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心が死んでいるの?
先月、私の祖父が亡くなりました。その時私は「とうとうきたんだな」と感じただけでした。特に涙が止まらなかったり、落ち込んだりしませんでした。 私の祖父は2~3年ほど前から食事もあまりしなくなっててて、半年前くらいから入院していました。私は遠くに離れて住んでいて、お見舞いには一度しか行ったことありませんでした。そういう状態だったので、‘死’といものをかなり意識していましたが、亡くなったとき、私の家族は泣いていました。私は心の中で「もうかなり衰弱してて、こんな時が来るってこと分かってたのに、何で泣くの?」って思いました。確かに悲しいけど、仕方のないことだと感じていました。 私はむしろ、たくさんのことを教えてくれた祖父に、今までよく生きてくれたね、という気持ちでいっぱいでした。 もし、これが急な死だったとしたら、泣きまくっていたと思うのですが、私自身いつか人間は死ぬものだし、高齢になるにつれてその確率が高くなってくるものだと考えていて、人の死について、ちょっとドライな考え方(?)なのかと思います。 そこで、私は人の‘死’というものを、心ではなく頭で理解しているように感じます。普通の人の様に感じていない気がします。こんな私の心は腐っているのでしょうか?何かご意見のある方、どうかお願いします。 最後に、この質問に対して憤りや不快な思いを与えてしまったら申し訳ないと思います。
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- junglecat
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Secand様初めまして....。 そのお気持ちよく分かるのです。 実は私も父を亡くした時に、泣かなかったのです。 なぜならば、父はパーキンソン病でずっと歩けなくて車椅子のお世話になっていたのです。 その苦しみは本人にしか分かりませんが、私は苦しむ父を見るのに耐えられず、何も助けられない自分をずっと責めていました。 父が亡くなった日、入院先から父を搬送いたしました。冷たくなった父は動きませんが、「死」というものが父を車椅子から解放してくれたと感じました。 死んで次の世界に行けば、自由に歩くことも、自由に過ごすことも出来るのですから。 お葬式の日は父の大好きだった「Hawaii」で過ごした時のT シャツや帽子などを入れて旅立ちを祝福しました。「死」によってここにはいませんが、次の世界でしっかりと私たちを見守っていてくれるのですから、新たな旅立ちと私は理解いたしました。 心が腐ってるなんて、私は思いませんよ。 実際に後になり父を思い出したときに、私は思いっきり泣いたことがあります。でもそれは現実にここにいない事の寂しさでした。父との沢山の思い出に支えられ、生きている私は「ここにはいない父」と生きています。 「沢山のことを教えてた祖父に、今までよく生きてくれたね」私はこの一言に涙しましたよ。 「死」によって体はここにはない、それだけのことです。いつでも「心に生きている」のですし、「思い出の中で生きている」あなたのおじい様がいらっしゃるではないですか!思い出の中で元気な姿のおじい様がいる.....それだけで充分ではないのでしょうか。 そんなふうに、おじい様のことを心の中で大事にされていた、あなたのお気持ちはきっと、ここにはいないおじい様通じていると思います。 きっともう少し落ち着かれたら(何年かしたらかも知れませんが)もしかしたら思い出したときに涙するかもしれません.....心が解けた時に涙するかもしれませんね....。 おじい様のご冥福を心からお祈りいたします。
- uta414
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こんばんは。 私も心が腐っているなんて思いませんよ。 「死」に関する考え方は人それぞれですから。 私の祖母は91歳で亡くなったのですが、年に1回会うか会わないかの人だったので、悲しいと言うより、人が目の前で死んでいくのがとても不思議な感覚でした。(息を引き取るときその場にいたので) 何故か悲しいという感覚では無かったのです。 そろそろ危ないかもと聞かされていましたし、大きな病気ではなく老衰だったので。 でも一番の理由は滅多に会うことが無かったからかもしれません。 親族が沢山集まり、息を引き取る時は皆泣いていましたが(私は泣きませんでした)、臨終が確認されたと同時に「それっ!」って感じでお葬式の準備。 91歳まで生きたので「大往生だ」と言って、お葬式もお祝いのような雰囲気(?)でした。 そんな様子を見て思ったのですが、人生をまっとうして死を迎えた場合、それはある意味「がんばって生きたね。これからはゆっくり休んでね」という旅立ちの儀式のようにも思えました。 不幸にも若くして亡くなったとか、突然の事故や病気の場合は別ですが。 「死」は肉体との決別なので、そういう意味ではとても寂しかったですが、いつまでも祖母は見守っていてくれてるんだっていう変な安心感がありました。 そういう考え方があっても良いと思います。 あくまでも「生」まっとうした場合の「死」に関してはですが。 (まっとうしたかどうかは本人しか分からないですけどね)
- you-go
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ご祖父様のご永眠にご冥福を申し上げます。 当方、母が54才にて他界し、見送りました。人工透析を数年受けていました。桜の季節に頭が痛いと訴え、救急車で搬送途中に「あ、頭の血管が切れた」と言ったのが最後の言葉でした。病院では開頭手術が行われましたが体力的に人工透析は無理…事実上の死亡予告です。兄弟で順番に意識の無い母の付き添いました。医者の予想に反して1週間がたった頃、窓外を見た自分の心に「声は出せないけど、辛いのでしょうね。残す子供が辛くって逃げられない肉体の痛みに頑張ってくれているんですね。逝って欲しくないけど、心の準備はするから、辛い肉体から離れてイイですよ」と浮んで来ました。その後に心拍計が乱れ意志から宣告を貰いました。肉体の痛みからやっと母は解放されたんだと思いました。 "死"=終わり なのか 単なる旅立ちなのか判りません。ですが意識不明と言えども肉体がある限り痛みはあると思うのです。痛みに耐える時期も有っただろうと思うと、ご祖父様には「お疲れ様でした」と当方は言葉を贈りたい気持ちです。心が死んでる、腐ってるとSecand さんに言い放つ人達の方が心が病んでいると思います。 悲しいですが生きている限り死は避けられません。"死"に際し死者を悼む心があるなら健全だと思います。母親を送る際に「もう会えないんだ」との思いでやはり胸は潰れました。交流が少なかった人の死に際し、喪失感が薄いのは事実です。涙が出ないと言って心が痛んでない訳ではないですよね。多分 当方も同じくドライ系かも知れません。 文章が乱れてすみません。ここに質問をされる位に思う何かがあるのですから、健全だと思います。
- toshi_jkr
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こんばんは。 私の個人的な考えになりますが、 決して「心が腐っている」とは思えません。 「離れて暮らしている祖父」「半年位入院されていた」というご説明がありましたが、 お爺様の死に対して、ある程度の心構えが出来ていたものと思われます。 私は、祖父・祖母・いとこ・父親、と亡くしておりますが、 祖父・祖母・いとこの時には、それほどの悲しみを覚えませんでした。 やはり、以前から遠く離れて暮らしていた事と、ある程度の入院期間があった事から、心構えが出来ていたと思われます。 私の兄弟も共に葬儀に参列しましたが、それほど大きな悲しみは覚えていなかったと記憶しています。 それに対して、父親の死は突然であり、また年齢も若くして亡くなった為か、本当にショックで、恥ずかしながら、男ながらも、涙が止まりませんでした。 私は専門的な知識があるわけではありませんが、Secandさんが特別おかしい、という事はないと思います。 感受性が豊かな方、そうでない方、色々な方がいると思いますので。
お礼
お答えありがとうございました。 多くの経験をされた方の意見として、説得力がありました。私一人が感じていることじゃなかったのだと分かり安心しました。
- fitzandnao
- ベストアンサー率18% (393/2177)
別にドライでも腐ってもいないと思いますよ。 私も祖父の亡くなったときは、そんな感じでした。「ご苦労さま」と「お疲れさま」というふうな。 他の方が泣くのは「なぜ?」ということですが、仕方ないけど、今までのこととか、思い出があふれてきて、悲しいとかそういうのでもなく名前のつけられない感情で涙があふれているのだと思います。
お礼
お答えありがとうございました。 私と似たような感情をお持ちの方がいらっしゃるといことが分かって安心しました。
- 0211
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Secandさんの状態も普通の反応だと思います。 実父や義父等、看取ってきました、私ももうまえもって亡くなることを知っていたからかもしれませんが、涙は出てきませんでしたよ。 一種の感慨はありましたが、悲しいという気持ちでは無かったと記憶しています。 ですから気になさることはないでしょう。人により喜怒哀楽の感じ方はそれぞれ程度が違うのですから。
お礼
早速のお答えありがとうございます。 こんな事、他人に簡単には言えないし、ましてや親族には相談なんてできませんでした。 でも否定されることなく、受け入れて下さる考えの方がいらして、本当に良かったと思います。
お礼
ご丁寧にお答えいただき、誠にありがとうございます。理解してもらえるだけでも感謝の気持ちでいっぱいです。本当に救われた気がします。 やはり覚悟ができている状態だったというのが、大きいと感じました。私は‘死’は旅立ちだと思っていて、今でも心の中で祖父に会うことができます。だからあまり寂しくないです。こんなこと言うと親族に怒られるかもしれませんが、本心です。