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往年の大横綱大鵬 32回の優勝回数を誇った安定感
- 往年の大横綱大鵬が亡くなりました。柏戸とともに「柏鵬時代」を築き、優勝回数史上最多の32回を数えた安定感は、まさに横綱の鏡でした。
- 大鵬は巨人・大鵬・玉子焼きという言葉を作り、一種の社会現象にもなるほどのオールジャパンのメジャーなカリスマ的存在でした。
- 大鵬とその時代の思い出を教えて頂ければ嬉しいです。私は、当時小学生でしたが、大鵬の取組が始まると、(滅多に負けないのに)、もし負けたら嫌だと言って、こたつに潜り込んでいました。
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大鵬の思い出 66歳♂ 巨人・大鵬・卵焼き世代です。 【横綱 大鵬】は郷土の英雄とともに私の心の英雄です。 札幌出身の私は子供の頃、夏巡業で大相撲が来たときは お相撲さんの宿舎(旅館)へサインを貰いに毎年のように 行っていました。 力士はなかなか近寄りがたいものですが大横綱の大鵬は 子供には優しく、手招きしてサインを書いてくれたものです。 子供の頃の私の宝物の一つに大鵬のサインが3ヶ所にある サイン帳でした。 大横綱 大鵬の死によって「昭和は遠くなりにけり」でしょうか?。
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- yuu6139
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私が小学生の時、国技館に相撲を見に連れて行ってもらいました。 その時、通路にいたのが当時大関の大鵬でした。若い衆と立っていましたが、大きな白い体が 赤く染まっていたことを覚えています。
お礼
大鵬にはロシア人の血が流れていますから・・・真っ白な肌だったのですね。 あの甘いマスクが女性に人気だった理由ですね。 そう、スポーツ選手でも「甘いマスク」で且つ「強い」というのが、人気のバロメーターだと思うのですよ。
大鵬が引退した後の話ですw。多分1973年頃だったか?初めての相撲見物、九州場所を見に行きました。一番人気の大関初代の貴乃花が見事なうっちゃりで勝ち、場内を沸かせました。そのあとは横綱北の富士の出番でしたが、ぞろぞろと出て行く観客が多く、それを嫌な顔で見送っていた横綱のさびしげな顔が印象的でした。 突然場内が沸きました。後ろを見ると、断髪式を終えたもと横綱大鵬関が大きな背広姿で観客席の中に座っていました。多分、NHKの解説員の見習いのような立場だったと思います。
お礼
さばさばして気さくだった横綱北の富士より、辛抱の大関貴ノ花の方が人気があったようですね。私は、あまりストイックな人間は好きではありませんが・・・日本人の大勢とは違いますので・・・。 大鵬の背広姿、私も記憶があります。
- hyakkinman
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アンチ「巨人・大鵬・卵焼き」です。 彼らのおかげで、判官びいき体質が染み込みました。 「南海・佐田の山・納豆」と、言っていました。 No.2の男たちが大好きです。 でも、No.1あってこそですから、彼らには強くあってほしいと思いますが… 「強すぎる」のも、考えものです。 プロフェッショナルですから、魅せる要素も考えてほしいです。 「また大鵬か…」 相撲が非常につまらなかった記憶があります。 春日野理事長になって、北の湖と輪島が綱をはった頃が、各力士の得意技の披露会といった、歌舞伎的魅力があって、一番楽しかったです。 ライバルが柏戸でなく、先代の貴乃だったら… もっと相撲人気あったろうなあと思うと、残念です。
お礼
「南海・佐田の山・納豆」・・・ですか? なるほど、彼らも人気があり、何とか「巨人・大鵬・卵焼き」に対抗しようとしていましたね。 しかし、ぶっちぎりの一位の面々があまりにも強すぎて、興業上は、今一面白くなかったというのは言えますね。その後の北の湖も強すぎ且つふてぶてしくて、悪役みたいに思われていて、判官びいきの人たちは、大関貴ノ花(初代)をひいきにしていましたものね。最後におっしゃっているのは、輪島から北の湖時代の初期は、まだ面白かったということでしょうか?いずれにしても、誰か強い横綱が一人勝ちしている時期より、ライバルが林立している時代の方が面白いのは確かですね。例えば古いですが、柏鵬時代の前の栃若時代とか、あとの北玉時代(玉の海の急死で終わってしまいましたが)とかは、手に汗握る名勝負がありましたからね。
お礼
ビール会社の社長さんかな? 本当に強いものには優しい面もありますからね。子供好きだったのですね。 私も高校の修学旅行で、大鵬の出身地の弟子屈に行きました。 唱和は遠くなりにけりですね。
補足
あんりゃ!「昭和」が「唱和」になってしまいました。