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憎むとは本当に悪いだけのことなのか?

主旨はタイトルのとおりです。 私は今年18歳になりますが今まで虐待を受けて生きてきました。今までは虐待を受けたからと言って親を憎むという事はありませんでしたが、最近ようやっと自分がされていたことを自覚することができ始めていてそれでも憎むか、憎まざるかと思い、この問題にいきあたりました。 私は今のところ憎むことも必要だと思ってますがどうなのでしょうか。 根拠としては、何もしないで許してしまえば将来自分が親になったときに同じように虐待をしてしまうだろうと思うからです。他人の同じ罪を許したと言う免罪符が手に入ってしまえば同じ過ちを繰り返すのではないでしょうか。また、無理に憎まないでいると性格がどんどん歪んでいく気がします。 間的には「憎しみは何も生まない」などと言われますが根拠を聞いたことがなくて納得がいきません。 ご回答お待ちしております。

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noname#196270
noname#196270
回答No.5

憎むのは健康を害するんだそうです。 だから憎む人は自分を大事に出来ない人という証明です。 自分を大事に出来ない人は他人も大事に出来ない。 他人を大事に出来ない人は友人も家族も大事に出来ない人なので 「憎しみは何も生まない」ということになります。 >何もしないで許してしまえば将来自分が親になったときに >同じように虐待をしてしまうだろうと思うからです。 夫を愛し夫に愛され、子どもを愛し子どもから愛されるんですから。 愛は全てを超えられます。

lin92700
質問者

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皆様のおかげで、考えがまとまりました。 ありがとうございました。 将来回答者様のようなことを言える人間になりたいと思ったのでベストアンサーにさせていただきました。

lin92700
質問者

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ご回答ありがとうございます。 心身症というやつですね。ただ今の私は自分のために憤りを感じることも悲しむこともできません。そういう辛さにそっぽを向いて本当は辛いのに辛くないと心が現実逃避してしまっている状態です。頭ではわかっていても中々治すのは難しいものです。 ですが、せめて自分ができることとして三人いる妹弟には与えられるものは全て与えて愛情をこめているつもりです。 結局は自分を大事にできないということは、自分が不快に思うことも他人が不快に思うことも理解できないということですから、ご意見はごもっともと思います。 貴女のような方のお子さんと旦那さんは幸せ者ですね。 自分もそういうパートナーを見つけたいです。

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  • doorakanai
  • ベストアンサー率27% (758/2746)
回答No.9

親を憎むというのは倫理的にどうなのか というのが引っかかっているのではないでしょうか。 親なものだから、それが日常だから子供は当たり前に思ってしまって でも、ある程度大人になったら色んな人を知るから そこで考えると、親と言えども人としてやっていい事やってたか? という、人として当たり前の疑念が持ち上がって来た。 >「憎しみは何も生まない」 「あいつのせいで自分がこうなった」といつまでも考え続けていたら 進歩がないから無駄 という意味か。 足を踏んだ方は忘れるが踏まれた方はいつまでも覚えている という言葉通り あなたの親御さんは、あなたを虐待していた自覚も記憶もないでしょう。 それにいつまでも謝罪を求めるのは無駄 という意味もあるかも知れない。 被害者意識に凝り固まっていては何も生まない という意味もあるかも。 憎いから、でも自分が憎しみの塊りになるのは嫌だから 関わりたくないよう遠ざかるとやがて毒は抜けていき 大手を振って生きていられる場所に辿り着ける という意味では、良い状況を生むと言えるでしょう。 私は虐待まではありませんが、いつも親兄弟から馬鹿扱いされ、 自分でも何も出来ない馬鹿だと信じていて、20歳で家を出て 家族と離れ(罵倒とも離れ)て暮らしていたら、ちゃんと暮らせるもので 自分は家族が言う程馬鹿じゃないんじゃないかと気付いて 罵倒される筋合いはないだろうといっぱしに憎み、 憎い相手には関わりたくないから、一層関わらずに暮らしていたら どうでもよくなったのは、30歳も過ぎてからですがね… 許す必要があるのでしょうか。 長く離れて暮らしていたら、自分の生活の基盤が出来ますから 親とか、近所のスーパーの品揃えよりどうでもいい存在になるので 憎むも許すも倫理観も、どうでもよくなります。 どうでもよくなったら、とにもかくにも 食わせてもらって着せてもらって寝かせてもらって学校に行かせてもらった 事実はありがたいな と、ここは感謝する気になれます。 自分が今生きててそれなりの学力があるという事は、そういう事ですからね。 思う存分、気が済むまで憎みましょう。 でもその後は、わざわざゴミに関わらずに気高く生きましょう。 憎むって、相手と同じレベルに停滞している時だと思うのです。 どうでもよくなった時が、もう少し高いレベルに到達した時かな と。

lin92700
質問者

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lin92700
質問者

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ありがとうございます。 時間と自分の成長が自然とそれらを乗り越えさせてくれるということですね。 毒親といわれる類の人たちとは確かにそれしかないのかもしれませんね。都合よく助けてくれる人なんてそういるもんじゃないですし・・・・ 気高く生きていけるように精進しようと思います。 参考になりました。

  • ekopon
  • ベストアンサー率10% (111/1076)
回答No.8

憎しみは、悪いとか必要とかいうものでなく 「そこにある・生まれる」ものだと思います。 人間としてごく普通の感情の一つに過ぎません。 それを自分でどう処理するかがポイントなだけです。 18歳だというのに冷静に客観的に捉えているので 心配されているようなことにはならないと思います。 探求的な性格を活かしてもっと掘り下げたら きっと自分で答えを出せるでしょう。

lin92700
質問者

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皆様のおかげで、考えがまとまりました。 ありがとうございました。

lin92700
質問者

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ご回答ありがとうございます。 憎い、というのは意識せずともあるところにはあるし、無いところには無いということですね。 ですが自分は残念ながら自分のために憎むとか怒るということをすでに放棄してしまっていて、一般的な感覚がわからないのが現状です。しかし、自分でどのように処理するのかが大事であるということは自分が心身ともに健康になった後に、大変有用な考え方になるであろうと思いました。しっかりと覚えておきます。 冷静、客観的と言っていただきありがたいです。自信がつきました。ですがまだまだ未熟者ですので油断しないで自分をしっかり律していきます。 ありがとうございました。

  • tomban
  • ベストアンサー率26% (2616/9771)
回答No.7

はい…憎んで結構だと思います。 憎むことは「知ること」と密接な関連性があります。 自分の憎しみがどこから来るのか、そして、それを自分の中で「良くないことだ」と思えるならば、どのように対処していけば良いか、と言う、一連の流れを得るためには「憎む」という感情も必要だと思うのです。 憎しみから解脱する方法などありません。 人は生きているうちには何度も誰かに憎しみを抱くものですから。 その大きさ、重さはそれぞれ違いますが「憎む」という感情そのものは同じです。 人間の感情は裏表あり、自らが良しとしないものであれ、それもまた「自分」なのです。 いわば「自分」というものは「自由に出来ないもの」とも言えます。 感情が一度暴れだしてしまえば、止めが効かなくなることなど当たり前にあります。 まるで「小川」のように普段は静かな人が、大変な事件を起こしてしまうことを見ても、その実態はわかると思います。   人は川の流れと同じです。 ですから、その「流れ」とともに暮らしていくには、自分で意識的に制御していくなり、または、いつでも避難出来るなりの方策を立てなければいけません。 感情が暴れだしたときにどのように対処していくか?は、元からその「対処法」を識り、同時にそれを具体化しておく必要があります。 ダムを作るなり、遊水地を作るなり、高台を作るなりしておくのですね。 憎しみを甘んじて持ち、それに対して対策を得ていくには、苦痛も伴います。 時には適度に「吐き出すこと」もし、また、それを受け入れてくれる人を探すことも必要となるでしょう。 自らの中に「悪」がある、ということに恐れないように。 それは必ず、月日を経るうちには「愛」に変わるはずです。 あなたならそれが出来ると信じています。 人生、決して悪いことばかりではありません。 自らを潔と思えば、必ずあなたの前に「潔い人」は現れますし、その出現を見逃すことはないでしょう。 あなた次第です。 全ては、あなたの思うままなのですよ。

lin92700
質問者

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lin92700
質問者

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ご回答いただきありがとうございます。 解脱という言葉や川の流れのたとえから仏教の道に明るい方とお見受けします。 「憎しみ」というものは己を知る上で欠かせないということですね。 自分の弱いところを知り、対処するには弱さを露呈するために「憎しみ」が必要ということと解釈しました。 これから憎むということをする上で自分が暴走することがないようにしっかりとした退避場所を作るところからはじめていこうと思います。今のところ私の周りに支えてくれる人はまだいませんが、回答者様の言う「潔い人」が現われるか否かも自分次第ということですね。類は友を呼ぶという言葉は決して悪いことに限らないわけですから、自分自身の修身に努めます。志は高く、腰と欲は低く、謙虚に誠実な人に近づけるよう努力したいです。 いっそ、一度仏道に入ってただただ静かに己の心と向かい合うのもいいのかもしれませんね。 大変勉強になりました。

  • hiro822
  • ベストアンサー率20% (131/637)
回答No.6

No.1の方への回答が的を得ていると思います。 危害を加えられる→憎いと思う→葛藤→許す というプロセスを踏むと思いますが、自分の場合は 危害を加えられる→許す これが危険な状態で、自分の本来の気持ちを自ら無視している状態になります。 葛藤するべきところを直視しないで棚上げしているからです。 一種の心理的な抑圧状態です。(抑圧で少し調べてみてください) 自分の気持ちを見つめなおして、棚上げされている問題点を直視して、 解決を図る必要があります。 そのまま棚上げしておくと、心理的に無理がいくので心が壊れます。 「憎しみは何も生まない」 は、「葛藤」のフェーズでの問題であって、 抑圧されている気持ちに蓋をしておけというものではない思います。

lin92700
質問者

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皆様のおかげで、考えがまとまりました。 ありがとうございました。

lin92700
質問者

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ありがとうございます。 抑圧状態に関して少し調べてみて、恐らく自分がその状態に当てはまるだろうということを強く感じました。棚上げしていたものを見つめなおして処理していくという考えが間違っていなかったようでホッとしています。 皆さんがおっしゃることは許すか否かという葛藤の段階での憎しみに関してだったのですね。ようやっと合点がいきました。 一般的に抑圧的状況を経験していない人からは理解されづらい現状ですが、意思を強く持って自分の過去と向かい合おうと思います。 とても参考になりました。

noname#201988
noname#201988
回答No.4

憎む事が今のあなたの素直な気持ちなら憎んでもいいと思います。個人的には、憎んでも良い事はないし憎んだ所で相手は変わらないとは思います。でも、虐待を受けていたら持って当然の感情だと思いますし…。今は憎んでも、これから色んな人達と会って、色んな経験をしていくと、もしかしたら憎しみから変化するかもしれないし…変わらないかもしれない。憎しみが一概に悪い事だとは思わないけど、自分がしんどくなる事だとは思います。

lin92700
質問者

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皆様のおかげで、考えがまとまりました。 ありがとうございました。

lin92700
質問者

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ご回答ありがとうございます。 今の自分の素直な感情というのは実はまだよくわかりません。 親のことは憎いですが、親が子供に虐待をするのは自分より下の存在の者を見つけて安心しないと生きていられない弱者だと思うことで一応の整理はついています。 ですが憎んだり葛藤したりする期間がなかったため自分の中で不完全燃焼としてわだかまりが残っている面もあって、憎みきった上で許すことが一番自分の成長につながるのではないかと思ってこの質問にいたりました。 しんどくなることは承知の上ですが、憎んでしまうことで状況を悪化させることが怖いです。 しかし、回答者様のおっしゃるように色々な人と関わる中で癒されていくものなのかもしれませんね。 大変参考になりました。

  • pigunosuke
  • ベストアンサー率19% (1063/5529)
回答No.3

良いか?悪いか?では無く、 それがあなたに必要だというのなら憎めば良いと思います しかし、ただ憎むだけでは、あなたに得る物が有りません 憎んで意趣返しをしたとしても、更なる憎悪を持って返ってくるでしょう やられたら倍返し ってやつです 怒りや憎しみなど、負の感情と呼ばれるものは 自分が満たされない状況に有るから発生するものです 憎む事で、 何が原因で満たされないか? 如何にすれば満たされるか? を考えて行けば、あなたにも得る物が有るはずです 憎みながら考えましょう

lin92700
質問者

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ご回答ありがとうございます。 憎いと思うことの根本を探るという発想は今までなかったのでとても勉強になりました。 憎んだことを外に向けてしまっては、憎まれることにもつながるんですね。 よく肝に銘じておきます。

  • hiro822
  • ベストアンサー率20% (131/637)
回答No.2

憎むことは人である以上生じてしまう感情だと思います。 だから、憎むことは悪くないです。自然なことです。 憎むことがないというのはむしろ不自然で、 その心を押し殺してしまうのは危険極まりないと思います。 でも、憎しみとはあまり心の中にあっても、良いことがありません。 だから、どういう形かは状況にもよりますが、気持ちの外に吐き出す必要があります。 そういう意味で、 憎しみは何も生まないとか、罪を憎んで人を憎まずとか、 言われるわけです。 親であれば、怒鳴り散らすとか、相談するとかして、 問題を共有することは必要かもしれません。 その上で、許す方法を考えていくのがいいと思います。

lin92700
質問者

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皆様のおかげで、考えがまとまりました。 ありがとうございました。

lin92700
質問者

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ありがとうございます。 憎いと思わないために心を押し殺しすぎることがないようにする、そのためにはまずそのような状況を作らないということですね。 確かに外に向けることは必要と感じました。 具体的な方法も示してくださり勉強になりました。

  • dogday
  • ベストアンサー率29% (2313/7949)
回答No.1

罪を憎んで人を憎まず。はどこいった? >他人の同じ罪を許したと言う免罪符が手に入ってしまえば同じ過ちを繰り返すのではないでしょうか。また、無理に憎まないでいると性格がどんどん歪んでいく気がします。 この主張はわかります。では、憎みつづけたとして、これらはなにか改善しますか? 憎んだ相手に、復讐という同じ過ちを繰り返す可能性をいつまでも引きずりませんか? 憎しみはどこまでもマイナスの感情です。憎まないはプラスマイナス0の感情。 憎しみの反対は、愛しすぎるだったりで、突き詰めると歪んだりしますが、 憎まないはプラマイ0のどうでもいい感情。どこまで行ってもフラット。 「憎む」の反対は「憎まない」ではありません。 好き嫌いの感情も一緒。 「嫌い」の反対も「好き」の反対も「興味が無くて、好きでも嫌いでもない。」

lin92700
質問者

お礼

皆様のおかげで、考えがまとまりました。 ありがとうございました。

lin92700
質問者

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ご回答ありがとうございます。 確かに、罪を憎んで人を憎まずという言葉は高潔で非常に立派な心がけと思います。 普通の人は 危害を加えられる→憎いと思う→葛藤→許す というプロセスを踏むと思いますが、自分の場合は 危害を加えられる→許す と、無条件に許しているのが現状です。 結局これだと手に入るのは免罪符と消化不良のストレスだけで、自分を拘束するための楔を打ち込めないと感じています。 自分は、自分を縛らずに間違いを犯さないほど自制心はありません。 許す前に憎む、というプロセスが人の成長には欠かせないのではないかとも思います。 ですが、憎むということの反対について非常に勉強になりました。 ありがとうございました。

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