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白川郷などの合掌造りの資材、資金調達

岐阜県白川郷、富山県五箇山など、大きな合掌造りがあります。 世界遺産にもなっていますが、これを建てたときの費用って、見当つきませんか。 素人には大変な金額だと思います。 地元の材木を利用したのでしょうが、それでもその資金はどうして調達し、どうして返済したのでしょうか。建てるときの労力には、結(ゆい)という相互扶助の制度を利用したのでしょうが、設計者はだれだったのでしょうね。 現地の方にいろいろ聞いても、こんな質問を今まで受けたことがないという顔です。当時、銀行はなかったし、ローンもなかったですから。

みんなの回答

回答No.2

今では道路が整備され簡単に行くことができますが 白川郷は極度に閉鎖された特殊性があります 村自体が大きな家族のようなもので原始共産的なコミュニティが あったんだと思います 魚や塩を除けば食料はほとんど自給自足 が出来ていてさらに加賀藩の隠れ硝煙工場として外貨を得ていたわけ ですから意外と裕福だったのではないでしょうか 建材はご察しのとおり回りじゅうに腐るほどあるますから 火災や分家などで家を建てるときは村中総出で山に木を切り出しに行き 挽いて建てたんでしょうね   

itasakura
質問者

お礼

お二人の方、回答をありがとうございました。 実は質問のあとも、いろいろ調べを続けています。 白川の関係者の話では、現在の当主が、先祖は米も食わずに金を貯めたんだろうなというつぶやきがあったそうです。 塩硝、繭糸、五箇山和紙などの三大収入のほか、山間部特有の産物での収入もありましたが、でも能登から出張してきた大窪大工が建てた1階部分には相当の費用(設計図面料、製材(柱、梁、板、貫等)、組立の手間賃や指物小物の調達、合掌屋根組立ての監督指導料(一部の大工仕事)、10人単位の大工の長期の逗留費用)がかかったと想像します。 また、礎石部分や屋根部分は近在の材料を使えますが、結いや惣による人手には直接の手間賃は払わなくても、そのまかない(食事や酒、肴)の費用が相当であったと想像できます。現在の茅葺き替えの時のまかないを考えると、賃金を払った方が安くなるようなぼやきもあるようです。 やっぱり、相当の資金が必要で、何十年もかけて貯めたのでしょうか。 資料を調べているうちに想像したのですが、 (1)塩硝を買い上げた(半分は年貢替わりで納める)加賀藩が、増産のため大きな合掌造り家屋の新築改築を奨励したのではないか(通常認めない材木、特にヒノキの切り出しを認めたり、合掌造り家屋の税の免除など)。つまり、合掌造り家屋は、住居ではなく、塩硝、繭糸、和紙製造の工場である。 (2)加賀地方と五箇山地方との相互の物産の運搬の中継点の城端町(じょうはなまち)の、双方の生産物の売買の仲立ちをしていた判方と言われた仲買商店たちが、将来の産物を担保に資金を融通したのではないか。 (3)茅を主体とした頼母子があるので、金を都合する頼母子もあったのではないか。 などと勝手に仮定しています。 もう少し、調べを続けて見たいと思っていますので、情報がありましたらよろしくお願いいたします。

回答No.1

 通貨経済が未発達のときに作られたものを、今の基準で考えるほうがおかしい。  どこの世界であれ、住処は現地にあるもので作られる。  三角屋根は、雪国では当たり前の造り。棒をてっぺんで交差させればできることで、別に不思議なアイデアでもない。  最初に山に入った人が、立っている木の値段を考えたと思っているのか?  安っぽい知識を振り回すのは止めたほうがいい。  暇なときに計算してみろ。

itasakura
質問者

お礼

合掌造りが始まったのは五箇山では戦国時代あたり、白川郷は江戸末期と聞きました。通貨経済はすでに発達しています。ですから、どのように利用されたか、興味があったのですが、回答者さんのつきはなすようなお話では、このWEBの趣旨に添わないと思います。 お礼のしようがありません。 ほかの方の回答をぜひお願いしたいと思います。

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