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韓国の独島論について
- 韓国の独島論について詳しく判る方がいたら教えてください。
- 韓国の独島論には歴史的な文書や条約の内容が関係しています。
- 独島には国立警察の独島警備隊や天然記念物としての指定があります。
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ハッキリしていること。 > AD512 新羅・智証王13年、軍守の異斯夫が于山国を征服。新羅の領土に編入-『三国史記』 ・6世紀は、日本は「聖徳太子」韓国は「高句麗・百済・新羅」の頃。 日本も、韓国も、自国の回りにどんな小島があるのか正確に把握できていない時代です。 古文書が正確に竹島を示している証拠はないし、当時の国際情勢を持ち出し論ずる意味が無い。 > AD1905 日本は独島を竹島と称し、島根県告示40号により、日本の領土として編入(1905年11月、乙巳保護条約により国権を失う) ・この頃には、竹島周辺での漁が盛んになり、島根県が政府に対して竹島の編入を願い出た。 明治政府が、調査をし1905年に日本の領土へ交際法に則って編入したモノです。 当時の漁の写真など証拠も残っています。 ・1905年に国際法に則り、竹島を日本は編入したが、その事実を韓国に通告する義務はない。 意義があるのならば、その時に言うのがスジである。 当時、大韓帝国は日本領土編入に抗議していません。 > AD1946 GHO(連合国の最高司令部)はSCAPIN(連合国の最高司令部指令)第677号により独島を日本統治権から除外する ・軍隊には領土の帰属を決める権限はありません。 終戦後の「サンフランシスコ講話条約」を重視すべきです。 「サンフランシスコ講話条約」=日本は戦争で得た領土を放棄すると言うモノ。 竹島は1905年に国際法上、正式な手続きにより日本領へ編入されたモノだから、サンフランシスコ条約による放棄すべき領土に含まれていません。 何故ならば、戦争により得た領土ではないからです。
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- nogul2n
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9番の者です。以前私が回答したのが歴史カテゴリーにありました。「勅令41号」で検索なさると御覧になれます。質問表題は「1900年における韓国の竹島に対する認識」でした。 朝鮮は1882年と1900年に王命でウルルン島(鬱陵島)の調査をやってます。 ・ 1882年、李奎遠という官吏が代表者となって調べ、『鬱陵島検察日記』を書きます。検索なさったら原文をホームページに載せてる方がいらして読めます。 鬱陵島に日本人が住んでいて、官吏が日本人にいろいろ質問した話が載ってます。「倭人」「倭」という漢字があちこちに出て来ます。 この日記5月4日の記述には「登第一層 四望 海中都無一点島嶼之見形○」「最高峰 曰聖人峰 四面聘眺 海天茫茫 更無一点島嶼」とあります。 「島で最高峰の山に登った。聖人峰という名の山。四方を眺めた。海天茫々。一つの島影も無い。」という意味ですね。 やはり竹島のことは知らなかった、認識が無かったとしか考えられません。 「はるか東に島があると島民が言うが今日は見えなかった。」なんて記述はありません。 だいたい、最高峰の山(98○m)に登って、天気の良い日に望遠鏡で見えるらしいんです。当時の朝鮮は望遠鏡も普及してませんでしたし、見た人がいたんですかねぇ。 この山は今も聖人峰という名前なんですが、その頂上へ登るのはそんな簡単じゃなくて、トレッキングコースになってます。(ちなみに、韓国政府が竹島は韓国領の宣伝に使ってる「鬱陵島から見える竹島の写真」は、見るからに合成写真で、デカい。もうちょっとらしく合成しろよ、という写真です。) ・ 1900年に調べた官吏は『鬱島記』を書きます。 これにも鬱陵島のずっと東に島があって・・・・なんてことは書いてありません。 『鬱島記』で検索なさったら『鬱島記』の実物の写真を載せてるホームページにいかれると思います。以前は載せてる方がいらっしゃいました。 鬱陵島が観光客を呼び込もうと作ってる鬱陵島のホームページ日本語版があるのですが、以前はそこに鬱陵島全図が載ってました。今も乗ってだろうと思われますが、鬱陵島のメインの島の周りに6個~13個の中小の小島・岩島があります。メイン島は中小さまざまの島・岩島でぐるっと取り囲まれているといえます。 それらの間を船でめぐるのが観光の一つの売りなのですが、最大の小島(中島)がメイン島の東にあり、その名を竹島(竹嶼)といいます。メインの島からすぐ目の前、2キロのところです。 韓国は1900年の勅令41号で「鬱陵島とその周辺島嶼」を管轄に入れ、周辺諸島の中に竹島が入っていたと言っていますが、存在を認識すらしていなかった竹島が入っているというより「鬱陵島とその周辺島嶼」とはすぐ周りにある6~13個の中小の島と岩島のことだと見るのが日本の見方です。
お礼
ご回答ありがとうございます。 なるほど、ほとんどが都合のいい後付けの理論でしかないから、証拠なんて出てくるはずがないってことですね。 ありがとうございました。
- pandalovelove
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基本的な認識は他の方と同じなので、重複する記述が多いと思います。 また、過去には現在の竹島は松島と呼ばれていましたが、 今回は竹島で統一しています。 >AD512 『三国史記』の記述について 三国史記 巻四 智證麻于十三年夏六月条に、確かに記述はあります。 しかし、于山国には住人がいましたので、水の確保ができない竹島では 人は生活できませんので、于山国は鬱陵島です。 ちなみに、『高麗史』巻五八には「鬱陵島は新羅の時代に于山国と言われた」 と書かれていあます。 韓国では、「于山国は于山島(鬱陵島)と竹島を合わせた国」と主張していますが、 当然、6世紀に90kmも離れた無人島を統合して国を作るのは不自然です。 >AD1693 『粛宗実録』の記述について まず、当時の鬱陵島は後期倭寇(当時の中朝の記録では殆どが中国人と朝鮮人)と 税金逃れの対策として空島政策がとられ、1417年~1882年は 渡航が制限されていました。つまり、鬱陵島にいるのは密漁です。 また、安龍福は2回日本に来ています。このことをふまえて検証します。 1回目は、1693年3月に日本の漁師と遭遇し、「官命でアワビ漁に来た」と 説明しましたが、鳥取藩に引き渡されました。鳥取藩は朝鮮との外交経験に 乏しいので、かなり厚遇していたようです。 その後、対馬藩に護送され、取調べを受けて朝鮮に強制送還されました。 2回目は、1696年6月に「朝鬱両島監税将臣安同知騎」とニセ官職を名乗り、 鳥取藩の取り調べに「鬱陵島の北東20kmに大きな島があり、これが于山島だ」 と答えたとされています。(竹島は鬱陵島の東南東90kmです) 『粛宗実録』の記述では、安が鬱陵島で遭遇した日本漁師を恫喝すると 「(日本の漁師は)竹島に住んでいて偶然漁にでただけ」と答えたので 日本の漁師を追いかけて竹島の浜で魚を煮ていた釜を壊したとか、 鳥取藩主に「先年に自分が江戸に乗り込んで、幕府と直談判して国境を定めたが、 その書状を対馬藩主が偽造ししてすり替えた」とか、 対馬藩主の父親に「書状の件が判明すると息子が死罪になる」と 泣きつかれたので、将軍(文中は関白)に上訴できなかったとか 記載されていますが、その大半はウソです。 安の漁は密漁で、竹島は水が無いので人は住めず、岩礁なので浜はありません。 1696年当時は鳥取藩主の池田綱清は江戸にいて、1694年頃の 対馬藩主の宗義倫は死去して、その父である宗義真は江戸にいました。 また、安は江戸に行ったことはおろか、幕府とも接触していません。 当然ですが、幕府が密入国者に国策の書状を渡す訳もなく、全て安の虚言です。 韓国では、これらの検証は全く述べられていません。 ちなみに、1697年に対馬藩が安について朝鮮に確認したところ、 その最期は「誠に妄作(虚言癖)の罪あり」として配流されたそうです。 >AD1900 勅令第41号について 韓国では石島の発音が変化して独島になったと説明されていますが、 皇城新聞1906年5月9日には、日本の竹島編入を受けて 「(日本の役人が)独島が日本領になったので視察に来た」との記述があります。 この時に朝鮮領を侵犯したという抗議はされていません。 同年7月13日には「鬱陵島配置顛末」として鬱陵郡が「鬱陵島・竹島・石島」 で構成されているとの記述があります。 当時の朝鮮での一般的な認識では石島と独島は明確に区別されています。 独島が出る最も古い文献は、日本の軍艦(新高)の航海日誌で 1904年9月25日に、「韓人は独島と書き日本人はリャンコ島と呼ぶ」 と記載されたものです。 >AD1905 日本の領土として編入 これは既に回答されているように、乙巳保護条約により国権を失ったのは 1905年11月で、島根県告示第40号は2月22日です。 ただし、日本が先占を根拠に権原取得を宣言しましたが、 朝鮮には通知しなかったので、実際に知ったのはかなり後だそうです。 前述の1906年5月9日の記事にある視察で、応対した鬱陵郡主が 「本邦所属の独島を日本が領有したとして視察に来た」と報告しましたが、 詳細な調査を指示しただけで、抗議は行われませんでした。 個人的には、鬱陵郡主が勅令第41号の「石島」に異議を唱えず「独島」と 表現している点からも、石島は独島ではないと考えます。 >AD1946 SCAPIN(連合国の最高司令部指令)第677号について SCAPINについては、既に他の回答者様による指摘のように、 GHQは国家の主体ではなく、領土についての決定権は無いので、 あくまでも行政権の停止をしめしたものです。 1952年11月5日のアメリカ国務省から北東アジア課長への外交文書には、 「韓国はSCAPIN677号に基づく領土主張をしているが、 これは日本の主権を永続的に排除したものではありません」 と明確に回答しています。 SCAPINには677号(SCAPIN1033号(1946年6月22日)は677号を受けて、 竹島近海での日本漁船の操業区域を規定したものもあります) 以外にも竹島の記載があります。 SCAPIN1778号(1947年9月16日)と2160号(1951年7月6日)で、 1778号は、竹島を爆撃演習場に指定して、演習時は日本に通知すること。 2160号は、1778号を引き継いで、竹島を演習場に指定するものです。 これらは、1952年7月にSCAPINの効力が失効する前に、 日米行政協定による日米合同委員会で協議され、 引き続き演習場として使用することが決められました。 つまり、韓国領とは考えられないので、日本と協議したことになります。 実際に1948年6月30日の演習によって、通知をしらなかった韓国漁民に 約20名犠牲者がでました。 これ以後の論拠は不法占拠による話で、領土問題に全く関係ありません。 国土の「領域権原の取得」という解釈では、少なくとも割譲・添付・先占 時効・(征服)のいずれかが必要です。(近代では征服は違法です) 韓国が「竹島は韓国領」と宣言すればいいだけの話ではありません。 SF条約では、当初はSCAPIN677号とマッカーサーラインでは、 竹島を韓国領とする意見が含まれていたので、日本側が抗議して 日本から除外する領土の草案が「済州島・竹島・鬱陵島」だったのが 「済州島・巨文島・鬱陵島」になりました。 これに対して韓国政府は「竹島・対馬島・波浪島」を含めるよう求め、 (「波浪島」は現在もどこにあるか不明の島です) アメリカの回答は有名な「ラスク書簡」で明確に拒否しました。 SF条約発効による領土確定の3か月前に、SF条約締結国の意向を 無視する形で「李承晩ライン」を勝手に設定して不法占拠を行いました。 韓国では、これが正当な権原取得と誤解しているのか、 2006年1月18日の東亜日報には 「講和条約で竹島の領有が拒否されたので機先を制した」と 不法行為を自慢しています。 http://news.donga.com/3//20060118/8267102/1 (上から5段目の記事) 韓国の根拠は非常に稚拙なのです。
お礼
ご回答ありがとうございました。 なるほど、干山国が竹島を支配してた証拠がないってことですね。 ここまで論破が続くとさすがに竹島が日本領でしかないように思えますが、韓国の方がどう思ってるか気になるところです。 ありがとうございました。
- nogul2n
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島根県のホームページの中に竹島のページがあって、そこで韓国側の主張の矛盾が丁寧に指摘してありますよ。是非そういうのを御覧になられるのをお薦めしたいです。 でも島根県も予算が無いらしく、民間の研究者にお願い、お願いしてやっとこさ作ったページ、でも更新するゆとりがなくて、ずっと放ったらかし。というのが悲しい。 竹島の問題は昨日野田首相が記者会見で言った通り、歴史認識の問題ではなく国際法の問題なのです。 韓国は何にでも歴史を持ち出して自分たちをかわいそうな被害者に、日本を加害者にしたいのです。 ・『三国史記』の記述 新羅が武力でおどして于山国という王国(今のウルルン島にあった王国)を征服しましたが、そのことが書いてあるところに竹島は全く出て来ません。ひと言もです。 于山国の領土に竹島が含まれていたかのような、少しでもにおわせるような記述すら全くありません。 于山国の領土がどこからどこまでだったか、記述が無いのです。 その後もこの旧于山国については朝鮮半島の歴史資料にほとんど登場していないため、どういう国だったのか、政治体制、社会の様子、文化の様子、・・・・果ては、旧于山国王族による支配が完全に終わったのがいつだったのかすらわかっていません。 にもかかわらず、韓国はこの「新羅による于山国強制併合」(韓国人が大好きな「強制」を付けて見ました)をもって竹島は6世紀から韓国の領土、と主張しています。 竹島が于山国の領土だったという資料が存在しないのに。おかしな話です。 ・安竜福の言った話 昨日国会で玄葉外務大臣も答弁していましたが、韓国が「証拠の証言」としている安竜福の言ったことを実際に詳しく見てみると、「(竹島には)竹がたくさん生えていた」と述べています。 しかし竹島は基本的に岩島で、竹が生えるような場所はありません。近年韓国はこの「竹がたくさん・・・・」の「証言」に真実味を持たせようと松を一生懸命竹島で育てていますが。 安の言った島はウルルン島だと日本の学者は見ています。ウルルン島は木がたくさんあります。竹も生えています。19世紀末にはロシアが朝鮮王にウルルン島の木材の伐採権をお金を払って購入して、木を切り出し、お商売をしたこともあります。 韓国の解釈は何でも自分たちに都合よくねじ曲げて解釈し、もっともらしく宣伝するので、パッと聞いた時には「なるほどー!」と納得しかけちゃいますが、ちょっと踏み込んで実際の資料を見てみるとおかしなところがあっちにもこっちにも出て来ます。 また韓国では最近安竜福を「将軍」と称していますが、実際の安は被差別階層である奴婢の身分でした。全然将軍なんかじゃありません。水軍の櫓をこぐ「卒」は、被差別階層中でも特に七賤(しちせん)・六賤(ろくせん)と言われた最下層の奴婢です。奴婢は当時の朝鮮の価値観では人間ではありませんでした。品物、物でした。もちろん人権の発達した現在の価値観からするととんでもないことですが、当時は支配層の所有物として財産目録にも記録された、れっきとした品物でした。 それを「将軍」に祭り上げ、小学校の教科書でも「安竜福将軍、ありがとう。」に化けちゃうのが韓国の歴史です。 ・光武4年よりちょっと前 朝鮮王、高宗はウルルン島へ調査に行く官吏にわざわざ会い、「ウルルン島の周りに他に島がないか、よく調べて来るように。」と命令しました。 官吏は結構大掛かりな人数で蒸気船に乗ってウルルン島の各種調査をしました。人口、産業、交通、気候、・・・・等、島内の村落を廻り(蒸気船を村落が見えるところにつけて)島民から聞き取り調査したのです。 が、「周りに島は無かった」と王様に報告しています。 この官吏が調査を終えて、ウルルン島で詠んだ漢詩が残っています。「ウルルン島からは見渡す限り茫々大海(茫々洋々)、ここは孤島である」という内容です。 2~3年前に歴史カテゴリーかどこかで私が回答した時にもう少し詳しく書いたのですが、今は忘れちゃいました。ネットでお探しになったらこの漢詩文の写真とかが見られますよ。 つまり、朝鮮では竹島の存在を認識していなかったのです。 有名な朝鮮時代の朝鮮全土地図でも、竹島が画かれていません。 ・1905年 1905年に島根県が竹島を島根県領とします。よく「朝鮮は1905年に外交権を奪われていたのでどうすることも出来なかった。日本の帝国主義侵略は竹島から始まった」と韓国側と日本の左派が言いますが、1905年の島根県編入を知っても朝鮮(大韓帝国)は全く何の動きもしていません。日本に抗議一つしていません。 抗議くらいは出来たはず。あるいは、抗議することを皇帝と論じたけど実現しなかったということが書いてある資料、なんてのが出て来たっていいのに、ありません。 李承晩が李承晩ラインを引く前に「竹島は韓国領だろうか?」と学者に聞きに行きました。もし竹島を朝鮮の領土だと認識していたら、抗日独立運動を何十年もやっていた李承晩は「日本の侵略は竹島から始まった」と何十年間も思っていたはずで、わざわざ「竹島は韓国領?」と人に聞きに行くわけがありません。 「日本の侵略は竹島から」はごく最近言い出した後付けのストーリーです。それに日本の左派も乗っかって「日本は歴史を謝罪しなければ」と、昨日の国会決議でも反対票を投じた政党がいました。
お礼
御回答ありがとうございます。 っということはここに乗ってる歴史全部を否定できる資料・証拠が日本には用意があるってことですね。 なるほど、たしかにそう言われるとそう思えてくるから、怖い。 あとはその事実を公式の場で話し合うだけですね。 ありがとうございました。
- badboyJumi
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すべて後付けです。 三国史記 朝鮮半島に現存する最古の歴史書。1143年執筆開始、1145年完成、全50巻。 これにより于山国を征服とありますが、于山国の記述のある『三国史記』には周辺の島のことは全く記されていない。また資料が少ないため、この国の詳細はよく分かっていません。 粛宗実録 これについては「元禄九丙子年朝鮮舟着岸一巻之覚書」と比較すると安龍福の供述内容の真偽が判断出来ると思います。 中でも、松島(竹島)に対する安龍福の地理的理解は特筆に価する。安龍福 は松島を于山島とし、それを江原道東莱府に属すとしているが、欝陵島と于山 島は江原道蔚珍県が管轄していたからだ。東莱府は慶尚道にあり、そこは櫓軍 として配属されていた安龍福の居住地である。 さらに安龍福は、欝陵島から松島までの距離について、「五月十五日竹嶋出船、 同日松嶋へ着き」とし、欝陵島を出発してその日の内に竹島に着いた言う。だ が『隠州視聴合記』では、竹島から鬱陵島までは「一日半」の距離としており、 安龍福の地理的認識とは大きく食い違っています。 大韓帝国勅令第41号 6ヵ条からなり、鬱陵島を欝島郡に昇格させて、郡庁を台霞洞に置き、その行政区域を「欝陵島と竹島、石島」に定めるという内容です。行政区域内の「竹島」については、現在の『竹島』ではなく、鬱陵島のすぐ東にある「竹嶼」という島を指すことで日韓の認識は一致しているのですが、「石島」については、鬱陵島の傍島として初めて現れた島ですので、どの島か特定できていません。ところが韓国は、全羅道の南海岸で(ドクト)を(ソクト)と発音することに着目して独島(ドクト)=石島(ソクト)と断定します。大韓帝国の勅令は、独島を「石島」と表記しただけとのことです。発音からの推測以外に独島=石島を裏付ける根拠は全くありませんが、この「勅令第41号」によって独島の領有権が確立したと、韓国側は主張しています。 島根県告示40号 1904年隠岐島の中井養三郎が、竹島においてアシカ猟を行うため、政府に竹島の領土編入及び貸与を願い出ました。 これに対して、政府は明治38年(1905年)1月28日の閣議において、同島を正式に竹島と命名し、島根県隠岐島司の所管する旨決定し、島根県知事は同年2月22日付の島根県告示第40号をもってその内容を公示しました。 さらに、同年には隠岐国四群の官有地台帳への登録、漁業取締規則による アシカ漁業の許可、仮設望標の設置、知事の視察、また翌39年には島根県第三部長らの現地実態調査が行われるなど、国際法の要求する諸要件は完全に充足されました。 SCAPIN-677 これについてはNo,2の方が記述してくれています。 補足するとSCAPIN677が発令された半月後の1946年2月13日に行われた日本との会談において、GHQはSCAPINが領土に関する決定ではないこと及び領土の決定は講和会議にてなされると回答しています。 独島義勇守備隊 サンフランシスコ講和条約署名後、発効前に国際法を無視し、一方的に引かれた李承晩ラインにより大韓民国が領有権を主張する竹島を守備するため結成された民間義勇隊。1953年から1956年まで活動。 なお、李承晩ラインについては日米両国は「国際法上の慣例を無視した措置」として強く抗議しており、1954年に作成された米国機密文書・ヴァン・フリート特命報告書によれば、アメリカ政府は竹島問題をサンフランシスコ平和条約により日本領として残したこと、李承晩ラインの一方的な宣言が違法であることを韓国政府に伝達しています。 逆に1899年『大韓地誌』 (大韓帝国の最初の地理の教科書)においては 大韓帝国の領域は、北緯33度15分~42度25分。東経124度30分~130度35分。 つまり、 「鬱陵島までが韓国の領土」と断言しておりますが、竹島(独島)は東経131度52分です。更に1907年の『大韓新地誌』でも同じ事が書かれています。
お礼
詳しいご回答ありがとうございます。 安龍福がいったいなにをしたかったのか疑問に残りますね・・・。要はまったく地理的なことを理解してなかった人だってことは伝わってきました。 石島が独島ですか・・・。確かに『石島』って言う島があるって主張してたってことは、どこかの島を指してるかもしれませんが、それが独島なんでしょうかね??証拠がなければ難しい判断ですね。 李承晩ラインに対してアメリカが抗議してたってことは、今後とても重要かもしれませんね。当時の韓国はどういった対応をしたのか気になるところです。 自国の教科書にまで領域が記されているなら、もはや言い逃れできないような・・・。 ありがとうございました。
- deepone2
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実は、日本が竹島の領土宣言をするより以前の、韓国の資料には、「独島」という単語やその位置を明確に記録した資料はありません。 >AD512 新羅・智証王13年、軍守の異斯夫が于山国を征服。新羅の領土に編入-『三国史記』 これには「竹島」に関する記述はありません。韓国はこの于山国が竹島だと主張していますが、 太宗実録では「于山島には男女併せて86人の住人と15戸の家、数頭の牛がいた」と書かれています。 それに、新羅は今の韓国や李氏朝鮮とは違う国(政府)です。 質問者様は、「国家」というものに対する知識が不足していると思います。 日本政府も、この于山国は鬱陵島ではないかと突っ込んだのですが、韓国は「于山島とは于山諸島のことだ、竹島も含まれる」と後付けで無茶苦茶な事を言い出しています。 >AD1693 安龍福は日本の江戸幕府から鬱陵島、独島を朝鮮の領土とする書契を受ける『粛宗実録』 安龍福が主張したのは鬱陵島の領有権です。 それに、安龍福はただの一般人で、朝鮮の特使を騙って日本へと行きましたが、途中で偽者とばれて国外追放されています。 >AD1900 光武4年、高宗は勅令第41号の制定・頒布により、鬱陵島を鬱島に改称し、島監を郡守にして、独島を鬱島郡管轄に編入 ↓が勅令の内容です 鬱陵島を鬱島と改称し、島監を郡守に改正するの件 第一条:鬱陵島を鬱島と改称し、江原道に所属させ、島監を郡守に改正し、官制に編入し郡等級は5等にすること 第二条:郡守は台霞洞に置き、区域は鬱陵全島と竹島(鬱陵島の北東に位置する竹嶼)、石島を管轄すること となっています。しかし、石島に該当する島は未だに発見されておらず、存在自体が疑問視されています。 それに、1899年に大韓帝国学部が作成した「大韓全図」にも竹島は記載されていません。 1900年に、なって発見されたというのなら、それ以前の于山島は竹島(独島)ではないということになります。 以上のように、韓国側の主張や資料には、非常に不明な点が多く、証拠としては価値がないものばかりです。(動画参照) >AD1905 日本は独島を竹島と称し、島根県告示40号により、日本の領土として編入(1905年11月、乙巳保護条約により国権を失う) 日本の竹島の編入は同年2月22日には、韓国はまだ保護国になっていません。 従ってこの件についての抗議はできるはずですが、していません。 (韓国は、日英同盟における韓国の地位の件で1905年10月17日に抗議をしています。) SCAPIN(連合国の最高司令部指令)第677号 に関しては、No2様でよろしいと思います。 それに、効力があるのは、調印されたサンフランシスコ条約のみです。 それ以前のものは、非公式のプロトタイプでしかありません。 その条約で、連合国は、竹島は武力で奪ったものではなく、日本が無主物として、合法的に取得した領土と認めているので、放棄する領土のリストには入っていません。 1953年以降の事については、↓のように、韓国が竹島を侵略した後ことなので、領有の正当性を示すものではありません。 国債社会への影響力もありません。 これらを、いわゆる実効支配とやら の根拠と仰りたいのかもしれませんが、それは間違っています。 【国際法から見た竹島問題】 http://www.pref.shimane.lg.jp/soumu/web-takeshima/H20kouza.data/H20kouza-tsukamoto2.pdf (竹島は韓国が実効支配しているといった言い方がなされることがあるが、実効支配というのは、国家権能の平穏かつ継続した表示(行政権、司法権の行使な ど)のことであって、領有権紛争が発生した後に韓国が日本の抗議を受けながら行っている一連の行為は、実効支配の証拠にはならない) 日本は、韓国と国際社会に向けて、韓国の竹島占拠に対しての抗議を継して行っているので、実効支配は発生せず、紛争地帯として扱われています。 この問題への理解を深める為に、韓国側の主張を調べて疑問を持つのは、よいことだと思います。 しかし、質問者様は、同時に日本の主張も調べた上で、この質問をしているのでしょうか。 日本の領有の正当性ですが、 1905年:日本は竹島を無主物として判断し、領土宣言をし、世界も認めています。 日本は、江戸時代から竹島の位置を把握して、領土と認識していました。 しかし、明治政府が世界に公式に宣言する必要を感じた為国境を明確にする為に宣言しました。 以上の経緯から、サンフランシスコ平和条約でも、連合国は、竹島は武力で奪ったものではなく、日本が無主物として、合法的に取得した領土と認めているので、放棄する領土に中には入れていません。
お礼
とても詳しいご回答ありがとうございます。 歴史認識、近代史に関しては勉強不足で大変お恥ずかしい限りです。 皆様にご教授頂いても、基がすっからかんなもんで、全てを受け止めることができないのも確かです。今後せめて日本と近隣国のことだけはしっかり覚えようと思います。 干山国については僕もとても気になってました。 当時あそこら辺が一つの国だったなんて初めて聞きました。(勉強不足ですがw っとなると当時のその国民が地理的に竹島を発見してそうな気もします。 まぁ、それが韓国かは確かに別問題ですね・・・。 安龍福ってのはただの一般人なんですか!?ニセ特使で国外追放??それを証明できるものがあれば韓国の主張を覆せるわけか・・・。 ありがとうございました。
- dragon-man
- ベストアンサー率19% (2711/13693)
それなら国際司法裁判所で決着を付ければいいだけの話です。歴史はその国の都合で書かれます。日本は日本の都合、韓国は韓国の都合。客観的証拠がなければいくらでも改竄できます。裁判の役には立ちません。 ここに書いてあるGHQ指令677号(GHOではありません)の文言が正しいとして(これも眉唾ですが)、占領軍が日本を統治するに当たって、さしあたり竹島を沖縄、奄美、小笠原などと一緒に日本の施政権からはずすと言っているだけで、韓国領土と言ったわけではありません。1951年のサンフランシスコ講和条約で、沖縄を除く島嶼の施政権は、竹島を含め正式に日本に返還されています。この主張はそれを都合良くスルーしています。 残りの部分は韓国の勝手を書いているだけで、領土主張の根拠にはなりません。笑止千万です。 ちなみにGHQが竹島の統治権を占領軍側に残したのは、米軍の射爆演習に使うためです。今でも弾の跡がたくさん残っています。
お礼
ご回答ありがとうございます。 ああ、やっぱりGHOってGHQのことでしたか・・・。なんぼ調べても出てこないわけですね・・・。 竹島を外した理由まであるわけですね。あとはアメリカさんの裏付けだけのようですが、はたしてアメリカさんはなんと答えるでしょうかね・・・。とりあえず韓国の言い分を否定するにもアメリカさんのアゴにかかってるのが現状のようですね・・・。そっちの方をきっちりかっちり固めていかないと、とんでもないこといいそうで怖いです。 ありがとうございました。
- Guan-Yu
- ベストアンサー率13% (60/436)
親羅は中国の地方政権ですので、今後、韓国と中国との間で独島論争が起きる可能性があります。
お礼
ご回答ありがとうございます。 なるほど、新羅=韓国ではないってことですか。 確かにその当時は韓国はなかったのであれば、その主張はおかしいですよね。 これはこじれそうな展開ですね・・・。 ありがとうございました。
- 能年 玲奈(@cleanenergy)
- ベストアンサー率14% (11/78)
韓国の史実も認めないといけませんよね。 もっと厳密に調べてからどちらのものか決めないといけません。 だれもその史実が嘘だということは証明できないのです。
お礼
日本は韓国の言い分を捏造だと言い、韓国も日本の言い分は捏造だと批判する。 今両国にとってもっとも大切なのは、話し合いにてお互いの言い分を理解することだと思います。その一歩が出来なければいつまでたっても解決できないようにも思えます。 日本も韓国の言う意見を切捨てするのではなく率直に受け止め、対話していく姿勢をとらないといけないのかなぁとも思います(なかなか相手もテーブルについてくれませんが・・・w ありがとうございました。
- kusirosi
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AD1946 GHO(連合国の最高司令部)はSCAPIN(連合国の最高司令部指令)第677号により独島を日本統治権から除外する 連合軍最高司令部訓令(SCAPIN)第677号 1946年1月29日 3 この指令の目的から日本と言ふ場合は次の定義による。 日本の範囲に含まれる地域として 日本の四主要島嶼(北海道、本州、四国、九州)と、対馬諸島、北緯30度以北の琉球(南西)諸島(口之島を除く)を含む約1千の隣接小島嶼 日本の範囲から除かれる地域として (a)欝陵島、竹島、済州島。 (b)北緯30度以南の琉球(南西)列島(口之島を含む)、 伊豆、 南方、小笠原、硫黄群島、及び大東群島、沖ノ鳥島、南鳥島、中ノ鳥島を含むその他の外廓太平洋全諸島。 (c)千島列島、歯舞群島(水晶、勇留、秋勇留、志発、多楽島を含む)、色丹島。 4 更に、日本帝国政府の政治上行政上の管轄権から特に除外せられる地域は次の通りである。 (a)1914年の世界大戦以来、日本が委任統治その他の方法で、奪取又は占領した全太平洋諸島。 (b)満洲、台湾、澎湖列島。 (c)朝鮮及び (d)樺太。 6 この指令中の条項は何れも、 ポツダム宣言の第8条にある小島嶼の最終的決定に関する連合国側の政策を示すものと解釈してはならない。 ※これは米軍の都合により マッカーサーGHQ司令部の管轄と、その間接統治にある日本政府の占領下の施政範囲を定めただけで 領土問題とは無縁の事務レベル決定にすぎない。 ・日本政府終戦連絡事務局とGHQの行政の分離に関する第一回会談録(終戦第一部第一課) (昭和二十一年)二月十三日 黄田連絡官GS(GHQ民政局)「ロッヂ」大尉及び「プール」中尉と標記の件に関し第一回会談を行ひたり要旨左の如し 日本「本日は領土の歸屬問題乃至は本指令の妥当性等に付いては触れさることとし単に疑義に付質問を為さんか為参上せり」 米「本指令は単なる連合国側の行政的便宜より出てたるに過きす 従来行はれ来りたることを本指令に依り確認せるものなり 即ち其の他はSCAPの所管するところにあらす 例えは伊豆大島はCINPAC(海軍太平洋艦隊司令部)の所管。 鬱陵島は朝鮮半島の陸軍第二十四軍団の指揮下に在り 従って本指令に依る「日本の範囲」の決定は何等日本の領土問題とは関連を有せす 之は他日講和会議にて決定さるへき問題なり」 ・1952年11月14日、米国務省から駐韓米国大使あて書簡を送付している。 The Korean claim, based on SCAPIN 677 of January 29, 1946, which suspended Japanese administration of various island areas, including Takeshima (Liancourt Rocks), did not preclude Japan from exercising sovereignty over this area permanently. A later SCAPIN, No. 1778 of September 16, 1947 designated the islets as a bombing range for the Far East Air Force and further provided that use of the range would be made only after notification through Japanese civil authorities to the inhabitants of the Oki Islands and certain ports on Western Honsu. ( 韓国は、竹島(リアンクール岩)を含む様々な島嶼地域に対する日本の施政を停止した 1946年1月29日のSCAPIN677に基づいた権利の主張をしていますが、 日本をこの地域における永続的な主権の行使から排除したものではありません。 後続のSCAPINである1947年9月16日付け第1778号は、 同島を極東空軍の射爆場として指定し、さらに当該射爆場の使用は、 日本の文民当局を通じて隠岐及び本州西部の住民に通告した後にはじめて行われると規定しました。)
お礼
ご回答ありがとうございます。 つまり、GHOのSCAPIN第677号ってのは、『日本の戦後復興の間、我々が統治するのはこの範囲内ですよ。(竹島とかは除きます)』っていう通達ってことですか? それに対して 日本『あれ?これって連合国が定める日本の今後の領土ってこと?』って言ったところ、 アメリカ『いやいや、単に行政的に区切っただけで領土の問題は違う会議でやってくれ』 って流れですかね?? 日本の翻訳の仕方や解釈の仕方に問題とかなければ、SCAPIN677号は領土問題に関係ないようですね。 すごく丁寧に教えてくれてありがとうございました。
- あずき なな(@azuki-7)
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それって韓国が偽装して作ったんだよ 結構有名で国際社会にはバレバレ しかし韓国は気づいていないらしく これが正当なものだ と言い張り続けている
お礼
迅速な回答ありがとうございました。
お礼
すごくわかりやすいご回答ありがとうございます。 島根県の竹島編入は国際的にも正式な手続きによって為されたものなのですね。これは言い逃れできないような・・・。 そしてなにより、戦争で得た領土ではないから放棄すべき領土ではないってのは、すごく納得しました。 このことについての韓国側の見解を知りたいです。 ありがとうございました。