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歌舞伎について。

中村勘三郎さんが急逝なさいました。 ご冥福をお祈りしたいと思います。 以前から感じていたのですが、 歌舞伎という芸能は、海外でどう評価されているのでしょうか。 珍しい文化、という捉え方なんでしょうか。 それとも芸術的に高い評価を受けているのでしょうか。

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回答No.2

実際に本格的な歌舞伎が海外で演じられたのは、1960年、亡くなった六代目中村歌右衛門さんの「隅田川」のアメリカ公演になります。 パリで行った「隅田川」の大成功は演劇史にに残ると言っても過言ではないでしょう。 その後も歌右衛門さんだけで、10回の海外公演があります。どれも最高の評価と尊敬を持って迎えられたと認識しております。 ここまで本格的なものではないですが、初めて歌舞伎が海を渡ったのはおそらく明治時代、十五代目守田勘弥(もりた かんや)の娘さんで当時「坂東玉三郎」を名乗っていたかたでしょう。 アメリカに数ヶ月にわたって滞在し、コロンビア大学で道成寺などを踊って新聞に大きくとりあげられていたりしています。 このかたは現地の女優さんに踊りを教えたり、上流階級のパーティーに招待され、乞われて踊りを見せたりもなさっていました。残念なことに現地で亡くなりました。現地でのお葬式もたいそうりっぱなものだったようです。 日本の(歌舞伎の)舞踏家が、当時、すでに海外で認知され、尊敬を受けていたことがわかるかと思います。 戦争中にも歌舞伎好きな外国人はおり、 マッカーサーの通訳をしていたバワーズというかたが歌舞伎の大ファンで、戦後の歌舞伎の復興に多大な尽力をしたことは有名です。 チャップリンやロシアのバレリーナのアンナ・パブロワなども来日時には歌舞伎を見物、 楽屋を訪問して六代目菊五郎や初代吉右衛門などと歓談したのです。 歌右衛門さんを中心とした海外公演は、海外のスタッフなども使い、完全に日本ものと同じというわけではありませんでしたが、 当代の団十郎さんは1985年の襲名披露の一環として2ヶ月のアメリカ公演を行いました。 ニューヨーク、ワシントン、ロスなどです。 これは、スタッフやセットもかなり充実した、本格的な「海外歌舞伎公演」でした。 やはり歌舞伎を丸々そのまま海外に持っていくのはお金がかかります。 この時点までくると、このような大掛かりな公演が可能なレベルに、海外で「歌舞伎」は浸透していたということだと思います。 チナミに、明治政府がホンキ出す前の明治17年ごろ、フランスの将校がたまたま京都に来て歌舞伎を見、「日本の芝居」として独特の演出様式や男性が演じているにもかかわらず女性のしとやかな様子が表現されていることなどを、著書の中で紹介しています(ミニ知識)。 今は歌舞伎座にも国立劇場にも、英語のパンフレットと英語版のイヤホンガイドが完備しており、 また、外国人観光客向けの都内観光ツアーに歌舞伎が組み込まれているのはめずらしいことではありません。 30年ほど前ですと、英語のイヤホンガイドはまだなく、歌舞伎を見には来たものの途方にくれている外国人も多かったものですが、 それでも歌舞伎の存在を知っており、歌舞伎座を探し当てて見に来る外国人がかなりの数いたことは間違いありません。 なにはともあれ 故勘三郎さんの公演が初めてではないことだけは確かです。 歌舞伎の評価については、「めずらしい何か」でないこともたしかです。

noname#239373
質問者

お礼

ご返答ありがとうございます。 勉強になりました。 50年以上前から海外公演に挑戦していたんですね。 物珍しさだけでなく取り上げられているわけではない事にホッとし、 そこに至らしめた歌舞伎界の努力と苦労にも感動しました。 ありがとうございました。

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回答No.1

こんばんは  記憶を頼りに御参考になれば。  「平成中村座」が、NEW YORK公演を行ったのは、2004年7月の事だったと思います。  私は後にTVでみたのですが、その準備には大変なご苦労が有った様です。  大道具も現地スタッフを多用し、なかなか思うに任せない、裏方のドタバタが有ったようです。   舞台を成功させた後のスタッフの喜びようも「成し遂げた」喜びに沸いていました。  その時の演目は「夏祭浪速鑑」、当時まだ「勘九朗」だった 十八代 勘三郎さんの勘案で、会場を昔ながらの「芝居小屋」に仕立てるのも、NYEWYORKERにとっては「目新しい」物に映った物に間違いは有りません。  この演目の中で、舅役の「笹野高史」さんの名演、特に団七九朗兵衛が業を煮やし、泥沼に沈めてしまうシーンは「あのお年で大丈夫なのか?」と心配になるが それでも憎たらしい演技は「釣りバカ日誌の運転手」の姿とは全く別人のように感じました。 琴若を「私にとっては大事なお方」との、義理人情の有り方も、その時代の日本人の有り方を物語っています。  最後には本物の「ニューヨーク警察」まで登場してふたたびお縄になる、それまでの「歌舞伎」とは型を外した驚くような展開でした。  この演目を機械に「辛口のNEW YORK TIMES誌」が、「これはスパイダーマン2を上回る素晴らしい芸能だと絶賛した」との後日談があったほど、評価は高かった物だと思います。  この評価を聞く限り、「それまではNEW YORKERたちの間では、歌舞伎という物の認知度はほとんど無かったのではないか」と感じます。  後にどこだったかで演じられた「法界坊」や、「いがみの権太」も、花道から観客を巻き込む展開、客席に降りて行って、観客のバッグだか何かを取り上げてしまうなど、アメリカ中でもずいぶん認知度を上げた物と思います。ヨーロッパ公演も後に行われたと思いますが、色々なページから調べられるでしょうから、見て下さい。  確かに「珍しい文化」ととらえられたのが始まりでしょうが、「歌舞伎」の面白さを世界中に発信し、「高い芸術性」と認められたと思います。  花道から去った(当時の)勘九朗さんが 舞台裏を掛けずり回って早変わりし、(化粧は自分で行うのが歌舞伎の習わしだそうです)セリから再登場する、会場では見られない忙しさ、これは大変な体力を奪った物と思います。  今の勘九朗さん、七之助さんも、歌舞伎人としてずいぶんな成長を遂げていると思います。  いずれにせよ、大変な功績をおさめた十八代目 勘三郎さんの あまりに早いご逝去に残念な気持ちに堪えません。  (一度でいいから一緒に呑みたかったなー)  御冥福を祈るばかりです。

noname#239373
質問者

お礼

ご返答、ありがとうございます。 私もNYPDが飛び込んでくる演出は驚きました。 いつしか高尚な芸術、として敷居が高くなってしまった歌舞伎を、再度大衆芸能の位置まで戻そうとした勘三郎さんの意志があの演出を生んだのだと思います。 改めて、ご冥福をお祈りします。

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