※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:法律家の論理すり替えは元はシナ・チョウセンの文化?)
法律家の論理すり替えは元はシナ・チョウセンの文化?
このQ&Aのポイント
法学の世界では、論理破綻と言われるようなムチャクチャな論理が存在する。
法律の条文によると、逮捕の法的意味は行為主体によって変わる。
法学の世界では、警察官と一般人に対する「社会通念上の必要かつ相当な範囲」の解釈について意味不明な判例が存在する。
法律家の論理すり替えは元はシナ・チョウセンの文化?
他の学問ではあり得ないような(論理破綻と言われるような)
ムチャクチャな論理が法律の世界には存在します。
「現行犯人は誰でも逮捕できる」(刑訴法213)の「逮捕」は、
同じ条文で誰でも(なんぴとでも)と謳われながらも、
実は行為主体によって(一般人と警察官とで)、
「逮捕」の法的意味自体が全く変わります。
現行犯人を捕まえる際に力を行使する事は、
警察官と私人(一般市民)を問わず、
「社会通年上」必要かつ相当な範囲で許される(S50.4.3)
という最高裁判例についても、
「そもそも警察官と一般人では、
“社会通念上”必要で相当な範囲は異なる」
という意味不明な判例解釈が、
法学の世界ではまかり通っています。
他の学問でそんなメチャクチャな論理あり得ないというと、
「法律は素人に理解出来るものではない」
と言います。
そういう奴らに限って、
「いぁ、行政書士・司法書士・社労士の資格くらいはある」
と言えば、
「そんなの三流資格だ」
「そんな資格、あっても三十路人間など雇わない」
などと、
意味不明で権威主義的なことを
陰でヒソヒソ言っていたりします。
(2ちゃんねらーみたいw)
こういうのを「論理のすり替え」と言いますが、
とある大学の先生が率いる勉強会は、
「論理のすり替えはシナ・チョウセンの文化」
とハッキリ定義しています。
皆様はこの定義に賛成ですか?反対ですか?
この2国の民族は論理のすり替えのプロでしょうか?
お礼
ありがとうございます。 日本の法律家のああいう論理構成は、 裁判上の一種のテクニックのような側面があり、 他の先進国でもないことはない訳ですが、 三権分立を強調して謳っている割には 異様に判例に縛られているんですよね。 その点、弁護士も官僚に似ています。 戦後憲法は最高法規と言いながら、 戦前の判例にまで縛られる左翼弁護士は、 もっと滑稽です。 英米法と大陸法は無理やり融合させても、 合わない点が出るのは当然です。 行政法学の世界なんか、 フランス→ドイツ→日本 と翻訳をしながら入ってきているので、 用語がなんか奇妙なんですよね。 日本国憲法前文と同じで、 いかにも翻訳しましたという感じが残念です。 面白いのは、同じ他分野出身の法律家でも、 文系(政治学系)出身の法律家は、 法律の趣旨・背景を読み解く際に、 一語一語の文言の正確な把握に努めながらも、 条文の「行間を読む」際に、 他の法律とのバランスや整合性を重視した 相対的な価値判断に基づいた解釈をする 傾向が概して強いのと感じています。 ところが一方で、理系出身の法律家は、 「行間を読む」に当たっては、 他の法律や憲法とのバランスよりも、 「手段→目的」関係を常に頭に置きながら 趣旨を解釈する人が多いように見えます。 極端にいえば、法律の条文(文章)は、 「手段に過ぎない」と割り切って考える人が、 文系学者よりも多いように感じます。 ましては三権分立の下では 法律と全く同じとは言えない(同じではいけない) 判例に縛られ過ぎる法律家に対しては、 アレルギー反応さえ覚える人もいるようです。 翻って、あの中国鉄道省の間抜けな対応は一体・・・。 どういう隠蔽工作を企んでいたのか。 今だに謎です。法律・法治国家以前なのはまだしも、 それ以前の間抜けさでしたね。
補足
韓国にはゴシップ雑誌も顔負けですね。 そのうち、キリストや仏陀やムハンマドさんとか、 ガリレオやエジソンやチンギスハンさんとかも、 実は韓国人だったに違いないって言いそうな勢い。ww