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能楽と去勢
能楽と去勢の関係に関する質問です。 http://www.the-noh.com/jp/zeami/7stage.html 世阿弥の言葉に 「まず声変わりぬれば、第一の花失せたり」 というのがありますが、これを見て疑問に思ったことがあります。 男性でも去勢すれば声変わりを避けられますが、「第一の花」を守るために去勢した例はないのでしょうか? ヨーロッパでは少年の声を出すために去勢された男性をカストラートと称した時期がありましたが、日本ではそういう例はないのでしょうか。
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- tarohkaja
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次元の違う再質問をいただきました。 まず、最初のご質問は、子供の声を維持しようとする発想がない、 これは現象です。 ご質問の答えは、 能では子方以外にはボーイソプラノに価値はない、 ということです。 再質問をいただきましたが、 まず根本的に、 謡はベルカント唱法ではないということです。 義太夫も清元もベルカントではありませんが。 訓練でそういう声を作るのです。 野口兼資の芸がお分かりになる方なら自明のことですが、 稽古事として素人謡をやる人はたくさんいます。 (能楽師の収入は舞台のギャラではなく、素人弟子からの稽古料ですから) その素人謡は、何十年やった人でも、親戚中では “あそこのおじいちゃんは” と言われる素人名人でも、 所詮草野球であり、 「うたい」 ではなく 「うた」 です。 私は学生時代は (券を買う金がないので) たまには玄人のを見ましたが、曲の数を耳になじませるだけの目的で素人の発表会にもよく行きました。 素人で 「うた」 ではなく 「うたい」 になっている人にはついぞ出会えませんでした。 玄人の能楽師の声は、鍛錬で作り上げるものです。 こうしたことは西洋音楽にもあります。 私は能に触れたのは大学以降で、 高校までは西洋の方の音楽少年でした。 高校時代の先輩に、二人の声楽の音大志望者がいて、 一人のテナーは芸大へ、もう一人のバリトンは地元教育大学特設音楽科へ進み、 後年二人とも芸大大学院を経てイタリア留学しました。 その二人が、 30を前にして、 テナーとバリトン入れ替わりました。 自己の音楽観というか音楽への取り組みや思想の成長により、 自分の追求する音楽を考え直して、テナーからバリトンへ、バリトンからテナーへと自分の声を鍛えなおしたのです。 能では、 声のピッチは限定されていませんから、高い声低い声はその人その人ですが、うたいの声はうたのこえとは違います。 こんなことでお分かりいただけるでしょうか。
- tarohkaja
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子方~稚児の美質を世阿弥は 「時分の花」 と言い、 成長後の修業をつんだ結果の境地を 「真の花」 と言っています。 能役者は後者を目指すべきものですから、 一時的な美質を保とうという発想は、 初めからありません。 また、世阿弥が言う時分の花が失せた時期というのは、 声変わりだけではなく、成長期で手足のバランスも変わってきており、 声だけの問題ではなく肉体の変化の時期であり、 子供のかわいらしさだけで演技が認められた時ではなくなっています。 書いてあるのは声だけですが、 世阿弥はそうした肉体変化のすべてを指して時分の花 ・ 真の花と言っているのです。 「時分の花」 は成長過程の一つの美質であるにすぎず、 守り続けるものではありません。 去勢は、 日本では受け入れられず、 多くのものを支那から学びながら、「宦官」 は拒否して導入していません。 カストラートは、 高音域の歌手にはそれゆえの存在価値があるから行われたのであり、 能には子方以外にボーイソプラノの価値はありません。 長く女性能楽師が受け入れられなかってのも、 キンキン声が嫌われたのも理由の一つで、 多くの女性能楽師は鍛錬して野太い声に作り替えています。 (最近ようやく女性能楽師のなかから 「重要無形文化財保持者~総合指定」 が生まれました。 ~ただし総合指定の保持者はいわゆる人間国宝ではありません)
お礼
回答ありがとうございます。 > 声だけの問題ではなく肉体の変化の時期であり、 子供のかわいらしさだけで演技が認められた時ではなくなっています。 > 「時分の花」 は成長過程の一つの美質であるにすぎず、 守り続けるものではありません。 なるほど。子供の声を維持するという発想がないのですね。 > 多くの女性能楽師は鍛錬して野太い声に作り替えています 初めから野太い声の持ち主ならともかく、意図的にそういう声を作るのって不自然ではないでしょうか? 明らかにソプラノ向きの声質の女がいたり、テノール向きの声質の男がいたりしますよね。 あるいは、いわゆる「アニメ声」(大概は演技ですが)が地声である人もいると思います。 そういう人はそれが「自然」なわけですから、それを活かして能楽に臨むわけにはいかないのでしょうか。 例えば、悪声で有名であった宝生流の野口兼資でしたが、彼にとってはあの声が自然であったわけですし、むしろあの声でなくてはあの芸はできなかったように思います。 彼がボイトレをして美声になっていたら、それはそれで聴き応えがあったかもしれませんが、あのような芸にはならなかったはずです。