私は1950年代前半の生まれですが、格差そのもので言えば私が子どものころの方がずっと大きかったと思います。小学校のクラスには晴れでも雨でも同じ長靴で登校してくる貧しい家庭の同級生もいれば(体育の時間ははだしです)、家に遊びにいくと当時はまだ珍しかった立派なマイカーや多数のゴルフセットがあるような裕福な同級生もいました。
ただし、ここがこの問題の微妙な所ですが、経済の高度成長の時期にさしかかっていたこの時期、人々は格差が相対的に縮小するにつれて逆に格差を気にするようになりました。例えばテレビの普及率が一桁の時代には、テレビを持っているのは裕福な家庭でしたので「うらやましい」とは感じても「我が家とは無縁の話だ」と思っていました。しかし普及率が伸びて近所の家の屋根にも次々にアンテナが立つようになると、「何でうちにはテレビがないのだろう?」と子どもごころにも思うようになり、友達の家でテレビを見せてもらっている我が子の姿を見た親は多少無理をしてでも月賦で白黒テレビを買いました。
今から思えばその当時日本経済の成長に伴って将来はもっと豊かになるという漠然とした期待感はみなある程度共有していたと見られます。池田内閣の所得倍増論が話題になった時代で、その後これはほぼ実現しました。その後、縮小傾向にあった格差(例えば勤労世帯の所得)は再び拡大傾向に転じました。この時期はジニ係数などの統計から1980年代以降とされていますが、私の実感としてはいわゆるバブル経済がはじけたあたりからです。
日本社会の格差の問題を考える場合、外国の格差や日本の過去の歴史と比較して格差の大小を議論するのには限界があると思います。というのは一般の人々が考えているのは、あくまでも現代(その時代)の日本社会の格差(他者との比較)であり、外国との比較や50年前100年前の日本の格差の実態との比較ではないからです。
その意味で現在の日本は、統計などで見る限り、80年代以降の逆転拡大にもかかわらず格差そのものは50年前と比較して相対的に小さくなっていると考えますが、「将来はもっと豊かになって格差も縮小する」という期待感は明らかに小さくなり、閉塞感も強まっていると感じます。「体感治安」という言葉があるなら「体感格差」という考え方も可能で、これは明らかに拡大しているのではないでしょうか。
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どうもありがとうございました。