• ベストアンサー
※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:いじめに対する姿勢として好ましいのはどちら?)

いじめに対する姿勢とは?

このQ&Aのポイント
  • いじめに対する好ましい姿勢は、不快感や嫌悪感を感じ、いじめを止めることです。
  • いじめに正義や道徳、モラル、マナーという大義名分の下に対処することには危険性があります。
  • 自分の感情や意思で行動することが重要であり、自主的かつ能動的に向き合うべきです。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7193/21843)
回答No.2

私も(1)がより本質的で優れていると思います。 (2)は、ばれなければやる、人の見ていないところ ならやってしまう、という欠点があることです。 (2)に重点を置いているのが、米国です。 だから、災害などが発生すると途端に略奪暴行が 発生し、軍隊が出動します。 外から、力で押さえているから、こうなるのです。 (1)は、311の被害者のような行動を採ることが できます。 ただ(1)にまで持って行くのが大変です。 学校で週一程度教育するだけでは、そういう感情を 醸成することはできません。 子供の頃から、家族、学校、社会が一丸になって ことに当たる必要があります。

__twilight__
質問者

補足

>(2)は、ばれなければやる、人の見ていないところ >ならやってしまう、という欠点があることです。 そうですね、こういうことも起きそうだと思います >ただ(1)にまで持って行くのが大変です。 確かに、どうやってそこまで持っていくかが最大の問題ですね

その他の回答 (2)

  • yingtao7
  • ベストアンサー率17% (124/699)
回答No.3

止めるか止めないか ではなく止めるその理由の話なので、どっちでもいいですが 「いじめに対する不快感・嫌悪感がなければ」と書いてありますが 2番の方々は「正義・モラル」によって止めようと考える方らしいので 不快感・嫌悪感を感じていなくても、イジメ加担側にまわる可能性は低いのではないかと思います。 「大義名分で行動するということは」と書いてありますが それだと逆に不快感・嫌悪感を感じたら大義も正義もなく行動を起こしそうな感じにも見えます。 個人的には、いじめを防止する行動に出られるのであれば、どちらでも良いと思います。

__twilight__
質問者

補足

>イジメ加担側にまわる可能性は低いのではないかと思います 現在いじめをしている人たちの仲間になる可能性は低いと思いますが そのいじめが収束した際に、いじめた人たちに対するいじめを 行う可能性はあると思います >逆に不快感・嫌悪感を感じたら大義も正義もなく >行動を起こしそうな感じにも見えます いじめをしている人に理屈は通用しません 大儀や正義を振りかざしても、相手に聞く耳がなければ無意味です 大儀や正義のない行動と言うと暴力や暴言を連想しがちですが 暴力や暴言はいじめに含まれるため、 そのいじめに対する不快・嫌悪感を持つ人は そのような逸脱した行為に走るとは思えません いじめに対して必要なのは理屈ではなく行動なのです 言葉ではなく行為なのです どんな立派な大義名分を掲げても リスクのない第三者の立場を貫くのであれば それはいじめに対する抵抗とはいえません

  • pepepe18
  • ベストアンサー率17% (30/169)
回答No.1

いじめが無くなるならどちらでもいい 両方を持ち合わせている人が大半だと思う どちらかと言えば(2) あなたの理由については納得できない >いじめに加担する危険性・・・ 正義、道徳、モラル、マナーという大義名分の下に行動する人間が、「いじめ」という大義名分に反する行動をとるのだろうか? 大義名分の下に行動していても、自主的・能動的に行動することは十分可能です 善悪の判断基準がはっきりしているだけで、(1)との間に差が生じるとは思えません >後半3つについて 大義名分を掲げなくとも、理由もなく行動することはないですし、直情的な行動をとるよりは考えて行動できたほうがいいと思います 大義名分の内訳として、正義、道徳、モラル、マナーの4つが挙げられているので、いじめに発展する前に阻止できるのではないだろうか? それに対し、いじめという具体的なものに嫌悪感を抱かなければ行動しない(1)はいじめが発生しなければ止めないのでしょう? 勧善懲悪的な自惚れに走る恐れがあると書いているが、大義名分の4つの要素を守っている限りそのような結果にはならない もしそうなれば、定義してある人物像とは別物

__twilight__
質問者

補足

>正義、道徳、モラル、マナーという大義名分の下に行動する人間が、 >「いじめ」という大義名分に反する行動をとるのだろうか? その大義名分の下に、いじめられっこを罰という名目で いじめる可能性があるということです。 >大義名分の下に行動していても、自主的・能動的に行動することは十分可能です >善悪の判断基準がはっきりしているだけで、(1)との間に差が生じるとは思えません (2)の大義名分は理性的行動であり、(1)の本能的行動とは違います。 自主的・能動的な行動が可能でも、実際に行動に移すだろうか という疑問があります。 実際、例のいじめ事件でも、いじめを見ていた周囲は何も行動していませんでした 悪いと思っていても動こうとしないのは、そこに感情的動機がないからだと思います 頭の中で考えネット上で口に出すことは簡単ですが 実際に現実で行動するには大義名分だけでは足りないと思います >いじめという具体的なものに嫌悪感を抱かなければ行動しない(1)は >いじめが発生しなければ止めないのでしょう? いじめはきわめて抽象的であり、具体的なものではありません だから発覚しにくいし、未然に防ぐことも難しいのです 「いじめは具体的なもの」といった時点であなたはいじめを理解できていません いじめと認識できない以上、正義も道徳もモラルもマナーも発生しないため それらによって行動する人は、いじめになるまで何もしないでしょう ですが、いじめが嫌いな人はいじめ未満の行為にも不快感や嫌悪感を感じます だから未然に行動し防ぐことができると私は考えます >勧善懲悪的な自惚れに走る恐れがあると書いているが、 >大義名分の4つの要素を守っている限りそのような結果にはならない 大義名分で行動している以上、何をやってもその大義名分に守られる だから行動がだんだんエスカレートし過激化する 例のいじめ事件でも加害者の個人情報をネットに流すなど 行動がエスカレートしているが、正義や罰という名分で正当化されている 大義名分なんて所詮はレッテルに過ぎない 最初はきれいごとを並べていても、結局自分に都合のいい解釈をして それを自己正当化や自己保身に利用するようになる いじめという行為に対する頑なな否定の意思を持っていなければ 本当に中立の立場からいじめに向き合うことはできない 正義や道徳、モラルやマナーという大義名分は 視野を狭め、偏った捉え方でしか現実を見ることができない また、大義名分を掲げた時点で自分自身の言動には目が届かなくなり 自分の行動がその大義名分に当てはまっているかどうかなど確認もしない だが、感情的にそれらを嫌悪している人は 自分自身がそういう行動をとることも嫌っているため 自然に自己抑制をすることができ、暴徒化することもない 私には、(2)は口先だけの偽善者のようにも思えます

関連するQ&A