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戒律

原始仏教の戒(律)に「お酒を飲まない」というのが有りますが, 今の日本では実情に合わなくなっているのでしょうか? それともやはり仏教徒としては守る事が大切なのでしょうか? 出来ましたら「嘘をつかない」についても教えてください.

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  • neil_2112
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回答No.4

かなり混乱がありますね(笑)。 何からどう書いていいかわからないのですが、とりあえず大事なことだけ列記してみます。 まず、戒と律を混同してはいけません。戒というのは宗教的な行動の規範で、個人的なものです。 それに対して律は集団生活上の規則ですから、いわば法律のようなものです。戒の運用則や、戒を守らなかった場合の罰則までもが律に含まれます。ですから、戒のほうは出家者だけでなしに在家の者まで対象になるのに対して、律のほうは教団の一部である出家修行者のためのもの、ということになります。 上座部仏教の戒には、在家者向けと出家者向けのもの両方があります。既に出ているように簡単な5戒が在家者向けに説かれたものです。一方で出家者にはより複雑な戒があって、大人の場合には代表的なものは比丘(男性出家者)250戒、比丘尼(女性)348戒がありました。 この戒それぞれに運用規則が決まっていたのです。戒に応じて罰則は段階的で、例えば人を殺した者は波羅夷(はらい)といって教団から永久追放されましたし、殺人を教唆すれば僧残といって一定期間の追放を受ける、といった規則が決まっていました。 波羅夷の対象は4つあって、殺人、性行為、盗み、それから大妄語といって悟っていないのに悟ったと吹聴すること、です。重い罰則があったということは、つまりこれらの行為が宗教的にも集団運営上も根本的な罪である、とされたわけです。 5戒とこれを比べてみるとわかると思いますが、ここには飲酒の罪は含まれていませんし、また妄語の禁止も、「悟った」という嘘をつくことが重い罪なのであって、それ以外の嘘一般は、より軽い罪でした。これらは適宜判断されたのですが、ふつう波逸提(はいつだい)とか悔過(けか)など、懺悔が必要ですが比較的軽い罪の扱いでした。 誤解を招く言い方かもしれませんが、そもそも戒律というのは、釈迦の教えの根本というわけではないのです。釈迦在世のうちに制定されたことは事実です。ただ、同じ教えを信じ行じる者たちが集まって集団で生活するなかで色々と問題が起こるわけで、新しく問題が起こるたびに整い、段々と細かになっていったのが戒律です。律の経典には罰則の起こりが、問題を起こした当の弟子の名前とその行状もろとも書かれています。あくまでも問題を受けて事後的に整備されたもの、なのです。 つまり戒というものも、そのままが教えなのではなくて、教えを体得するための条件整備のため、というような位置づけだったのです。ですから、戒を教条的にただ固く守ることが大事だったのではなくて、その運用にはもともとある程度の幅があった、と言えるものです。 例えば不妄語戒というのは「誠実な人間関係を営む」というのがむしろ目的ですし、不偸盗戒というのは「ものに執着しないこと」、不飲酒戒も「心身を健全な状態にしておく」ことが重要とされたわけです。特にこの不飲酒戒は比較的後になってから制定されたものと言われます。他の戒と比べれば重要度がさほど高くなかった、といってもいいのでしょう。 釈迦は自分の教団をよく「よき友の集まり」と称したり、「よき友の中にいることが道の全てである」と教えたりしています。波羅夷のように根本的なものは論外としても、戒も律もあまり細分化される必要のない、そんな「よき友の集まり」であることが釈迦の理想であったと言えます。裏を返すと、一部の大乗仏教での戒律軽視の感覚は、ある意味、釈迦の考えに通じるところがないわけではないのです。 ちなみに、大乗戒というのは何種類かありますが、基本的には上座部の戒ほど数が多くありません。比丘250戒のうち最重要なものを抜き出した十禁戒(十善戒ともいう)というものを中心に、利他行という社会的な善の実践を説くものを加えたものとイメージすればよいと思います。 それから、誤解されやすいので書いておきますが、密教は別に戒がないわけじゃありませんよ。密教と欲望を肯定するタントリズムは重なる部分もありますが、もちろん完全にイコールではありませんし、現在残っている密教はかなり純化されたものです。 詳細は避けますが、日本について言えば、例えば真言宗も天台宗も、葬儀の際に亡者に戒を授けることになっています。真言は5戒、天台は5戒を含んだ独特な円頓戒を出しますから、密教が飲酒を許しているというのは全くの誤り、です。

hosifuruyo
質問者

お礼

込み入った質問に、懇切丁寧に教えていただきましてかなりすっきり致しました. 本当にありがとうがざいました. 実はこの数ヶ月間、上座部の瞑想法にひかれて、自己流ですが、毎日修行と思い、瞑想に取り組んでいます. ところが、上座部の瞑想法をすすめているどのサイトにも、「5戒を守る事が、瞑想を進めていくためには不可欠な前提」とありますので、このところ、少しばかりどうしたものかと、考え込んでいるのです. お酒は付き合いで飲むことも多く、人間関係をスムーズにするため軽い嘘にあたるような事もいっている場合が多いと思います. 不飲酒戒を「心身を健全な状態にしておく」・不妄語戒を「誠実な人間関係を営む」と読み替え、日々を暮らしていけば、今の、日本の実情にも合いますので無理が出ないかと思えますが、、、。  もし一応戒を守ろうとするなら、いかに罪が軽いとしても「酒をもったく飲まない」等として置かないと対応が難しくなるような気がします.やはり、程度にこだわりつつ戒を守ろうとする方があいまいで生活しにくいように思います. 恐らく、このように迷うような事なら、それこそ戒を守るという事の目的とした安定した心の状態からより遠ざかるようにも思えますが、、、? インドと日本の文化の違いが関係しているのでしょうか? それなら日本人にあった戒を選択して守るようにした方がいいのでしょうか?

その他の回答 (3)

回答No.3

原始仏教での戒律は、僧だけのものだったはずです当然、釈迦の教えです、しかし釈迦が涅槃に入ったときに戒律は 変えても良いと言ったと伝えられています、上座はまだ保守的ですが大乗に成ると多くの教団(宗派)に分かれていきます、特にタントリズム(密教)を取り入れた教団は酒を飲んでもかまわないはずですけど。

hosifuruyo
質問者

補足

ありがとうございました. 僧以外には戒律はなかったのですね. また 密教系はお酒への禁止条項はないのですね. 勉強になりました.

  • void2000
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回答No.2

 今も昔も、仏教の目的は悟りを開くことです。  戒律というのは、悟りを開くための方法ではなく、悟りを開いた人はウソをつかない、お酒を飲まない、生きものを殺さない、不倫をしない。悪口をいわない「はず」だ、ということです。目的を達したあとの生活習慣のことです。だから強制はされていません。  ウソについては、自分の利益のために人をだますことを妄語といって悪いことになっています。しかし相手の利益のために真実ではないことをいうのは方便といって、良いこととされています。  教条的にあれが悪いこれが悪いと言っているのではありません。

hosifuruyo
質問者

お礼

ありがとうございました. ただ、わからないのは、以下のような上座部系のサイトで「悟りを得るためには5戒を守る事が大切。」とありましたので、混乱をしてきて質問をした次第です. http://www.j-theravada.net/index.html お答えいただいたのは、大乗系のものに近いのでしようか?

noname#13376
noname#13376
回答No.1

現在の仏教と、原始仏教は、ほとんど別のものといえそうです。 たとえば、仏陀は「輪廻からの解脱」、つまり、悟りによって生と死を繰り返すことから脱却することを目指しましたが、現在の仏教は、 ・よりよくいきること ・死んで仏になること が目的になっているようです よって、お酒を呑まない、とか、嘘をつかないとか、そういった戒律は、その時代その時代の都合というと乱暴ですが、「教団」の教えであって「教祖」の教えではない、ということなのでしょう。

hosifuruyo
質問者

お礼

早速ありがとうございました. 申し訳ありませんが,重ねて教えてください. 1、>悟りによって生と死を繰り返すことから脱却する ということがわかりません。悟りといいますと「縁起」や「無常」等の仏教の真理が深くわかることかと思いますが、どうしてそのことで生まれたり死んだりしなくなるのですか?輪廻しなくなるのはそこに何らかの力がいるのではないかという感じがしますが...? 2,>「教団」の教えであって「教祖」の教えではない ということは,嘘やお酒の戒は仏陀の教えではないという事なのでしょうか? 以上の1、と2、は上座部仏教からいうとどういうことになるのか教えてください.よろしくお願いします.

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