短歌・俳句は基本的に古典文法(文語)を用いることが普通です。その前提の上で。
まず、「よけれ」ですが、「よし」にしなかった理由はいくつか考えられます。1つ目は「よし」では字足らずになることです。2つ目は「よし」と終止形にすることにより文が終了してしまうために、余韻・余情が生まれず、短歌としての広がりに欠けることが考えられます。ですから敢えて終止形の「よし」とはしなかったのだと思います。
では、なぜ「よけれ」と已然形になっているのかですが、余韻・余情が生まれ、短歌としての広がりを持たせるためだと思います。終止形で敢えて終わらないことによりその後に続く言葉を想像させる。そのことが具体的に意識するかしないかは別として、短歌全体の広がりをもたらす技法です。
今一つは音の響きではないでしょうか。余韻・余情を生み出す技法の場合連用終止法・連体終止法という言葉がありますが、連用形・連体形で終わることが一般的です。このことは原則ではありません。用法的には省略法の一種ですので他の活用形や体言などで終わることも多くあります。また、已然形でも終わることはNO2の方の「田植機に豊かに乗りて名もなけれ 斎藤夏風」の例にある通りです。
形容詞ク活用の「よし」は本活用では、
く ・く ・し・き ・けれ・○
カリ活用では、
から・かり・○・かる・○ ・かれ
連用形であれば「く・かり」、連体形であれば「き・かる」が考えられます。「く・き」は字足らずになりますから「かり・かる」が候補となりますが、この2語尾の「か」音が強いと感じられたのではないでしょうか。「春の夜の軽きふとんはこころよく深くねむりて覚めぬも」と直前にあって、「春の夜」「軽き」「こころよく」「ねむり」「覚めぬ」と柔らかな意味・響きを持った言葉が続く中で、「覚めぬもよかり」「覚めぬもよかる」では音の響きが強くなり過ぎるために、「覚めぬもよけれ」と「か」音より響きが弱い「け」音を用いたのではないでしょうか。そこで已然形に結果としてなったのではと思います。短歌ですから感覚的な部分もあるので、作者が意識したかどうかは分かりませんが。
さらに思い出せないのですが古典に「よけれ」の用法があったようにも思います。
さて、「覚めぬ」の部分ですが、「覚め」は「覚め・覚め・覚む・覚むる・覚むれ・覚めよ」という下二段に活用する動詞です。そのため未然形と連用形が同じ形なので、完了の助動詞「ぬ」の終止形の「ぬ」(連用形接続)と、打消しの助動詞「ず」の連体形の「ぬ」(未然形接続)では接続により識別することはできません。
そのような場合はいくつかの方法がありますが、質問された方のおっしゃるようにこの短歌の場合、直前に「深くねむりて」とあることが解法のヒントです。意味からでも文法からも考えられますが、文法的には接続助詞の「て」は順接なので、上の言葉を受けてその当然の結果が下に来る働きをします。つまり、「深くねむり」という言葉を受けて、「覚めない」は当然の結果となるわけです。
文法的には以上のようになるわけですが、「覚めぬ」の後の係助詞の「も」は接続が「体言・助詞・用言や助動詞の連体形と連用形・種々の語」とあり、活用語の場合連体形接続が多いとはいえ、連用形の「ず」に接続しても文法的にはおかしくはありません。ただ、古典ではこのような場合「ず」はあまり使わない(慣用的には「ぬ」の)ように思いますし、やはり「ぬ」に比べると「ず」は響きが強いように思います。
はっきりしない、想像の部分もありますが、参考まで。
お礼
ご回答ありがとうございました。 学生時代は国語は嫌いで苦手だったのですが、最近、古典を読み直してみようと、少し勉強をはじめてみたところなのです(いつまで続くやら…)。外国語もそうでしょうけど、どうしても文法から入ってそれに縛られてしまうようです。うまく言えませんが、原則は原則として、音の流れ、響きなどが大事なのでしょうね。