• 締切済み

障害者への接し方がわからなくて、困っています。

 小学生のとき、男の子と私(女子)だけ6年間一緒でした。  その男の子は、車いすの重度の身体障害者でしたが、普通学級で6年間学び、4年生から介助のお兄さんがついてたりすることもありましたが、私は、皆と違って子供心に嫌だな、と思ったり、どうしてもその子に普通に気を遣ったり、優しく接することができず、むしろずっと同じクラスの子がその子だけということの意味について、3年生くらいからあれこれ思いめぐらすうちに負担になり、介助のお兄さんにだけは話しかけながら甘えつつも、その男の子のことを無視するような形になっていました。  母親にそれを話すと、「でも、あんた1年生の時、その子が体調崩して教室で吐いたりしたものを私だけが片づけさせられた、とかいってたじゃん。」と、1年生のころは、ベテランの女の先生に頼まれていたら、片づけたりはしていたらしいのですが、現在の私の記憶にはありません。  成人した今でも、それが尾を引き、障害者の人にやさしく接することができずに困っています。  また、その男の子のことは無視する形で、介助のお兄さんに我が物顔で甘えてたりしたのが、客観的にみると男好きに見えたらしく、女子の反感を買い、ちょくちょくいじめられたり、陰口叩かれたり、仲間外れにされたりしてました。  どうすれば、障害者の人にやさしくというか、普通に接することができるでしょうか? (ちなみに、男好きというか、大人の男の人ってしゃべりやすいと思って、甘え過ぎていた部分はありました。)

みんなの回答

noname#175206
noname#175206
回答No.6

 それって、「普通なら怒ったり文句を言ったりするようなことでも、障がい者が相手だったら堪える」っていうことじゃないですか?  でしたら、そうする必要は全くありません。障がい者の大多数も、そんなことは望んでいません。むしろ「いや、障がいに甘えているわけじゃないんだから……」と困ってしまうでしょうね。  別に、意図的に邪魔したり、邪険にしたりするわけではないのでしょう。それなら、それで充分です。質問者様が自分を変える必要は何もありません。

  • TANUHACHI
  • ベストアンサー率31% (791/2549)
回答No.5

 無理もないさね、質問者の様な感想も。それは質問者がそれまでの生活歴の中で、「自分とは違う人間」に出会ったことがないのだから。  僕も子どもの頃は親の職業が全国転勤だったから何度となく転校した経験があった。その度に「地方(言葉は悪いけれど田舎)の学校」だったりしたら、それこそ「東京の人間が来た」といって、地元の言葉を話せないことをバカにされたり、左利きをバカにされたりなどの精神的な暴力に見舞われたよ。  相手からすれば、まるで珍しい者を見る様な形だろうね。今では街中で外国の人を見かけることも少なくない上に英語で話し掛けられたら片言の英語で話すことなど普通だけれど、それが30年くらい以前ならばそんな光景も珍しかったかもしれない。  質問者様にしてみれば少しばかり失礼な言い方かもしれませんが、多分に質問者は打算的な思考で障害のある男の子に接していたと僕は思う。「先生に頼まれたから」は「先生には良い子であるとの印象を与えたい」との子どもなりの狡さを天性にして持っていたことが現象として表に出ていたのかもしれません。  障害を持つ友達に対し、自分は言葉にはしないがなにがしかの優越感を持つことで「自分はこの相手や他の生徒とは違う」との感覚を持ってしまったのかもしれません。  もし質問者様の目の前に「両手に重い荷物を持って不自由している老人」と「日本語がわからずに道案内を探している外国の人」の二人がいたならば、質問者様はどちらに手助けをしますか?  今でも「格好イイわたし」から卒業できていないならば、外国の人に声を掛けることでしょう。けれど今こうして幼少期から少しは成長した?ならば、お年寄りに声を掛けることでしょう。  >成人した今でも、それが尾を引き、障害者の人にやさしく接することができずに困っています ならば、「やさしく接する」のではなく、「相手が求めることを手助けする」「相手が困っていたら、さり気なく声を掛けてみる」「形は無数にある」と少しばかり「想像力を働かせてみる」ことを意識してみたらどうでしょう。  恐らくは活発でクラスでも目立つ存在の幼少時代だったのでしょうね。それがそのままに学年が進むにつれて逆に質問者は総スカンを食った形で自身に戻ってきただけで、それに気付かなかったことに今気付いて更改と共にオロオロしている。でも質問者様もやがて母になる日がくれば、それは自ずと解決していきます。  街中で子どもを連れているお母さんの様子をよく観察してみれば、自分と違う相手に接する時のポイントを学ぶ手掛かりを得ることができるはずです。  この様な場所で質問するよりも、実家のご母堂(老齢を間近にしているならば最も良いサンプル)やご近所の方々とのコミュニケーションを図ることが大切です。質問者様にもいつかは「周りの手助けを必要とする時期」が訪れます。若かりし頃の「格好イイわたし」の姿は最早どこにもありません。そんなことを少しばかり想像してみてください。

回答No.4

慣れじゃないですかね? 意外とそう違うものではないですよ、健常者と障がい者は。普通にスケベだし、わがままだし、得手不得手あるしetc……これ、健常者にだって言えますよね? 一番の違いは、障がい者は24時間通して自力で生活するのが困難ということじゃないかなぁと思います。人に頼らざるを得ない人生って辛いですよね? 「子どもの頃からキノコが嫌いで……」を大人になってからも続けるか続けないか、身体に合う合わない、色々と個人差ありますからね。今、ちょっと勇気出したら「あれっ」て思われるかも知れませんね。そんなもんですわ… 但し、一生避けて通れる話ではないという事であるとは思います。早いうちから身近にそういった存在があったのは、幸運では無いのかと……

  • Streseman
  • ベストアンサー率24% (131/542)
回答No.3

>どうすれば、障害者の人にやさしくというか、普通に接することができるでしょうか? 意識しないって無理だよね だったら、障害という個性を意識していないように振る舞えば良いだけ もっとも、それが正しいとは言えないが・・・・ そもそも、普通に接することが正しいのかね・・そこは思慮したほうがいいよ 障害を向き合おうという障害者は、障害を含めて自分として向き合っている そういう人に、障害を意図的にスルーすることは望ましくないこともある 個人的には、障害者との付き合いはあるのだが 障害を意識しない・意識しても認識してないふりで過ごせている ある程度の関係になれば、障害含めての交友になるので、意識する必然性はあるわけだが 対象になる障害者次第の話だが 障害と向き合う質問者の姿勢を含めて自分で結論を出すしかない話 オイラは逃避型で、当人の働きかけで障害に対する考えを対象別に変えるようにしているけどね 大概が障害に対しては最初は逃避型で、慣れると障害を意識させるような行動をするようになるので、その時が分水嶺になるように思うね ペット飼育で障害との向き合い方が推測できたりするんだけど、まぁ、方法は色々じゃないかな?

noname#173679
質問者

お礼

 回答ありがとうございます。  >障害と向き合う質問者の姿勢を含めて自分で結論を出すしかない   結局は、自分の気持ちの問題ですよね。再度認識しました。  >オイラは逃避型で、当人の働きかけで障害に対する考えを対象別に変えるようにしているけどね    ここの考え方がよくわかりません。逃避=逃げる、避けるっていう意味ですか?もしそうなら、逃げたり、避けたりした結果、考えを対象別に変えるということがよくわからないのですが?     >大概が障害に対しては最初は逃避型で、慣れると障害を意識させるような行動をするようになるので、その時が分水嶺になるように思うね  そう、その分水嶺が、私は障害者の子は無視して、介助のお兄さんにだけ話しかけたりするって感じだったのかも。要するに、やっぱりちょっと自分の中で異質だと当時は感じつつ受け入れられずも、受け入れないと冷たい人と同級生からバッシングが起きそうで、怖かったのか・・・も。  >ペット飼育で障害との向き合い方が推測できたりする  実家で、金魚を飼っていましたが、えさのやり過ぎで小さな鯉くらいの大きさになっていっているのが気持ち悪くて、母親にまかせっきりでした。結局、自分と異質なものにあった時に、人任せってことなのかもしれないです。  Srresemanさんは、実体験も含まれていてすごく参考になりました。当時もし、知り合いにいたりしたら、いろいろ話し、思い悩まずに済むことがあったかもしれません。  本当に、ありがとうございました。    

  • Carbadoc
  • ベストアンサー率19% (144/750)
回答No.2

六年間同じクラスだったのです。くじ運の問題もあるかもしれませんが、先生の「この子のなら同じクラスにしても問題ないだろう」という考えもあったのではないでしょうか。 その子のことは無視していても、介護の先生に甘えていれば、自然とその子の側にあなたもいたと思うのです。介護の先生に甘えている間でも、あなたの視線の隅には、その子はおったと思います。その子にトラブルがあったとき、もしかしたら近くにいながら無視しとったかもしれません。でも、近くにいながら無視をするという形で、気にとめていたはずです。 クラス中の他の生徒に比べたら、ずっと長い時間を、介護を必要としている子や、介護のお兄さんの近くにおったのではないでしょうか。なかなか出来ることではないと思うのです。 十分、普通に接していたような気がします。 僕は、町で障害を持った方を見かけても「ああ、元気だな。楽しそうだな」と思って見ています。友人は「おかしいんじゃね?」とか「近寄りたくねえ」とか言いますが、僕だけは「元気だな。楽しそうだな」です。点滴を吊った車いすの人を見ても、「あの高さだと、人にぶつからねえか」とか「電動は速いな」とか、そんなことばかり考えます。 優しくしようなんて思ったことはありませんが、やっぱり、なんだかんだと見てますよ。視界から離れるまで、気にはとめています。それで良いんじゃないのかなと思っています。 ベテランの先生に頼まれたとはいえ、ピンチの時に手を貸せたのです。それを誇りに思っても良いのではないでしょうか。

noname#173679
質問者

お礼

 2番目の回答ありがとうございます。  Carbadocさんは、勝手に厚かましいとお感じになるかもしれませんが、私が理想とする「優しい心」の持ち主ではないかと感じました。    なぜなら、街で障害者の方を見かけてしまったときに、『点滴を吊った車いすの人を見ても、「あの高さだと、人にぶつからねえか」とか「電動は速いな」とか、そんなことばかり考えます。優しくしようなんて思ったことはありませんが、やっぱり、なんだかんだと見てますよ。視界から離れるまで、気にはとめています。それで良いんじゃないのかなと思っています。』と、感じる心をお持ちだからです。    ただ、私は、6年間クラスで週5日ずっと一緒だったのに、そのような優しい気持ちを相手に一度も持つことができなかったので、(やっぱり教室内で吐かれたりするのがきつかった・・・)、街で障害者の方に会うと6年間が思い出され、逆にちょっと避けたりして、挙動不審な行動をとってしまうのです。  私は、当時冷たい人間だといじめられると思って、自分が冷たい人間かもしれないという思いを必死に払しょくしたかったのかもしれません。    重くて長い文章で大変申し訳ありませんが、街で障害者を見かけたときの心の持ち方が、私の理想の「優しい人」的だったので、ついつい長文を打ってしまいました。    また、「吐いたりすること=ピンチ」という障害者の当人の立場にたった考え方も素敵だなと思いました。    本当にありがとうございました。

  • nevel
  • ベストアンサー率13% (39/288)
回答No.1

障害者の人を特別な存在と思わない様にすれば、普通に接することができると思います。 貧乏人が嫌いだったら、貧乏人と必要以上に仲良くせず、距離を置いた付き合いをしますよね。 馬鹿が嫌いだったら、馬鹿と必要以上に仲良くせず、距離を置いた付き合いをしますよね。 障害者に好んでなった人は居ませんが、貧乏人や馬鹿に好んで成ったひとも居ません。同じです。 よって、必要以上に仲良くせず、距離を置いた付き合いをするのが、貴方の障害者に対する普通の接し方だと思います。 障害者側も、そんな貴方に無理に優しくしてもらいたく無いでしょう。

noname#173679
質問者

お礼

 回答をくださって、ありがとうございます。  初投稿で文章の内容がちゃんと伝わるかなど、心配になっていましたが、回答をいただけたことで少し自信が持てました。  『障害者に好んでなった人は居ませんが、貧乏人や馬鹿に好んで成ったひとも居ません。同じです。よって、必要以上に仲良くせず、距離を置いた付き合いをするのが、貴方の障害者に対する普通の接し方だと思います。』という文にものすごく救われました。    障害者には普通の人よりも親切にしなければならないと、どこか強く思っていて、自分の中で親切にすることができない自分=冷たい自分と考えていたので、nevelさんのご指摘通り、生まれ持ったその人のひとつの特性と考えるようにします。      ただ、わたくし個人的に、私自身がかなり馬鹿でかつ貧乏なので、例えがちょっと私にはきつく感じました。    しかし、一つの意見としてかなり、目が覚める思いです。  本当にありがとうございました。

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