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外交的解決の本質についてどう思われますか?

外交的解決の本質についてどう思われますか? 沢山のご意見お待ちしています。 私は、個人的にはむき出しの暴力そのものであると考えます。 理由は、各国間の交渉を見れば己の力の論理を背景に恐喝まがいのやりとりが行われるからです。 また、クラウゼウィッツの戦争論に出てくる。 武力とは異なる手段を持ってなされる外交である。 という、格言をひっくり返すと出て来るからです。 皆さんは、どうお考えですか?

みんなの回答

  • wiz0621
  • ベストアンサー率42% (182/430)
回答No.6

クラウセヴィッツ後のドイツがどうなったでしょうか? つまり、それが答えです。 まず、普仏戦争。鉄と血によって周囲より劣っていた 戦力が整えられ、プロイセンドイツの外交政策が 機能したわけです。結果として国は隆盛しました。 その成功を受けて、第一次大戦では"総力戦"という 概念が誕生しました。つまり、外交的勝利の為に、 国力の全てをつぎ込んで戦力を行使したわけです。 過程は省略しますが、結果として国は滅びました。 これは、外交の本質が武力であると誤解してしまったが 故に起きた事であると私は考えます。 確かになすすべなく、救援すら間に合わず 蹂躙されるような貧弱な戦力であれば、 そういった国は発言の機会すら与えられないでしょう。 しかし、国家の全てを戦力につぎ込めば、 それは解決ではなく、他国の隆盛や自国の破綻を招いてしまうのです。 では何故こういうことが起こったのか。 それは、武力の行使とは基本的に一対他では機能しないんです。 総力戦の登場以後、一会戦で全ての決着が付くということは 人類社会では起こらず、戦争は数年単位で継続されます。 ここで着目しなければいけないのは、第3勢力の存在です。 確認の為、外交の本質は戦力であると仮定しましょう。 もちろん同盟を組めれば、戦力が増え、勝利の可能性がある。 相手に同盟を組まれれば、相手の戦力が増え、敗戦の可能性が高まる。 このときに、第3勢力の取りうる道はいくつか存在してしまうのです。 同盟を高く売りつけるのはもちろん、当事国に武器を売りつける。 はたまた不干渉など・・ これらの行動は、戦力の多寡に拠って左右されていません。 つまり、"戦力を行使しない"ことが国力を高めるのです。 当事国はこういった第3勢力を取り込むか、あるいは発生しないように しなければならない。一方で、紛争に参加する戦力を持っていなければ、 発言の機会すらない。 つまり、戦力とは外交の場に立つための参加費。"チップ"に過ぎないのです。 特に大戦後の現在、国際社会ではその支援も国連参加国の議決によるわけですから、 ・自衛権の行使(国連憲章51条) ・安全保障理事会の決定(同53条) ・国連の旧敵国(日本やドイツ)への行使 (同107条) に反する行為は、無数の第3勢力を生んでしまうでしょう。 じゃあ外交の本質ってなんじゃい?というと、逆説的ですが戦力は持っていても 行使しない。"戦力の不行使"であると思うのです。 日本の方針はこの意味で理想的であると私は考えます。 言い換えれば異心は持ちつつも排除しない。『求同存異』というわけです。

sozaki
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 外交の本質を武力である誤解から生まれたと申しておりますが私は必ずしもそうは思いません。 確かに第一世界大戦が起こるわけですが、そこでは、武力の運用に対する誤解が生じたんだと思います。 事実第二次世界大戦では電撃作戦などによって克服され、方や日米交渉により日米が戦争に突入していく様はまさに、外交の暴力的側面を見せつけれた気がします。威嚇も武力をちらつかせいている訳ですし、 戦後は米露の圧倒的力の前に日本やドイツが何を言っても特に影響を及ぼしません。 国際社会はそんなに甘くないと思います。 貴重な意見ありがとうございました。

回答No.5

 国が一般国民の命を危険に晒す国での外交と戦争論議は特攻部隊に指令する大本営感覚かね。。  己の力の論理を背景に恐喝まがいのやりとりが自国民に向けて堂々と行われているわな。  国民の命を守らずして国益も糞もないじゃないの。  世界に通告なく放射能汚染水を放出する行為は剥き出しの暴力そのものかもね。  この国が無邪気で派手な無言の外交を繰り広げているってときに、外交的解決の本質を剥き出しの暴力とはね。  一事が万事、やることをきっちりやってから威厳のある多少は正義の匂いのする暴力じゃないと恥ずかしすぎる。  外交的解決の本質が剥き出しの暴力ね。まさに体感中でしょ。  

  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7193/21843)
回答No.4

国家はいずれも自国の利益を最大に しようと図ります。 外交はその手段です。 で、外交と武力(戦争)の関係ですが。 かつては、戦争は外交の一種、手段であり、そこには 善も悪もない、ということになっていました。 これは大東亜戦争の時の考え方です。 しかし、現代は戦争は原則悪であり、例外的に 自衛戦争は許される、となっています。 つまり、 「武力とは異なる手段を持ってなされる外交である」 という認識は、やや旧く、一時代前の考えだと思われます。 勿論、現在でも武力は外交を有利に進める為の 力ですが、昔ほどではない、ということでしょう。

sozaki
質問者

お礼

ご意見ありがとうございます。 戦争は原則悪であるというご指摘はまさに、9条条項を持つ日本では、体験に基づく事実です。 しかし、現実は絶え間なく戦争が起こり、戦争には、必ずといっていいほど米露の力の論理が背景にあり、 あわや第三次世界大戦にまで発展していってしまう、現実の外交防衛に対してやや、心細い印象が残ります。 現実は、日本の思っているような理想論だけでは通用しません。 古いと思われるかもしれませんが、外交の原点に立ち返って質問させていただきました。 ご回答ありがとうございます。

noname#160567
noname#160567
回答No.3

あまり関係ないように思われがちですが、ガンジーが死んだことが全てを物語っていると思います。 頭の中お花畑では、やられたい放題です。 平和なんて、手を出さなければいいなんて簡単なものじゃないと思います。 特に、日本はただひたすらに世界に対して重きを置いているので、自国の利益なんて考えているのかどうかも疑問です。 そうなれば、外交なんて……。

  • aki567
  • ベストアンサー率32% (141/439)
回答No.2

その通りでしょう。 現実が物語っていますね。軍事力を持たない日本がいくら外交ルートで 中国、韓国に抗議しても無視され、逆襲されると言う現実を見れば明らか でしょう。力があっての外交力でしょう。力もないのに交渉できる道理がない。

回答No.1

正直、質問者の質問の意図が理解できないし、なにより「本質」の捉え方・受け止め方などについてあまりにも判然としないので、回答しにくい 一応、私見は述べておく >私は、個人的にはむき出しの暴力そのものであると考えます。。  外交は政治領域である以上は、暴力が伴うのは当然であろう。 『剥き出しの暴力』が意味として善悪・適否を問われれば、「暴力なしの社会」に秩序はありえない、という現実社会を鳥瞰するべきだろうことから、批判的に感じることはない。  同時に、外交の意味が、いわゆる軍事力・政治力を担保にした”政治暴力”だけであれば、指摘は理解できるが、 例えば、国際政治において拘束力が希薄であるにしても尊重される国際法で思慮すれば、法そのものの暴力性を別にすれば、国際外交は国際法・国際慣習の秩序によって理性的に統制・制御されている部分も多々指摘できるだろう。  実際に、多くの諸外国の憲法において、国際法との緊張関係があるが、完全に憲法が優位とされる法解釈・法治が実施できない国際政治の背景はあろう。  その背景に、政治暴力性があるにしても、その暴力を根底から批判するならば、政治暴力ではなく、個人の実態的な暴力という無軌道・無秩序な暴力社会が現出し、自然法などを代表とされる人権保障は灰塵となることだろう。 そのような状況で人間が淘汰されることになるが、それも是とできるような社会であろうとは思わない。 >理由は、各国間の交渉を見れば己の力の論理を背景に恐喝まがいのやりとりが行われるからです。  国家同士の利害衝突事案は、そういうものである。 これは外交のみならず、内政においても、私人間においても生じることであって、外交だけに顕著に指摘できるものではないだろう。 現代社会は、むしろ私人間の「己の力の論理を背景に恐喝まがいのやりとり」が横行しえる状況を鑑みれば、外交だけに通じるものではないだろう。 同時に、そのような暴力の担保なしに、国際社会の秩序など形成できないだろう。  付言すると、 指摘される事象は、国際政治の全体像において局所的な部分にすぎず、大枠は、主義思想の対立があろうとも相互尊重・相互依存の国際関係を基調として国際関係が形成されるものであろう。 実際に、国際法の発展と共に、国際機関が果たす調停・仲裁機能は一定の機能を有しているのは、現在のFTA・EPA・国連の実態的国際政治の主導性などから指摘できるだろう。  それらの暴力性をどう捉えるか?という問題はあるが、単なる実態のない暴力性を危惧するよりも、実態のある暴力性について思慮するのが望ましいように思う。  質問者が指摘する暴力は、おそらく法治主義社会における視座のない「無制限な暴力」なのだろうが、 現実の国際政治においては、その暴力性は暴力によって統制・制限されるものであって、政治的に思慮するべきは、<暴力性を統制する暴力>の様態であろう。  質問者が何を本質とするか?という問題から具体的指摘がないので、的外れな回答している可能性はあるが・・・ >また、クラウゼウィッツの戦争論に出てくる。武力とは異なる手段を持ってなされる外交である。 という、格言をひっくり返すと出て来るからです。 格言なのだろうか? クウゼヴィッツの評価は、韓非・呉起などと比較するとあまり好意的になりえないのだが、 質問者は武力と暴力を分離する知識体系を持ち合わせていない可能性が示唆できる。 そういう危惧からすれば、質問の回答としては、あまり適切ではないように思うが、 質問者の「暴力」の意味を問い直す意味で、回答にしておきたい

sozaki
質問者

お礼

ご意見ありがとうございました。 私の意見は極論である事は承知しております。 つまり、武力=命のやり取り=暴力として捉えた考え方を取っております。 但し、私は無制限の暴力を意味しておりません。 なんらかの目的性達成の手段がしばしば暴力的である事実から暴力と申し上げております。 元々1軍事研究員が出す結論なので過激である事は十分承知しております。 貴重な意見ありがとうございました。

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