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長老中曽根康弘の責任

何でも1954年に早くも原子力開発予算がついたとか。 それで東海村に原発が出来たのが1963年と言う事をWikiで知りました。 しかも原発の開発に動いた一人が中曽根氏であると言う。 日本が原爆を二個も落とされ国民は原子力に極端にナーバスになっていた筈である。 まだCO2による温暖化が言われる前の事である。 今まだ長老面している中曽根氏は何故国民の総意を無視して原発開発の動き を行ったのか理由が分かりません。 現在の福島原発事故の責任を問うなら彼もその俎上に乗せるべきではないでしょうか? それとも彼には先見の明があったとも言うのでしょうか?

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noname#143314
noname#143314
回答No.2

”マグニチュード9.0の大地震が来て大津波が来たことによる” 原発事故が発生して、今もまだ安定化していない状況ですが 結果論で責任を問うのであれば、中曽根さんもそうですし、その 時に経済企画庁長官で東海村の日本原子力発電の設立に大 きく力を注いでいた河野一郎氏(反原発の河野太郎氏の祖父) などもそうです。もっといえば、原発関連の法案を賛成した議員 たち、そして、その議員に投票した国民も責任があります。 事故のあと、被害者面している福島県知事も原発賛成派の渡 部恒三氏の秘書をしていて、賛成派だったからこそ知事に当選 しています。知事が署名しているので原発は運転していたので。  マスコミやジャーナリストはいつも個人や団体を名指しにして 批判しますが、政治家はあくまでも選挙で選ばれているわけで その議員に投票した人には、その議員の発言、行動に道義的 責任があると思うのです。マスコミなどはあれだけ自民党をコキ 落として、民主党を持ち上げ世論を誘導し政権をとらせましたが 、また同じことを始めています。そもそも主義主張のバラバラな 人たちの寄せ集めの党にまともな政権運営ができるわけあり ません。   >中曽根氏は何故国民の総意を無視して原発開発の動きを >行ったのか理由が分かりません。 世界的にも原子力発電の開発が進められており、日本も諸外 国の動きに追従しようということもあったのでしょうが、政治的 な話もあったんだろうと思いますよ。日本で最初の原子力発 電所は東海村で英国製の原子炉のようです。 過去にさかのぼって責任を問うという考えもあると思いますが、 それをしても、今現在、未来が変わるわけではありません。 これからのことは、これからの人たち全員で議論して決めて いくべきだと思います。  中曽根さんがどうということではなく、世の中、間違ったこと をしている人は必ずどこかで自らに報いが来るものです。  誰が悪いと人のせいにしても何もならないので自分自身の できることをするしかないと思います。今度選挙があるときに 一人一人の冷静な判断をしなければなりません。

kanden
質問者

お礼

世界のトレンドになっていたのですか。 でも日本ではその当時広島や長崎で原爆症で死ぬ人がまだまだいたのによく国民のコンセンサスが取れたものですね。 勿論今更中曽根氏の責任追及しても得るものは何もないのですが大物ぶってテレビに出てくるのは止めて欲しいですね。 それに福島の原発はMark-1はアメリカの設計者が欠陥品だと告白したとか。 そんなものを40年使ってきたのを思うとつくづく怖いですね。 私も知らなかった事を教えて頂き有難うございました。

その他の回答 (4)

  • mekuriya
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回答No.5

No.3です。もう少し補足したい。 日本では長い間、石炭がエネルギー源の主役だった時代が続きました。蒸気機関車、石炭ストーブ、火力発電所の燃料、銭湯の燃料といった具合に石炭が燃やされていた。石炭を燃焼させれば、どうしても窒素酸化物・硫黄酸化物を排出します。それが酸性雨・大気汚染の原因となった。 また長い間石炭を掘りつくした結果、鉱脈がどんどん深くなっていって採掘コストも増大し、深刻な炭鉱事故も相次ぐようになったのです。落盤事故、ガス噴出事故、爆発事故で一度に数十人~数百人もの死者行方不明者が出る。炭鉱労働者だけでなく炭鉱近辺の住民にも公害病、慢性病も起きていました。 そんな目にあっても炭鉱労働者は炭鉱から離れようとせず三井三池闘争を戦い抜いた。経営側は採算が取れないので閉山したいと申し出たが、労働側は閉山反対として対立したのです。一方で蒸気機関車は電車に変り、石炭ストーブは石油ストーブに変り、火力発電所の燃料も石油や天然ガスに変り、銭湯のボイラーの燃料も石油に変っていた。それがエネルギー革命だった。 その一方で火力発電所は公害のデパートと呼ばれて、地域住民の反対運動が起きた。伊達火力発電所反対運動は1970年から20年続いた。 戦前、家庭の電化製品は白熱電球とラジオぐらいなものです。それが1950年代の白黒テレビ・洗濯機・冷蔵庫の普及で急激に電力需要が伸びていった。しかし火力発電所は公害を伴う。石炭は前述の通りだし、石油も天然ガスも国内ではほとんど産出せず、輸入に頼るしかない。それではいったいどうやって電力を供給すれば良いのか。水力発電は戦前のうちにほとんど開発してしまった。ダム建設では非人道的なタコ部屋労働で多くの殉職者・犠牲者を出してしまった。黒部ダムは戦後の工事だが、それでも100人を超える殉職者を出している。 高度成長に伴い、産業用・家庭用とも電力需要が伸び続ける。しかし、水力発電はもはや開発できる場所がない。火力発電所は地域住民の反対運動がある。その結果、電力不足となり停電が頻発する。 こういう状況で唯一の解決策が原子力発電の推進であったわけです。といって、やみくもに原子力発電一辺倒に走ったわけでもない。技術革新で火力発電所の窒素酸化物・硫黄酸化物排出削減の努力も続けられたのです。とにかく電力需要の伸びが急激で、原子力発電だけでは需要を賄えないことも明白であったからです。基本的な国策としては原子力発電も含めてエネルギー源の多様化・安定化を図るというものです。原爆を連想させる原子力発電に対して、抵抗感を示す声も無かったわけではない。しかし世論の大筋としては、停電はまっぴらという声がほとんどだったのです。 他にも1970年代の2度にわたるオイルショックも大きな要素でした。原油の需給逼迫、価格高騰が日本経済に大混乱を招いたのです。産油国の一方的な5倍という値上げを飲むしかなかったからです。 この頃は首都圏の人口流入が続き、通勤電車の混雑率が300%にもなる殺人ラッシュで輸送力増強も叫ばれた頃です。しかも冷房も無いのですから、夏は地獄のような劣悪な環境だった。電力なくしてどうやって電車を走らせるのか。電力なくしてどうやって冷房を稼動できるのか。 まさしく原子力発電は国民の総意によって推進されたのが事実なのです。

kanden
質問者

お礼

再度のご回答有難うございます。 やはり原発を容認する世論があったと言う事ですか。 言われてみればテレビが普及する前は家庭で消費する電気は電灯とラジオ位しかなかったですね。 何となく理解出来ました。 今更原発を推進してきた過去の人を批判しても無意味であると思っています。 それにしても今回の原発事故は日本から色々なものを奪って行きました。 放射能被害は甚大であり、世界からの信頼も失いました。 いずれは脱原発すべきだと思います。 新しいエネルギーを実現化して欲しいものです。 又よろしくお願いします。

  • rikukoro2
  • ベストアンサー率21% (1316/6195)
回答No.4

>だけど当時の大方は原子力アレルギーであった事は容易に推測出来ます。 それだと単に質問者の『根拠のない妄想』って事になりますよ?  今回福島原発事故後、青森県知事選挙 原発推進派の知事が圧倒的な票数で当選してます。 ほかの自治体でもそうです。  推測はあくまでも推測、それに『検証』があって始めて事実となります。  >質問の趣旨は何ゆえ原発の開発がそれほど速く動きを見せたのかその根拠です。  電気が足らないからです。  第一次中曽根内閣は昭和57年(1982年)  急速なGDPの増加の時期です  http://ecodb.net/country/JP/imf_gdp.html  消費電力も急激な増加をしています  http://www.fepc.or.jp/present/jigyou/japan/index.html     日本の電力は電子力を除くと少しでものびしろがあるのはLPガスですけど  当時日本のLPガス燃料増産を引き受けてくれる国ってありました?    どちらかというと先見の明ではなく、それしか方法がなかった・・ということになると思います  

kanden
質問者

お礼

>先見の明ではなく、それしか方法がなかった もしそうなら原発の依存度は3割以上に増えていたのではないでしょうか? 確かに1980年代からGDPは上向いてきました。 その事を1954年の頃からみぬいていたと言う事は中曽根氏他はやはり先見の明があったと言う事になるのでしょうか。 有難うございました。

kanden
質問者

補足

間違えました。 日本の景気が上向きになったのは1960年代であったと思います。 訂正します。

  • mekuriya
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回答No.3

原発推進が当時の国民の総意でした。福島原発事故の責任は100%東京電力にあります。原子力発電が注目されたのは、炭鉱が続々と閉山し、石炭から石油へ、エネルギー革命と呼ばれた時代です。そこに起きたのがオイル・ショック。石油に一極集中しては日本の将来は無いというのが国民のコンセンサスであった。極左暴力集団は、三井三池闘争、安保闘争、成田三里塚闘争といった具合に目標を切り替えながら、暴力闘争を繰り広げた。しかし、反原発闘争などは一度も起きなかった。

kanden
質問者

お礼

>原発推進が当時の国民の総意でした と言うのは本当ですか?世論調査などの数字があるのでしょうか? 終戦後わずか9年で原子力を容認する世論があったとは思えないのですが。 確かに仰る通り版原発闘争と言うものは無かったですね。 なるほどそうですね、確かに。 もう一度調べてみます。 有難うございました。

  • rikukoro2
  • ベストアンサー率21% (1316/6195)
回答No.1

>何故国民の総意を無視して原発開発の動き この相違ってのが分かりません。  当時原発関連の国民投票なんかやってませんし・・・  その根拠となるデータを示してください。

kanden
質問者

補足

国民の総意となるデータなんてありませんよ。 まして国民投票なんてね。 だけど当時の大方は原子力アレルギーであった事は容易に推測出来ます。 質問の趣旨は何ゆえ原発の開発がそれほど速く動きを見せたのかその根拠です。 だから聞いているのは中曽根氏他は先見の明があったのかそれとも何か別の理由があって推進に動いたのかです。 分かりました?

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