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マタイによる福音書26章52節についての疑問
私はクリスチャンではありませんが、キリスト教の聖書の中に記されている<マタイによる福音書26章52節>にある、「その時イエスは彼に言われた。『あなたの剣をもとのところに納めなさい。すべて剣をとる者は剣によって滅びるのです』」という一文が気になっています。私は対人戦闘用のナイフや日本刀をこよなく愛しています。勿論、実際にそれらの武器で人を殺したいとは思っていませんが、<殺るか、殺られるか>といった命のやり取りをする場面で使われる一切の虚飾を排した道具である武器には<用の美>を強く感じていて、アーティスティックに飾り立てられた武用から遠く離れた武器には関心がありません。敵であっても敬意をはらい、敵の勇敢さを尊重していた日本の武家社会では武用とは関わりが無い飾り立てた武器で闘う事は、敵を侮辱し自分自身をおとしめるという思想が<武士道>という日本独自の思想として、千年以上も連綿と受け継がれていた事実に直面すると、数多くの日本刀が国宝や重要文化財に指定されている事実が説明無しで納得出来ます。前置きが長くなりましたが、世界中の警察官や、政治家の金目的である真の思惑とはかけ離れた精神世界で、世界平和の実現とその維持を信じて闘っている兵士が持っている武器がただの殺人兵器とは思えません。確かに徹底的に無駄を排した武器は殺人兵器ではありますが、所持・携帯・使用している当事者である警察官や兵士は<正義の権化>とも言える覚悟と自覚で闘っているのです。それでもイエス・キリストは武器を、そして武器を持って使用している者を同じ言葉で諭すのでしょうか?それならば何故、イエスはナチス・ドイツによるユダヤ人の大量虐殺をさせるがままにしていたのでしょうか?何故、ロシア人の共産主義革命を実現する為の大量粛清やシベリアでの日本人捕虜に対する虐待の末の大量死を見過ごしていたのでしょうか?北朝鮮やイスラエル、シリアでは21世紀の今でも現在進行形で無益な殺し合いが続いています。これらの無意味な殺戮を何故イエスは止められないのでしょうか?キリスト教指導者やその信者は間も無く<神>によって善なる者を救い、悪しき者を排する<ハルマゲドン>という大事を行うという<神>の言葉を語っていますが、これから何人の罪無き人々が非業の死を遂げればその<大事>が行われるのでしょうか?私は今まで罪無き数えきれない非業の死を受け入れざるを得なかった人々の無念に思いを寄せる時、<神>とその<御子>と言われるイエスは自殺をもって人類に詫びなければならないと信じています。それとも<神>やイエスの存在は、今まで死んだ人々の命に比べれば遥かに重いものなのでしょうか?私はそんな悪魔のささやきとも言える偽善には騙されません。人命より尊い物など、この大宇宙には存在しないと信じているからです。そもそも<神>とは人間あっての存在です。他の動植物には<神>の存在はおろか、その尊さ(本当に尊いならばですが)も自覚出来ません。これは私の私見ですが、<神>がアダムとエバを造ったのは<神>自身がその存在を尊いものとして位置付けるための行いではとも思えます。<神>が人類に地球上で唯一<神>の存在を知り、尊い存在として従い、地球上の生きとし生ける物を支配させたのは、<神>自身の自己保身ではとまで勘繰りたくなります。皆さん、皆さんは何を信じていますか?何を心の拠り所として生きていますか?私は私自身の心の声を信じています。また、万人が忘れてはいけないのが有史以前から現在の自分の生誕に至るまでの先祖代々の艱難辛苦に思いを寄せ、その勇気と知恵と信念に重きを置き、先祖代々に恥じない生き方を全うするように努力を絶やさない事があらゆる宗教に勝ると信じています。さて皆さん。皆さんはこんな思想・信条をどの様に解釈なさいますか?
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NO1です。こんにばんは 図書館で以下の本を借りてきました。 新約聖書 福音書 新約聖書翻訳委員会 佐藤 研 小林 稔 訳 岩波書店 ここに新たに提示された四福音書の邦語訳文は、過去一世紀半におよぶ歴史的・批判的釈義研究の観点から、福音書記者の原典本文になしうる限り忠実に訳出されたものである。 本訳のギリシャ語底本は、ネストレ・アーラント校訂本27版である 以下定本と略記する 本文中、[ ]は定本の校訂者自身が元来の本文に存在したか否か判断を保留している箇所であり、[[ ]],二重括弧は校訂者自身が元来の本文に存在し無かったと判断してしている箇所である。 と書いてありました。 この本のマタイ26-52を見てみますと。 そのときイエスは彼に言う、「あなたの剣をもとのところに収めよ、[[ 剣を取るものは、剣で滅びる ]] からである。 二重括弧ですので元来の本文に存在し無かった可能性がるようです。 他の福音書を見てみますと ★マルコ14-47 するとかたわらに立っていた者のうち[誰か]一人が、剣を抜いて大祭司の下僕に打ちかかり、その[片]耳を切り落とした。 そこでイエスは語り始めて彼に言った、「お前たちは強盗にでも向かうかように、剣や棒を持ってこの私を取り押さえに出てきたのか。ーーーーー 以下剣を取るものは、剣で滅びる といった言葉が出てきません。 ★ルカ22-50 そして彼らの中の一人の者が、大祭司の僕を打ち、その右耳を切り落とした。するとイエスは答えて言った、「止めよ、そこまでだ」。そして、[その僕の]耳に触れて、彼を癒した。 ★ヨハネ18-10 ところが、シモン・ペトロは剣を持っていて、これを抜き、大祭司の僕に撃ってかかり、その右の耳を切り落とした。その僕の名はマルホスであった。すると、イエスはペトロに言った、「剣を鞘しまいなさい。父が私に与えてくださっているこの盃は、それを飲まずに済ませられようか」 剣を取るものは、剣で滅びるーとはマタイだけに出てくる言葉であり、一番最初に成立した福音書がマルコであるようですので、そう考えるともしかするとイエスは[[ 剣を取るものは、剣で滅びる ]]とは言っていない可能性がるようです。 ただ新約聖書自体イエスが書いたものではありませんので、本当の所は分かりませんが・・・・ >><悪>を滅ぼす為に振るった<正義の剣>が、どの様にしてその<正義>を行った者に返って来るのかが判りません。 そうですね 私もやはり警察などは必要であると思います。 もし警察などがないと、人々はかなり悪の方へ走ると思います。 そこら辺は<正義>を行った者の心のありようと、実際の行いにより神がいるならば、判断されるのかもしれませんね。 ただ完全に正義であるというのはなかなか難しく、戦争もAとBの国が争えば、お互いに自分たちは正しいと感じているのかもしれません。 例えばヒトラーは当時のドイツ人にとっては英雄であり、昔の白黒映像などをTV等で見たりしますと、みんな目を輝かせて笑顔でヒトラーを見ていたりします。 ナチスの人達も自分たちの行為は正義であると思い込んでいたのではないでしょうか。 またアメリカの警察官が黒人の犯罪者に必要以上に暴行を加え殺してしまった事件もあったと思います。 警察官にしてみれば自分たちの行動は正義であると思っているのかもしれません。 戦争ー爆弾を落とす人ー銃を乱射する人ーナイフで敵を刺し殺す人ー白人至上主義者ー他者に暴力を振るう人ー原爆を落とす人・・ 原爆も被爆者にとっては完全な悪ですが、アメリカ人にとっては原爆を落とした事によって、戦争が早く終わり多くの人が死なずに済んだので、原爆を落とした事は良かった事だという人もいるようです。 神のみが正しい善悪の判断をされるのかもしれません。 ただ自分が正しいと信じて行った行為であれば、カルマを作ったとしても、ある程度の恩寵といいますか、この状況じゃあしょうがなかったよねと判断されて、それほど自分には跳ね帰ってこないのかもしれません。 私自身も実際に自分の身が危うくなったら、多分攻撃ー暴力を奮ってしまうと思います。 以上は私の考えでしかなく、真実はどうなのかは分かりませんが・・・・ http://www.youtube.com/watch?v=97nAvTVeR6o
先祖に恥じないよう生きる。 すごいと思います。 私はイエスキリストを神とする事を決めました。 自分で頑張りつづける事が疲れたのです。 はじめから神は神なのです。 神様が最初の人間アダムをつくられました。 人間あっての神ではなく、神が人間をつくられたのです。 人間にだけ息をふきこまれ、霊が与えられました。 神様は人間をロボットに造られたのでなく、自由意思を与えてくださいました。 神を神として神と共に生きるのか、自分の心の声をたよりに頑張って生きるのかは、あなたの自由です。 神様は私達をコントロールして無理矢理「私を信じなさい」とおっしゃっているのではありません。 選択の権利はあなた自身にあるのです。 どうかあなたが良い方を選びとりますようお祈り致します。
こんばんは 私自身の考えや今まで読んだ本などの知識でしか答えら得れませんが 1-剣を使うものは剣で滅びるとは バチカンの司教だったと思うのですが、ダライラマとの会談で「極初期のキリスト教徒は、輪廻転生を信じていたようです」と言っていました。 他にも 第9章(CHAPTER 9) イエスが道をとおっておられるとき、生れつきの盲人を見られた。 弟子(でし)たちはイエスに尋ねて言った、「先生、この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか」。 イエスは答えられた、「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。 この2つを見てみますと前世があるという価値観のもとで、この会話がなされたと考えると、納得のいくものがあります。 しかし現在のキリスト教では輪廻転生を否定しています。 また信じる信じないというものになろうかと思いますが、ある黒人男性が今世で迫害を受け、退行催眠などで前世の記憶を見てみると、自分は白人であり黒人たちを売る奴隷商人として黒人を迫害していたというものがあります。 因果応報といいますか、今誰かを傷つければいずれ自分にすべて跳ね返ってくるという考え方です。 それ故イエスは剣を使うものは剣で滅びると言われたのではないでしょうか ただ現在のキリスト教では違う解釈かもしれません。剣で相手の耳を切ればいずれの日かー来世かその次かわかりませんが、いずれ自分も同じ目に会うーコレをカルマの法則といいます。 >>それならば何故、イエスはナチス・ドイツによるユダヤ人の大量虐殺をさせるがままにしていたのでしょうか このカルマの法則によって自分に跳ね返ってくることによって、もうひどいことを他の人にしようとは思わなくなるー魂は永遠という観点から神はほうっておかれたのかもしれません。 また神がすぐ天罰などを下せば世界は平和になりますが、人間に自由意志の選択がなくなります。神が怖いからこのことをしないーそれが進みますと人間ではなく神の言うことだけに従うロボットでもいいことになります。 エドガー・ケイシーという人の言葉に 「神ですら人間が次にどんな行動をするかご存知ではない、しかしその行動の結果どうなるかについては神は知りたもう」 というのがあるそうです。 こう考えてみますと人間は何をするのも自由ーまさに神と同じ力ー自由を与えられています しかしその結果どうなるかについての責任は、全部自分で引き受けなければならないと言う事のようです。 つまり人類の今までのひどい行いによる被害者は、神が罰しているのではなく人間自身が他者に悪を行い、それによって傷つけられた人ということになるのかもしれません。 すべてはいずれ跳ね返ってくる 今泣いてる人は幸いですーその人はいずれ笑うようになるから 今笑っている人は災いですーその人はいずれ泣くようになるから
お礼
お忙しい中でのご返答に感謝致します。ただ残念な事に、因果応報の原理だけでは<悪>を滅ぼす為に振るった<正義の剣>が、どの様にしてその<正義>を行った者に返って来るのかが判りません。私見ですが<悪>が疑いようの無い<悪>で、<正義>もまた疑いようの無い<正義>でなければ、善なる心で振るった剣が、善なる心で剣を振るった者にそのまま跳ね返って来ないか?という心配です。そうでなければ、<悪>を滅ぼさんとする<善>なる者が、例え来世でどの様な応報が待ち受けていようと構わない、という様な自滅的な覚悟が無いと、<悪>とは闘えません。そうなると正に神頼みになって、<悪>と闘える人間は極少数になってはしまいませんか?それだけが心配です。
お礼
お忙しい中でのご回答に感謝致します。ご回答から判断すると結局は自分を信じて善悪を判断し、行動するしかない様ですね。私が実行中でもある、ただの実体験だけでなく、様々な宗教・思想・哲学を学び、そのエッセンスを吸収して消化する事により、自己形成を実現する以外に自分で納得できるオリジナルティーのある思想・信条はなし得ないと思います。キリスト教も仏教も教祖が亡くなってから直ぐに教祖の教えに背く者が続出していますから、幾ら伝統があっても現代に受け継がれているだけでは素直に宗教の教えには従えません。特に「我々の宗教が唯一正しくて、他の宗教は邪教・偽りの宗教である」と公言している宗教は、古い・新しいの区別無く、かなり危険な自己中心的なカルト的性質を帯びている可能性があり、注意が必要です。