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日本人って・・・

日本って、宗教が形上(お葬式の時など)は浸透していますが 本当にその宗教を信仰している人って 他の国に比べると少ない気がするんですがなぜですか? (仏教がクリスマス、初詣、結婚式を教会で挙げる・・・) 私も上記に上げるような人間ですが・・・。

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  • sucanty
  • ベストアンサー率40% (6/15)
回答No.5

まず、日本で生まれた宗教じゃないからではないでしょうか。 それから、日本は昔から"八百万の神(ヤオヨロズ)"などと言って 『千と千尋の神隠し』みたいに  あらゆるもの(山、川、水など)に神(精霊?霊?)が宿る みたいな考え方があるからではないでしょうか。

ichigoga2ko
質問者

お礼

回答ありがとうございました。 "八百万の神"。そう言われれば、そんな気がしますね。

その他の回答 (7)

  • aoneko
  • ベストアンサー率52% (65/125)
回答No.8

井沢元彦さんという人が、日本人に独特な宗教感情「言霊信仰」について、なかなか説得力のある説を展開してますので、ちょっとご紹介します。 たとえば、 ・運動会の前の日に誰かが「明日は雨だろう」と云ったとき、「イヤなこと云うなぁ」と私は思います。そして本当に雨が降ってしまったとき「お前があんなこというから」とツッコミ入れちゃいます。 ・太平洋戦争中に「この戦争は負ける」と口にすることはタブーでした。云えば本当に負けてしまうと考えられ、云うだけでもう非国民呼ばわり。 ・日本では有事法を立てることが難しいところがあります。「万が一他国に攻め込まれたとき…」という仮定を立てようとするだけで、お前は戦争が起きてほしいのか、と「軍国主義者」のレッテルを貼られてしまいます。 ・差別語さえなくせば差別はなくなる、という考えがあります。 ・結婚式では「切れる」「別れる」「死ぬ」などといった言葉が忌み言葉として避けられます。キリスト教の挙式では「死がァ二人をォ別つまでェ」とお坊さんが云いますが、やっぱり披露宴ではアウトです。etc. 「言葉を云うことでそれが実現する(気がする)」という心の働きを「言霊信仰」と呼んでらっしゃいます。 よく考えないまでもおかしいなぁと思うことばかりなのですが、日本では今でも一番深く根付いてる信仰じゃないかしら。 この言霊の支配の下に、神様も仏様もキリスト様も上手に組み込まれているのが日本の現状なのかもなーなんて思います。 ちなみに文化庁文化部宗務課「宗教年鑑」(平静11年度)を見てみましたら、「信者総数」は2億1402万8千人。日本の総人口(1億2668万6千人)の2倍近い人が何らかの信仰をもっているそうです。なぜ?(笑)

参考URL:
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Akiko/3770/kotodama.htm
  • poor_Quark
  • ベストアンサー率56% (1020/1799)
回答No.7

 日本人は無宗教を標榜する人が多いと言われます。他国の人から宗教を聞かれて返答に困り結局「無宗教です。」と答えたときに相手から怪訝な顔をされるといったエピソードもよく耳にします。ではほんとうに多くの人が無宗教なのかというと、そうとも言いにくいと側面があると感じます。日本の正式に登録された宗教団体に属する人数をすべて合計すると総人口をゆうに超えるとか。こういった現象をどう捉えるか、ということに関して社会心理学上の多くのアプローチがありますが、私なりに考えるところがありますので、少しだけ参加させてください。  宗教には、緻密な教典や系統化された厳密な儀式などによって構成される創唱(そうしょう)宗教と、自然発生的な風習によって成り立っている自然宗教があると言う意見があります。(この場合の「自然宗教」はアミニズムや自然崇拝宗教とは違います。これについての説明は、文末に紹介したサイトで詳しく読めます。)日本人は自然宗教に特になじんできた歴史を持っているといいます。  ほとんどの人が年始には初詣、結婚式や葬式には宗教風の儀式を行い、クリスマスは盛大に盛り上がるといった宗教風セレモニーがあふれかえっている状況は、他教徒から見ると無節操とも見えるかも知れません。しかしそれぞれに独自の背景と理由があり、ならではの歴史的・文化的背景があることも否めません。  野生動物の世界では個々の動物の生死はたんなる自然現象であり、生きることの何らかの意義や、死に対する明確な負の意識を持つことなどなかったのかもしれません。それに対して人間は、自他を区別する明確な自我意識を持ち記憶という能力を身につけ、その延長に時間の概念を獲得します。そしてほどなく「生きている者は皆誰しも死なねばならぬ。」という厳然たる命題に到達したのだと思います。  社会集団の中から生じる軋轢などが生み出す不条理や「死」そのものに対する合理的な理屈付け、「死」の恐怖からの逃避するための理論体系は生きていく上で必要不可欠なことだったに違いありません。その証拠に地球上の多くの場所で文明社会が出現しましたが、その一つ一つに例外なく系統だった理論を伴ってさまざまな宗教が発展してきたことを考えると、あながち否定できないと思います。  古代の日本においてはムラという社会集団の維持のために、自然発生的に作られ守られてきたルールは日本独自の自然宗教のもつ心理的特性を非常にうまく利用しているとも思えます。先祖をうやまい、その先祖を祀るリーダーが、集団そのものの政治的指導者であり、そのようなルールを通じてたいへん結びつきの強固な集団へと発展し、それが国家という集団の萌芽になったとききます。もちろんこの段階では自然宗教でも、時を経て洗練され系統だった理論が導入されれば創唱宗教へと発展した可能性はあったと思います。  しかし国家の萌芽と同時に隣の大国である中国の巨大な影響にさらされることになります。6世紀頃には仏教が伝来し、同時に人的交流を通じてその文化が移入されると宗教分野でも、中国の大きな影響下にあったと時期が続いたのでしょう。   中世の日本では参考URLにも触れられている通り、キリスト教に対する残虐行為を伴う弾圧の歴史が大衆を宗教から遠ざける背景となった歴史的経緯があります。あるいは、もしかしたら中世の東南アジアにおいてキリスト教の布教という行為が、その地域の植民地化の前駆的現象であったことを、当時の日本の為政者はどこかで感じ取って不快感を持ったのかも知れません。もしそれらが事実だとすると、キリスト教社会から見て、終始独立を守った日本は原理的に無宗教に導かれたと言えなくもないと思います。  仏教から見るとどうかというと、よくは分かりませんが仏教では個々の魂の救済ということが大きなテーマの一つになっているように見受けられます。東洋的個人主義の萌芽が種々の歴史的仏教大衆運動の中に見られるとすると、中世の為政者にとってはあまり好ましい存在ではなかったのかも知れません。江戸時代の寺社は住民の戸籍管理の役所のような役割が与えられ、大衆にとっても身近ではあるが精神のよりどころとなるべき場所とはほど遠い存在であったはずです。  また武家社会の終焉とともに体制と結びついた儒教はなりを潜め、明治時代の廃仏毀釈がもたらした混乱や、第二次大戦の敗戦などにによる国家神道の否定といった歴史を通じて日本人はさらに創唱宗教と縁遠くなってしまいましたが、一方の自然宗教に関してはほとんど禁止されるような経緯がなかったのだと思います。そうした経緯があり自然宗教が広く現象化する私たちの社会ができあがったのでしょう。多くの日本人にとってクリスマスやバレンタインデーといったイベントは本来宗教とは縁もゆかりもない商業的なお祭りですが、創唱宗教と表面的につきあうテクニックを歴史的に身につけたわれわれ日本人にとって、あのような騒ぎは造作もないことなのかもしれません。  中世キリスト教とときの権力との結びつき、日本の武家社会と儒教の結びつきなどを見ていると、成熟した社会では宗教と政治権力は結びつきやすいという現象が原理的に発生するのではないでしょうか。信仰の対象や儀式のやり方が固定化された創唱宗教を忌避し、その時その時の都合で大衆が自由に信仰の対象や儀式の方法を選択できる自然宗教とは、ひょっとしたら、ほんとにひょっとしたら日本の大衆が政治権力と対等に対峙するための大いなる知恵だったのかも知れないと考えると、個人的には非常に楽しいと思うのです。たぶんけちょんけちょんに批判される理屈でしょうが。そのような批判を読むのもまた楽しいと言うことで、半日迷った末に蛮勇をふるって投稿することにします。最期まで読んでいただき感謝します。 http://www6.plala.or.jp/uno-peso/HISHIN7.html

参考URL:
http://www6.plala.or.jp/uno-peso/HISHIN7.html
  • noribou11
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回答No.6

別に日本人が宗教意識がないというわけではないんですよ。 私の友人のイスラム教徒はクリスマスも楽しむし初詣にも行きます。 なぜかというと文化や伝統だからだそうです。別に初詣に行って 拍手を打とうがそれはマナーであって信仰ではないそうです。 彼が唯一拒絶するものはヒンドゥー寺院に入ることです。 なぜなら彼はバングラディッシュのイスラム教徒であるため 対抗心はキリスト教よりもヒンドゥー教の方が強いからです。 同じことは創価学会員の友人にもいえます(私は禅宗ですけどね) 彼女はファッションとしてロザリオをかけ、クリスマスにはケーキを食べ、 バレンタインにはチョコを渡します。でも、神道儀式と認識している 初詣には絶対に行きません。要はその行動と自分の心の距離なんですよ。 身近な存在であるほど対抗心が強くなるんですね。 よく、日本人はキリスト教徒でもないのにクリスマスを祝うという 意見がありますが、私は疑問です。多くの日本人は心からクリスマスを キリスト教の儀式と見なしていないからです。ただ単に風習として 真似をしているにすぎません。ドイツのオクトーバーフェスタだって 同じですよ。本来は感謝祭なんだから宗教儀式で田舎だと教会を中心に お祭りを行うのですが、ミュンヘンの競馬場に作られる会場では 各テントでバンドマンを中心に大騒ぎ。年輩の方が民族衣装で来ることは あっても全体的には宗教の臭いはぜ~んぜんしません。(馬糞臭いけど) まあ、日本人が宗教に無関心なのは布教意識が低いからです。 日本だって戦国時代までは各宗派が積極的に布教を行っていました。 それが一転、江戸時代に入ると檀家登録制度が誕生しました。 これによって、それまで人単位だった宗教が地区単位に変わりました。 人口が多い都市部は比較的自由だったんですが、田舎は強烈で、 真言宗である弘法さまを祀ったお堂をその地区の菩提寺である 臨済宗の寺院が管理したりしていました。 江戸時代は住居移動の自由もありませんから 寺院にしてみれば檀家という安定した収入源があるので布教活動を 行うこともなくなりました。それでも江戸時代は寺院は地元の公共施設で あったのですが、明治になる武士の間で伝えられた朱子学(儒教)も 武家の崩壊で崩れさり、規制も緩和され廃仏棄釈の一方で 新興宗教が活発となります。当然、廃仏の仏教は目立つ行動はとれず、 従来の活動のままで寺院が公共から住職の個人施設となっていき やがて血縁相続が当たり前になってきます。こうなると増々、 一般人と聖職者の距離が開いていきました。 また、欧米では三大学部といえば、神学部、法学部、医学部というように 神学という哲学を大マジメに学んでいましたが、日本はというと 高校くらいまではミッション系の学校でも仏教系の学校でもちゃんと 神学の授業があるのですが大学レベルで神学が一般的かというと そうでもありません。専門学科に進むのは寺院の息子女ばかりですからね。 で、布教活動に熱心なのはインチキ宗教を含む新興宗教ばかり この手の宗教は、やたらと心の幸福を説く。宗教って幸福だけが目的か? 創価学会の会員と議論しても「それであなたは幸福になれるんですか?」 が必ず登場します。宗教には幸福以外にも道徳や自律の精神があるのにね。 こうして宗教家=心が弱い人、神さまに助けを乞う人というイメージが 強くなってしまいました。ここのサイトでも宗教系の質問があると 多くの人が宗教に否定的な意見を述べます。でも、ちゃんと勉強して 矛盾点を書いているわけではなく、ほとんど、思い込みだったり イメージだったりしています。 こんな感じで信仰心が厚い人はおかしい人というイメージがあり 結局、無宗教化へとつながっているんだと思います。

  • acacia7
  • ベストアンサー率26% (381/1447)
回答No.4

全能で絶対の神が居るとかいうことを信じて居る人が少ないだけでしょう。 本当に土着の神道はかなり深く根付いていると思いますよ。 ただ、その神道に教義みたいなものが確固としてないために、 お祈りしなきゃいけないとか、断食しなきゃいけないとかがないのです。 神道が根付いているのはどこからわかるかというと・・ 「たたり」とか「霊」とかそういうのはちょっと気になるでしょう? 心霊スポットに人が集まったりするのもその影響。 結構原始宗教が根付いているからいわゆる高度な宗教が入らないのです。他の宗教が入らないっていうのは、それだけその宗教に対する信仰心が厚いともいえると思います。

  • ZhakTin
  • ベストアンサー率30% (48/155)
回答No.3

日本は自然崇拝が強い国で、外から来た輸入神もその中に取り込まれてしまったのかなと考えます。 「神様仏様キリスト様!」ってお祈りするし、七福神はヒンズー教。 菅原道真のような実在の人物を祭る中国的な習慣(道教?儒教?)もあるし。 山神、雨神(竜神?)、日神(天照?)、その他あまたの神様の仲間が増えた!程度にしか考えていないのではないでしょうか。 そもそも日本では、一般信者に対する規律戒律がほとんど無いような気がします。 神道(神社)と仏教(お寺)がはっきり分離したのも、たしか明治時代以降だと聞いたことがあります。 それまではごちゃ混ぜだったと。 また、一神教というのはたいてい政治的な力を持っていて、マスメディアが無い時代の法律・政治広報のような役目をもっていたみたいです。 日本ではそういうことが無かったことが、原因の一つだと思います。

  • fujishiro
  • ベストアンサー率28% (162/574)
回答No.2

別に日本が特別ではないと思いますよ。本当に宗教を選択して信仰しているという人は別に世界でもあんまりいないんじゃないですかね? やっぱり、地域で、とか親親戚が、とか自然に、思考の基礎から入ってくるものではないでしょうか? 日本の宗教は日本教でしょう。 皆さん、お金が第一だと信じているじゃないですか(笑) 神なんかいないと思ってるでしょう?逆になんの根拠もなく。 しかもちゃんと日本教のイベント(日本型クリスマスとか…)に酸化してるし…。キリスト教でミサに行くようなもんでしょ? 熱心なものですよ。

  • nozomi500
  • ベストアンサー率15% (594/3954)
回答No.1

日本人って、昔から、理屈抜きに、「みんなが○○だから、○○」というのに染まっているんですよ。 ○○教の教義ではどうだこうだ、というのをいちいち考えない。(どこかの宗教に熱心なおばさんたちをみても、名誉会長が○○というから正しい、みたいな信じ方です) アルカリイオンなんとか・・・、なんてのを信じている人たちも、アルカリイオンって何か知らずに、○○さんがいいというから、なんてことで広がっている。 もとは、稲作文化で「みんなでいっしょにやらないと仕事にならない」というへんからきているのだと思いますが。

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