派の方は体罰の無い世界へ、体罰容認派の方は体罰のある世界へ。 非現実的だと言う話は置いて考えても、要は「これで完全に問題はなくなるか?」と言う事です。 恐らく、完全に体罰が否定された世界に身を置いた人間の半数は、体罰を与えてしまう事情に出くわすか、もしくはそれを求めるようになるでしょう。 そしてその反対に、体罰が完全に認められた世界に身を置いた人間の半数は、体罰の理不尽さを訴え始めるか、もしくは体罰を否定するようになるでしょう。 人が人を好きになる感情があるように、人が人を嫌いになる感情も同じようにあるのです。 どちらも人の根源たる本能、感情なのだとすれば、どちらか一方を強制的に排除する事は、「人の本質を理解していない」と言う事になるのだと思います。 あなたが仰った「必要悪」 これは、本来どちら側の人間に取っても、どちら側の人間に対しても言える事なのだと思います。 >現実問題として >千の言葉を重ねるより >拳の一降りの方が状況を変えうることがある それが、体罰の悪い面であり良い面でもありますね。 一人の子供に千の言葉を重ねている間、周りの子供達に対するフォローはどうするのか? 体罰を与えるくらいならば、それでも構わないというのであれば、徹底的に千でも二千でも言葉を重ねれば良い。 しかし、現実は周りの子供の保護者がそれでは黙っていないのです。 世はすでに「体罰徹底排除」の方向に動いています。 それも「教師、指導者」のみの体罰に今は標準が置かれております。 いくら「教員資格がある教育者」とは言え、元を正せば一人の人間。 人間の本質を理解していない今の風潮は、今後どのような弊害をもたらすのか。 それは際限なき綺麗事を呼び、いずれ自らの首を絞めることになるでしょう。
お礼
すみません、お考えに及べていません。 更にお教え頂ければありがたいです。 私のような稚拙なものには難しいので 体罰を銃に、規制された社会を日本、 放任された社会をアメリカの適切な州に 例えて頂けれないでしょうか? この例えは不適切でしょうか? ご教示をお待ちしています。
私は、体罰容認派です。しかし、体罰とは何を持って体罰というのかが、ハッキリしていませんけど、スポーツ指導において如何なる時も手をあげるべきではないと、多数の方が言っていましたから、軽さ強さを問わず相手に物理的な力を及ぼす行為が体罰であるとします。私は今年54歳になりますが、私の年代で幼少期に躾として体罰を受けなかった人は、ほとんど皆無だったのではないでしょうか?私は小学校高学年から大学までずっと運動部でしたが、しごきと体罰は当たり前で私自身と最後まで部に残った者も、嫌だ苦しいと感じながら体罰しごきを強くなるため、うまくなるため、試合に勝つために当たり前な事と思っていました。しかし、体罰しごきを認めなかった人たちは、自分の意思で辞めて行きました。現在問題になっている桜宮高校の生徒、ご父兄の発信に対し彼らはマインドコントロールされていると言った方々もいらっしゃるので、私自身もマインドコントロールされていたのかも知れませんね?私は体罰を考える上で、体罰はする方とされる立場が対等では起こり得ないと思います。躾、教育、スポーツ指導全て親、先生、コーチ監督と立場が対等ではありません。特に幼児、児童は受け身の要素が高く、第3者に不当性を訴えるすべを知りません。故に体罰をする側に細心の注意が求められます。まぁ、私は悪いことをしたら、両親にひっぱたかれましたけど、そこに何てことしてくれたんだという怒りの感情は、間違いなくあったと感じましたけど、それを恨んだり怒ったりしましたが、悪ガキだったので日常茶飯事のせいかいちいち引きずったりしませんでした。やはり両親が好きだったので…。教師の体罰は、小学校高学年時でしたけど、習字の教頭先生と担任の先生。教頭先生は何も感じませんけど、担任の先生はやはり大好きな先生でした。その先生は宿直の時生徒を呼んで一緒に遊んだり、公私に渡って交流してくれました。好きで尊敬する先生の体罰は、何故自分が怒られたか素直に向き合えました。あと、厄介なスポーツですけど、毎日身近にいるコーチ監督ならば、ある程度生徒の性格や能力を把握していると思いますから、この子は体罰するしたらいけないの判断出来ると思います。しかし、自分のために学校を有名にするためといった指導者は、一人一人に愛情かけている暇がない人なので、そういう学校はダメです。非人間的な扱いをされても、一芸で身を立てたいお子さんは、無理だと思ったら辞めましょう。
お礼
ありがとうございます。 教え、教えられる間が対等な事は あり得ないですか? あり得る場合はどんなケースですか? お教えください。
- yasuto07
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あなたの立場が表明されないとね、先生側なのか、家族なのか、反対はなのか、、、。 躾ができてない子が多いのでは、意味わかりますか、、、。 やってはいけないこと、弱いものいじめをしない、、、。サボらない、ズルしない、だらけない、、、。 上の質問をどう改善しますか、、、。本来は親がすべきことをせずに、野放しで、学校へ。 学校は、猛獣がいる、動物園状態、、、中学なら、皆制服を着せられている、、。 反抗心は、うちに秘められていることでしょう、、、。そのことをどうするか、、、論議を尽くしてからでしょう。 私は、、子供の頃、お灸をさせられた、尺八,しない、テレビの足、梱包用イタ、木刀、冷水、いろいろやられましたよ。 イギリス映画では、高校くらいでもお尻にムチを当てますからね、なぜ、日本だけ騒ぐのかわかりません。
お礼
お越しくださりありがとうございます。 私の立場が、皆様の心情に影響を与えうるのか 私などが居ようとも居なくとも 皆様の過去、経験に 何がかわり得るのでしょうか? 分からないのですか… とは言え、お答えせざるを得ないようですね ここでの私の立場はインタビューアーです。 私生活の立場は 規約をご参照ください、公開を推奨してないと思います。 あと、仰る意味がわかりません。 イギリスをあげて根拠とされていますが アフリカ北西部に長らく内線が吹き荒れた頃、 人殺しそのものを楽しむ風潮が一部に現れたそうです。 また、女性の就職をよしとしない地域は 列挙にいとまがありません。 アメリカの州には大麻合法とするものか少なからずあります。 イギリスでいいから日本でもいい アメリカでいいから日本でもいい アフリカ北西部で一般化しつつあるなら日本でもそうあるべきだ 世界の多くの地域で女性就労を規制しているから 日本でも規制すべきだ と、言う意図と とって構わないのでしょうか? わたしはこれら全てに異をとなえたいのですが、 お許し頂けなのですか? 視点を変えましょう。 他でやってるなら自分もしていい ならば、誰かに人が殴られていたなら 止めるどころか、一緒になって殴っていい いや、むしろ殴るべきだ。 と、こういうことでしょうか? 何を肯定し、否定している発言をしているか ご自身で理解されているのか 分かりません。 理解してなお、発言されているとするなら、怖いですから。 ところで、尺八とは楽器演奏だ と、信じたいのですが… 私はこれ以外に1つしか思い付けません。 演奏ではないとするならば 確実な虐待ですよね? この地球上の日本以外の全ての地域で 仮にその種の行為を容認推奨したとしても この日本では許すまじ行為だ 仮に体罰がなくせない人の罪、業だとしても パワハラ、しかもそれをもとに極々個人的な欲求を満たそうなど 言語道断。 そんな事を容易にさせ得るシステムは 許すまじですよね?
お礼
ありがとうございます。 恐らくご経験された内の 極々一部ですら 私などには思考が及ばない そう思いますが、 それでもなお、 なお、この稚拙なものにすら 伝わるものがあります。 ありがとうございます。 ところで、 今の教育現場は 求めがあって現状に至った要素がある。 それ、つまりこのもととなる求めが 仮に極一部しかなされていなくても 現状が必要にかられた結果のような気がしています。 しかしながら、 現場にゆとりがなくてはいけない これも事実な気がします。 これ等は二立背反なのでしょうか? それとも、 両立策はあるのでしょうか? さらにご教示を頂ければ幸いです。