※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:イジメ問題のアプローチについて)
イジメ問題のアプローチについて
このQ&Aのポイント
イジメ問題の視座の適否については、日本的なイジメのアプローチが常道ではないことや、社会学的アプローチと心理学的アプローチの両輪で検討されていることを考慮する必要があります。
また、日本を離れた場合にどう対応すべきかや、教育心理学的なアプローチの重要性についても考えるべきです。
イジメの傍観者を加害者と同罪とする指摘については、法的な視点からは難しいと言えます。また、政治家や行政マンの同罪論にも疑問があるとされています。
領土問題の傍ら、先日、大津市のイジメ事件が不起訴となった旨が報道されました
事件性の有無や仔細は別にして、現状において加害者側の刑事起訴が行われなかった現実をしっかり踏まえて軽挙妄言のない回答を求めたいと思います
さて、質問は以下の通りです
(1)イジメ問題の視座の適否
頻繁に取り上げられるイジメ問題は、概して社会構造・社会学的視座での評論が多く見られます
しかし、諸外国のイジメ問題では、日本的なイジメのアプローチはほとんどなされず、イジメ当事者の心理学的視座で個別に検証するのが常道です
実際に日本の教育学・教育臨床・教育制度論のイジメ問題でも、社会学的アプローチ・心理学的アプローチの両輪で検討されているのが現実です
もちろん、教育素人の一般人に教育心理学などの専門的視座での評論を求めるのは筋違いだと思いますが、現状の世論の社会学的アプローチが本当に解決できるのか?という問題を思慮してほしいように思います
つまり、総論的な解決手段ではなく、事件を個別に検証する対策の必要性を認識してほしいわけです。
日本的イジメ評論が不適切とは思いませんが、仮に社会的構造でイジメを解決したとして、日本社会から離れた場合はどう対応するべきなのでしょうか?
日本を離れたらそれはどうしようもないのですか?
私個人が個別事案に対して、教育心理学的なアプローチを優先したいのは個人差ある発育段階や社会適応性に対応することで、普遍的なイジメ耐性を取得しえる可能性があるように思うからです
社会学的視座の解決方法が、年少者のためになるのか?
単なる無菌室を作るだけの対処法になるような気がするのですが、無菌室で育った年少者が社会人になった時に、企業も無菌室になるのでしょうか?
(2)イジメの傍観者は加害者と同罪か?
イジメ問題が深刻化した時期に当時の総理大臣(総裁選出馬中の人)・文科省大臣が以下のように指摘しています
『イジメを傍観した人間も加害者と同罪だ』
世間は同調的な意見が多かったようですが、これも諸外国ではまったく支持される余地はありませんでした
同時に、道徳的は別にしても法的には「同罪」とは到底できないでしょう
例えば、
(1)事故被害者の救助作業を阻害するような野次馬
(2)速度超過で御製処分される先頭車と行政処分されなかった後続車
(3)内部告発で行政処分された企業経営者と違法行為を傍観した従業員
一個人の道徳としては、傍観者を同罪とするのは理解しえる余地はあるにしても
政治家・行政マンが、同罪とするのは、法治主義の視座からは非現実的であり整合性に対する嫌疑があるとしか言えないでしょう
本件は、感情論的な政治家の評論として、諸外国の教育評論家が疑問を提示した著名な事例でもあります
果たして、『イジメを傍観した人間も加害者と同罪だ』は適切な認識か?
公人がそのような発言を行うことが適切か?(二点)
以上の回答お願いします
お礼
回答ありがとうございました
補足
あくまでも個人的な見解ですが、事件を個別検証して上でイジメ構造を仔細検証する作業の一方で、社会の総論的イジメ解決が並行すると、現場が混乱するのは必定だと思うわけです。混乱は教師よりも、少年たちが大きい そして、社会構造・総論的話は、学校世界だけに特化したイジメ論に収束してしまう。 では、学校社会でイジメ構造が消滅したとして、実社会にイジメ構造が残っていたら?という問題を思慮出来ていないと思うわけです。まぁ、「無菌室」作りという表現をしたわけですが 学校社会と社会を分離してイジメ問題を考えたり、同一視していじめ構造を検討するなどの社会全体でのイジメ解決の方向性に流れないと・・・という危機感がありますね (本音を言えば、イジメは社会構造で解決するべきものではない、と思っていますが) どんなに社会構造でイジメを撲滅したとして、最小社会単位でイジメ構造を検討するべき事実をどうも、マクロだけで解決できるという・・・・ 愚痴になっていますが・・安易すぎるな、と思いますね 思うのですが、社会構造・総論的な解決策なんぞ存在しないと思うわけです。事実、解決もしくは、減少した事実もないわけですからね。(だからって模索するのは無意味とは言えないんでしょうが) この総論的な検証作業というのは、酷く乱暴かつ粗野な場合が多い上に、モデルケースが単純すぎたりで、現実に即しない上で、イジメ当事者を責め立てたり、追い詰める側面も多いように思う 同時に、当事者の自己責任論ではなく、社会責任に逃避させてしまう危険が大きい・・・と思うわけです もちろん、未成年者に全ての責任を負わせるのは問題でしょうが、総論的な批判が逃げ道を作たり、奪ったりして、イジメを高度化させているように思えるんですよねぇ・・・ 特に鼻持ちならないのが、”イジメ闘争論” ”イジメと戦え。戦わないのは意気地なし”・・こんなことを過激に主張したらね・・・ まぁ、愚痴ってすまそ