『週刊朝日』全体、橋下徹そのものを嫌う、というのはなかなかにハードルが高いのでは? ただ、個々に気に入らない点、まちがっていると思うところを批判することはできるし、当然のことだと思います。
政治家を論じるのに出自を問うこと自体は、それほどおかしいとは思いません。問題はそれが差別や偏見を助長する意図をもってなされる場合がある、という点でしょう。
数年前に魚住昭が野中広務の評伝を書くにあたって、野中が部落の出身者であることを詳説しました。その本に対して野中は怒り、魚住に抗議したそうですが、わたしはさほど問題を感じませんでした。魚住の著作には部落差別の意図はまったくなかったし、野中の出自を下世話な関心で暴露する意図もなかった、と感じたからです。
むしろ、自民党の保守政治家でありながら社会的弱者に関心を寄せる野中の姿勢を理解するために、欠かせない要素なのだと読みました。野中自身もあきらめがついたのか、あれ以降は部落問題についての対談本を辛淑玉と出すなどして、率直に語っています。
野中本人と家族にとってはつらい経験だったと思うのですが、野中という政治家を理解するために、そして彼の誠実で切実な発言を引き出したという点で、わたしは魚住の仕事を評価してます。ついでに、野中に対するわたしの評価も上がりました。
ひるがえって今回の『週刊朝日』の記事にはそのような評価は下せません。まさに「暴露する」という悪意をもった興味本位の姿勢しか感じられなかったからです。橋下が怒るのは当然です。
今回は橋下が被害者であったと見なしてよいでしょうが、この『週刊朝日』を批判するのと同じ論理で、橋下は批判されて然るべき点が多々あります。
わたしは橋下の明快な言動は評価してますが、毎度小物ばかりを「敵」として攻撃する姿勢や、大阪府の財政再建問題に代表される実態を隠すような行動は評価しません。羊頭狗肉というか、あおり文句ばかりがやたらと立派なガッカリ劇を見せられている気がします。
このような姿勢が政治家として大いに問題ですが、それ以上に彼の言動に対しては、弁護士時代から人権意識の欠如、社会的弱者に対する冷淡な視線が指摘されてきました。簡単にいえば、弱い者いじめをあおり立てる風がある、と感じるのです。だれを攻撃すれば良いかをみんなに指示し、それでもって自分の問題から衆目の目を逸らすのが、彼のいつもの手です。
『週刊朝日』と橋下徹の差は、単に世間の偏見に訴えて人をあおり立てる技量の差なのではないでしょうか。今回ばかりは橋下は被害者で『週刊朝日』は加害者ですが、正直どっちもどっちですね。