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願いを叶える力がない
高校、大学、これから働くかもしれない職場、こういう自分の人生に関わることで、できるだけ自分の望む方向へと向かうようにしているにも関わらず、最終的には自分の思いとは逆に行きたくない高校、行きたくもない大学、働く気が起きない職場、なんか願ってもいない方へ進んでいるような気がしてなりません。 自分の思い描くように今後も進めるのか、これはすべて本当にかなえたい夢のために温存されているのか、根本的に自分の力不足なのか分かりませんが、思い通りにいかない人生って面白くないなって感じてしまいました。 それでも生きていけばよかったと感じるものなのでしょうか?
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- Kindler
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あくまで私の意見ですが「願ってもいない方へ進んでいるような気がしてならない」ことと「生きていけばよかった」と感じることとは別の問題だと思います。 自分の思い描いた通りに何事も順風満帆に進めば、それはきっと幸せなことなのだとは思いますが、実際そのように進んでいる人間なんてほとんどいません。 周りから見て順風満帆な人間もそれなりに問題を抱えていますし、数々の苦難を乗り越えてやっとその位置に達しているはずです。 「よかった」と思えるかどうかはその場その場において自分が置かれた状況でどう行動をとったか、自分がどういう姿勢で外の世界に向き合ったかによるものだと思います。 世の中自分が置かれた環境に満足している人なんてそうそういないでしょう。 皆、何かしらの不満を抱えつつ楽しいことややりがいのあることを探しているのです。 まずは、その中で面白いことを見つけていく気持ちを持ってみましょう。 質問者さんの今の気持ちではどのような環境に置かれても、それなりに不満があり思い通りにいかず「人生って面白くないな」と感じてしまうだろうな、と私は思います。 ・どの高校であれば行きたかったのですか? ・どの大学であったら行きたかったのですか? ・どの職場であったら働く気が起きるのですか? ・願い通りの環境を与えられたら満足したと自信を持って言えますか? また、望む方に向かえなかった結果を「面白くないな」で済ませられるのであればその望みはあまり重大ではないのではないかとも思います。 それが重大なことであれば望まざる結果はもっと苦渋に満ちたものですし、それに向かう努力も相当なものであったはずです。 厳しい言葉になりますが、質問の内容を見て感じることは「自分というものがない」ということです。 「なんか願ってもいない方へ進んでいるような気がしてなりません」とありますが、明確に「失敗してしまった」と言えないのは何故でしょう? 「願う」というのは受身なのです。「こうなってくれたらいい」という他者依存的なニュアンスを自然に含んでいます。 どこかしらで「自分の責任ではない」「自分の行動の結果ではない」と思っている部分がありませんか? 「本当にかなえたい夢のために温存されている」とありますが、何が温存されていると思いますか? 私は温存されているものなんてないと思います。そもそも、それは誰が温存しているのですか? 「温存されている」という表現はどこか自分のあずかり知らぬ場所で、あるいは自分の管理できない場所で残っている、という気持ちが現れているように思います。 あるのは質問者さんが「本当にかなえたい夢のために」努力して蓄積させていったものだけだと思います。 「周りが何をしてくれるか」ではなく「あなたが何をするか」なのです。 自分に主体を置いていかなければ人生が面白くないのも無理はないと思います。 まずはどうしたら自分に主体をおいた上でどう行動するべきなのかを考えた方が良いと思います。 あまり悩みこんで落ち込むようであれば信頼できる人やカウンセラーに相談した方がよいでしょう。