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どうして人は

※少し重い内容になっています 苦手な方、感情的な方は自己責任でお願いします。 どうして(多くの)人は他人の否をする際 自分の場合ならだとか考えたりしないのでしょうか? もしくは比べるのでしょうか? ○○よりはマシと自分に言い聞かせつつ現実逃避をしながら他人に押し付けてるようにしか思えません 個人的には 感情的になるあまりに他人を責める口実ばかりを考え、自分ならという考えに至ってないのでは無いか もしくは 単に自分ならと考える事をしようとしないだけか だと考えています 自分がされて嫌な事は相手にしない これは(多くの)人が言う「常識」「理屈」「摂理」だと思います 普段は「普通は~」「常識的に~」と言いながらも(多くの)人はそれを理解できていないのでは? とおもいざるを得ないです 例えば「馬鹿」「あほ」など あれは「少なくともお前よりは優れている」もしくは「不真面目な人などが真剣になってる人に使う」などだと考えています 結局は「あいつよりはマシだから俺(私)は~」という口実を盾にして逃げてるだけでは無いでしょうか? もし自分のこの意見が「おかしい」「間違っている」と感じた人は回答を頂ければと思います また、もし「そうかもしれない」などと感じた人がいれば少しで良いんで考えてその結論を回答頂ければと思います。

みんなの回答

回答No.3

どうして(多くの)人は他人の否をする際 自分の場合ならだとか考えたりしないのでしょうか? もしくは比べるのでしょうか? こんばんは! 上のご相談ですが結論から書きますと、相手が違う、自分が違うでは答えは出ないと思います。 なぜならNO1の方も書かれていましたが、人それぞれ十人十色だからです。 個人的には相手は自分と同じではないので何か自分に希望、また逆にやられたく無い事があれば、どんなに自分が 理不尽に感じても、まずは自分から動いて相手に変わってもらうしかないです。あなたが希望してるのであって 相手は何も感じてないのだから。 厳しい書込みであったならば謝ります。 主さんはとても深く物事を考えていられるように思うのですが、その考える方向をちょっと何かを解決する方向 に自分から頭を向けていけると、コミニュケーションがもっと広がると思ういます。

tsukiguma
質問者

お礼

そうかもしれませんね 1さんの回答で気づかされました 本当に逃げていたのは自分なのかもしれない 本当に偽善だったのは自分なのかもしれない 本当に押し付けていたのは自分なのかもしれない と 回答ありがとうございました

回答No.2

作家の田辺聖子さんが 「他人を責める人は それだけ確信があるということだけど、 そういう人は想像力が足らない。 確信と想像は相反するものだ。」と 書いてらっしゃいますが、 なるほどなぁと思いました。

tsukiguma
質問者

お礼

回答ありがとうございます。

回答No.1

あなたは、人の気持ちを考える、優しい方なのだと思います。 しかし、大事なことをお忘れのような気がします。 それは、人は100人いれば100通りの考えがあるということです。 「あほ」という言葉は、悪い言葉、と定義されていませんか? 中には喜ぶ人もいるかもしれません。 つまり、「あほ」という言葉には良いも悪いもなく、 悪いという意味を付けているのは、あなたご自身ということになります。 あなたは有識者の方だと思いますが、 自分の常識は、他人の常識だと思われているかもしれません。 「他人を否する」と解釈したのも、ご自身ですよね。 また他の人から見たら、「すばらしい激励」と賞賛されるかもしれません。 つまり、全ての感情は、貴方側にあり、コントロールできるということです。 あなたは他人のためにがんばりすぎていませんか? もしもっとご自身を大切にされたら、「他人を否する」人に対しても、 何かに苦しんでいるのかな、と逆に同情されるでしょう。 全て憶測ですので、失礼ありましたらご容赦ください。

tsukiguma
質問者

お礼

人の数だけ考え方がある そして人が他人を否するのを自分は許せない この質問は自分自身への問いかけにもなりますね 偉そうに「逃げているんじゃ?」なんて言っておきながら自分も偽善でしたね 他人の為に頑張った事は無いです 不謹慎ながら被災した人にも天罰と思いました 「なぜこんな…」などと呟く人を見ては苛立ちを覚えました 自分が救いたいと思うのは子供だけです どんなに貧困に苦しんでいても大人を救いたいとは思わないんです 不思議ですね まさに自分がこの質問の対象であるのに、他人に押し付けようとしていました 余談が過ぎました申し訳ありません 回答ありがとうございます。

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