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人間の想像力の限界とは?
- 人間の想像力は一見素晴らしい能力に思えますが、実際は限界があるのではないかと考えています。
- 動画サイトで見た動画をきっかけに、食肉産業や戦争での殺害を想像することについて疑問を抱きました。
- 人間は他の動物の苦痛を想像することができないのではないか、という疑問です。想像力の限界について考えてみましょう。
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質問者が選んだベストアンサー
”豚さんだってきっと、 「ブヒー、殺さないでー」 って言いながら殺されていくと思うのですよ。” ↑ ブタさんに、殺す殺されるなどという概念が 持てるとは思えません。 エビでも、痛みを感じているかどうかについては 立証できない、と言われております。 英国ではそういう判例も出ています。 ”人間の想像力なんてたかがしれてるんじゃないかと、 思ったんですけど” ↑ 想像力があるから人間は幸福にも不幸にもなれるのです。 人間に最も近いと言われるチンパンジーですらその想像力は お粗末です。 身体障害で絶望的な状態でもチンパンジーは不幸を 感じません。それは相続力が乏しいからです。 要は、比較の問題です。 他の動物に較べると人間の想像力はすごいのです。 ただ、それには限界がある、というだけでしょう。 それに、人間は、都合の悪いことは想像しないことも できる、という特技があります。 豚カツを食べるときは、ブタさんの悲鳴をネグする ことができます。 自由自在です。 やはり、人間の想像力はたいしたものだと思います。
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- ariakun
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貴方自身、例えば「食事」をする時何を考えていますかね。 普通は「おいしそう、まずそう、いいにおい、盛り付けがきれい、・・・」など「料理」の事をかんがえます。貴方は魚料理を前にして「釣られた時、痛かっただろう」とか、牛料理を前にして「人間に殺された牛だ」とか、いつも考えているんでしょうか? 貴方の書かれている「文面」からは、「負」の面から見た「想像力」しか書いてありませんが、「一般的な人で、毎日、どんな時でも、負の感情で想像している」人がいるでしょうか? いたとすれば、「病んでいる人」や「特殊な趣向な人」でしょうね。 人は、いつでも「想像」している訳ではありません。物事について「考えた時」、「想像」します。 戦争での事は、想像ではなく「現実に行った事」ですから、当事者の気持ちもわかります。 「目の前で」人を殺した場合と、「人が爆撃で死んだが、直接見ていない」場合では状況がちがいます。 そして、戦争という「特殊な状況」においては「精神的」なところが大きい。 良いか悪いかは、わかりませんが「馴れてしまう、麻痺してしまう」ということでもあります。 人には「精神衛生上」良くないことに関しての「リミッター」があります。 都合の悪い事や、嫌な事を「考えない、想像しない」という「精神に対する防御本能」ですね。 あえて考えようとすれば、考えて想像もできます。ですが、人が生きていくのに必要な事に関しては「あえて考えない、想像しない」ことで理性を保ちます。 今回の質問に関しては、「想像力」がどうこう言うものではなく、「感情」がどうこう言う問題だと思います。 そして、貴方の生活する「世界のあらゆる物」を見て、人の想像力がお粗末かどうか判断してください。
お礼
精神の崩壊を防ぐようになってるんですね。 確かにマイナス思考をいつも持っていたら気が狂っちゃいますね。
- parts
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まあ、私は昔からサイエンス番組や動物番組等が好きなので、そういう映像は、沢山見てきました。だから、可哀想でもあるが、食する側の幸せ(感謝)も感じるでしょう。それを見ながらでも食事はできます。自然ならヒヒも生きるために食べるのですから。自分はそのどちらなのかによって、見識は変わります。 質問者様は、魚を釣ってさばいて食べたりとかしないのでしょうか? もしかすると、声が出る生き物は可哀想で、魚ならOKな人でしょうか? だとしたら、想像力もそうですが、生きていることに対する感謝の意が弱いのかもしれません。 基本的に、食べ物はほぼ全て生き物です。人に限らず生き物は、他の生き物を糧に生きているのです。人も同じです。まあ、違う点があるとすれば、酪農、農業などを行い自分で育てることが出来るぐらいでしょう。食料として生き物を生産するのです。そのかわり、我々人のエゴではありますが、飼われる生き物の側も、本人の意志に沿うかどうかは別として、共存し常に一定の数が繁殖し繁栄できるのです。 後は、それを食する側が、その理解を持って食べているかどうかです。想像しているかどうかでもあるでしょうけど・・・本当は、体験しているかどうかと、それを親から教わったかどうかの方が大事かもしれません。まあ、実際に血抜きなどを第三者的に見たことがあれば、食べられないかもしれませんが、実際にかわいがった物を、食べなければならないような状況になれば、たいていの場合、涙しながらでも、食べるはずです。 そして、その糧に感謝し、いただきます。ごちそうさまでした。という挨拶を食前食後に行うでしょう。 まあ、禅宗では、五観の偈(ごかんのげ)という、唱えがいただきますの前にありますが、キリスト教では、感謝の祈りという祈りがあります。それも、人が糧を得られることに喜び、糧に捧げているのです。 その上で、想像という質問の回答をすると、 自然の生き物が自然の生き物を食べる映像が、残酷なら、そこから想像し学べることは、もっとあるはずです。それに倫理や経験、他の事象、それぞれの立場を重ねることで、単に可哀想ではない、もっと、大事なことが分かるかもしれません。それが、人の想像力であり、それを想像できなければ、質問者様が持っている想像力がまだ生かせていません。即ち、まだ質問者様の想像力は、まだ本気ではないのです。きっと、質問者様には、もっと力があるはずですよ。もしかすると、後に述べるように、この方向性では機能しないのかもしれませんけどね。 見える物を、見えるだけの範囲、一般的な人が多数派の視点で考える範囲だけで思うのは、想像力でも最も楽な部類です。想像した中から、さらに具体的に構築をし、物を生み出したり、または想像に想像を重ねたり、想像次元を変異させたり、視点をずらすことで、別の価値観を生み出すことが、人の出来る最高クラスの想像であり、人しか持たないであろう想像力です。 まあ、想像力の範疇など人それぞれです。決まった場ばかりに身を置けば、そういう想像が容易にできるようになるでしょう。飛行機のパイロットは、悪天候で飛行機がどう動くかを想像しますし、プログラマーなら、コンピュータの処理がどのように動くかを想像するでしょう。 生物学者なら、生き物の生態を想像するでしょう。兵士なら、これからの敵の動きや、死を想像することが出来るでしょう。犯罪心理学者は、他の犯罪者の話を聞くことで、気持ちを想像するでしょう。 想像力というのは、誰もが同じ量同じベクトル(方向性)で持っている訳ではありません。 人それぞれに方向性があって、その方向性に向かって想像力が働くのです。特に好きな分野に対して、働きます。 後は、この想像力をこれは限界であり、他人には分からないなどと粗末に扱うか、それともより多くの人が、気持ちよく想像できるように自分なりに、想像を形にする努力をするかによって、想像力の可能性は変わります。 想像も、成せばなるが成さねばならぬの代物です。ただ、出来ない無理だと諦めて成らなかった物と、成して達成できなかったものの、評価や性質というのは、実際にそれを客観的にでも見れば、全く違うものとなります。前者は、単なる怠け者、怠惰、もしくは臆病です。始まりもないが終わりもない。ただ、何もしなかっただけです。 後者は無鉄砲かもしれませんし、努力家かもしれません。もしかするとそれが出来ると思った人が、次いでくれて成してくれる可能性もあります。 それが、質問の「想像」から想像すべき一般的な正反対の二極です。 質問者様は、無理という想像のみにたどり着いた。しかし、実際にはそこで経験や語彙が山ほど繋がり、多極で想像すれば、正反対に限らず複数の局面が想像できます。 即ち、想像はお粗末にもなるが、複数にも出来るのです。ただ、限界があるとすれば一生涯に想像できる時間には限りがあり、それ故に想像できる情報量にも限りがあります。だから、実際に一人が一生の間で想像できる情報には限界があります。 即ち、一人の人が想像できることは有限であり、決して無限ではありません。考える方向性は無限にあります。それが、一番答えに近い考え方かと思います。 最後に、戦争で人を殺す場合は、慣れる人とそうでない人がいます。 PTSDの原因は、周りの死などで自分が殺される恐怖と戦った結果なることが多いのですが、これは想像の産物で、感覚的には戦争の亡霊が取り憑くようなものです。群れる人という生き物だからこそ、戦争で戦い人を信用できなくなる、敵と味方を区別できなくなると、常に攻撃を受ける恐怖と戦うようになります。 それが、戦争から帰還したあとの心的外傷ストレス症候群です。 慣れる人は、敵を全て倒したまたはここは安全と思って、帰還する人もいるからです。 兵器で攻撃する者は、必ずしも想像はしません。敵の死に様を意識しては下手をすると戦意を失います。人は、賢いですから特に管理する者は、それを意識させないようにします。また、旧日本軍のように憎い者だと教えてもよいでしょう。そう教育すれば、相手をどんななぶり殺しにでもするでしょう。 それが、戦争を管理する側の戦略です。賢い者が想像した結果です。 同様に食べ物も、今の生産体制では可哀想だと意識させない努力はされています。 その結果、残飯が増えたり、食に対して感謝が薄れるのですけどね。それも、経済上の理由と言えます。 想像の結果が、どう結びつくかは、後はどれだけいろいろな方面を学ぶか、時事を知るかによるでしょう。想像は、単にそれを見てそれだけに対する感情で計るものではないと言えます。 賢い想像をする人なら、周りがこれを見てどう思うかを想像し、それを元に、都合のよい想像を与える方法を考える(想像する)ケースもあります。想像を想像すればするほど、粗末と言うより、本来はとても奥が深いものであり、単純に粗末だと断言は出来ないはずなのです。 長くなりましたが、質問者様ももう一度、想像について想像されてみてはいかがでしょうか?
お礼
なんだか禅問答みたいで難しいです。 よくわかりませんでした、ごめんなさい。
- born1960
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現代人の多くの人が自らの手で動物を殺傷することはありません。 が、しかし・・・釣り人が釣った魚をさばいて食べる。そういう経験は普通にあると思います。私は釣りの経験がないのでそんな経験はありませんが。 動物はもちろんのこと魚も可哀想って人もいるでしょう。 そういう人はベジタリアンになるのかもしれませんね。 また私の叔父は農家で育ち、家で飼っていた鶏の首をはねるのを見てから長年かしわを食べることができなかったそうです。そういう経験は今の日本でもあるでしょうね。 それはさておき たとえば、人間の歴史はどれくらいか知りませんが、一般の人間が自分で動物を殺し、料理するなんていう文化はついこの前まであったことだと思いませんか?江戸時代の頃にはそういうことを専業にしている階層を設けたかもしれませんが、それとて日本の歴史の中でほんの400年ほどのことです。 本来農耕民族であるとされている日本人も、野うさぎやイノシシやクマなどを自らの手で殺して食べてた歴史のほうがはるかに長いですよね?本来生きていくためにはそれが本能だと思います。 「銀の匙」というコミックは北海道の酪農農業高校を舞台に描いていますが、自ら慈しみ育てた豚が悲しいことにめちゃ美味しいなんて表現もありましたし、農道を走っている軽トラで野生動物をはねてしまいますが、死体を荷台に積みみんなで「美味しくいただくというシーンもありました。 残酷なことかもしれませんが、小学生の高学年くらいに食肉処理工場などを見学させ(今はその手のちゃんとした映画も公開されていますのでDVDでもいいです)生命の大切さや食物の大切さを教えるのもこれからの世の中は必要なのかもしれません。その時の経験がPTSDになって、肉を食べられなくなる子もいるかも知れませんが。 水族館に見学に行って、「わあ!美味しそう!」って思う人もいるでしょうし、松阪牛の牛舎をみて極上ステーキにしか見えないって人も多いかもしれませんよ(笑) それよりもなによりも・・・多くの羊牧場ではジンギスカン鍋などが食べられますしね(笑)
お礼
そうなんです。 牧場で牛さんのお乳を絞ったあと、 首を絞った牛さんの、 血が滴るようなステーキとか食っちゃうのはあまりにも、 と思ったんですよ。
お礼
僕は肉が好きじゃないんですよ。 ぶち殺してるところを想像しちゃうから。 子供の頃は、ハンバーグしか食えませんでした。 おとなになって何故か、肉も食えるようになりましたけど、 やっぱり脳が退化して、 想像力が貧弱になっちゃったのかもしれませんね。