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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:常陸山、初代梅ヶ谷らはなぜ大横綱なのですか?)

なぜ常陸山、初代梅ヶ谷らは大横綱なのか?

このQ&Aのポイント
  • 常陸山や初代梅ヶ谷、栃木山がなぜ大横綱とされているのか疑問です。
  • 大横綱には抜群の優勝回数が必要だと思われますが、彼らの優勝回数は多いとは言えず、特に常陸山の成績は大横綱としての評価に疑問を持たせます。
  • 彼らが大横綱とされている理由は、強さや成績以上に相撲界の発展に貢献した点にあるのかもしれません。

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回答No.1

常陸山と常ノ花の二人だけの力士に限定し、なるべく手短に申し上げます。 優勝8回の常陸山は、当時のルーズベルト大統領と会見しています。幕内での勝率は9割を超えます。で、ここが重要なのですが、常陸山の時代、年間の場所は、たったの2回でした。しかも、ルーズベルト訪問の為、1場所、全休しています。更に、ポイントは、相手十分、相手の力を充分に引き出したうえで勝つという横綱相撲でした。 一方、常ノ花は、常陸山の弟子であって、常陸山御大のスパルタ教育によって、横綱になりました。 で、極め出しと吊りを得意とした常陸山に対して、突っ張り、右差しが得意でした。取り口が派手な、所謂、速攻相撲でした。どうも、横綱相撲ではないのですね。 そして、肝心なことは、昭和に入って、年4場所になったのですね。それで、初めて、優勝回数が2ケタ(10回)に乗った力士と今日ではなっていますが、当時は、年2回の関西場所に優勝額贈呈が無かったのです。つまり、正式な優勝回数に加算されていなかったのです。その4回が後年になって加えられたわけで、それまで常ノ花は優勝6回の力士とされていたのです。ですから、双葉山が10回優勝した際にも、常ノ花のタイ記録に並んだとは言われませんで、全く無視されていたようです。 また、何より不幸なのは、1場所11日の時代に3敗もしたのに優勝してしまったことでして、その後、「不敬」であるとの理由で3敗以上の力士には天皇賜杯を贈呈しないという規定まで作られました。ただし、今日では、そういう規定、外されています。 今日残る記録としては、優勝時の最低勝率記録保持者であるということ。1場所11日制での8勝3敗は、勝率0.727。そして、それに次ぐのが、平成8年の武蔵丸で、その11勝4敗が、勝率0.733なのです。

highcollar201
質問者

お礼

なるほど。常ノ花はマイナス要因があるわけですね。 常ノ花の時代は年4場所制だったのは知りませんでした。NHKやWikipediaでも双葉山の時代は年2場所制といっているので、てっきり常ノ花も年2場所制だと思いました。 >ルーズベルト訪問の為、1場所、全休しています。 これは現在ではとても考えられないです。 きちんと許可を受けて訪問しているのでしょうが・・・。 前田山は本場所を休んで野球観戦して引退に追い込まれ、朝青龍は仮病で、モンゴル帰国、サッカーをして、二場所謹慎処分となったのに、よくそんなことができたと思います。 常陸山の時代はよほど寛容だったのですね。

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