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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:専門学校生に大学生はクズと馬鹿にされるのですが・・)

専門学校生に大学生はクズと馬鹿にされるのでしょうか?

このQ&Aのポイント
  • 専門学校生に大学生はクズと馬鹿にされると言われますが、実際の評価はどうなのでしょうか?
  • 地元の友人たちからは、専門学校生に対して大学生は遊んでばかりのクズと馬鹿にされています。
  • 大学内でも勉強に真剣な人は少なく、遊ぶ人が多いため、友人たちの言葉に反論できない状況です。しかし、世間一般では専門卒の方が役に立つと評価されているそうです。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • TANUHACHI
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回答No.5

 これはあくまでも僕の個人的な意見ですが、質問者様の友人達が大学生を屑と呼ぶ背景には多分にコンプレックスが働いていると思われます。  寓話に「狐と葡萄の喩え」があります。狐が森の中で葡萄をみつけた。その葡萄の実は見るからに熟していて美味しそうに見えた。がその葡萄の房を付けている木の枝は狐が如何に手を伸ばしても届かないほどの高さにあった。仕方なく狐は葡萄の実を手に入れる事を諦めたが、その理由は「きっとあの葡萄の実は酸っぱいのだ、だからボクの手に届かない所にあるんだ」との理由をつけてその場から去っていったとの話です。一見つじつまが合っているかのように見えても事の本質は別なところにある事の喩えです。狐が葡萄の実を手に入れる事ができなかったのは「葡萄の実が酸っぱいから」ではなく「葡萄の房のある所まで手が届かなかったから」ですよね?。  今の君に対する友人の言葉はこの狐の「自己弁護」と同じです。中にはそうした心ない言葉で大学に学ぶ同世代の人間を嘲笑する人がいるかもしれませんが、殆どの人は自分とは異なる選択肢を選んだ人に対して「僕は自分の選んだ道を行くけれど君は君が選んだ道を行けばそれでイイじゃない」と違いを認めて互いに敬意を示すと思う。それは一つのモノサシが全ての価値を判断する基準とはなり得ない事と同じ意味を示すと利発な君ならば判っていると思う。  そんな取るに足らない話など気にせず、信じて選んだ道を進んでいくしかないと僕は思う。早稲田大学といえば天下にその勇名を馳せる学舎の代表であり、そこでは多彩な人物が闊歩する自由と進取の砦の代名詞でもある。君の人生において「次の選択」を行うのは今から4年後の先だということだけが現在確定している唯一の条件でもある事に気付いているならば「今の自分が為すべき事は何か」だけを考えよう。  もしかしたらその友人は大学進学の道を選んだ友に対して、面と向かって「俺は俺の方法で頑張るからお前はお前の方法で頑張れ」とエールを贈ることが気恥ずかしくて「突っ慳貪な言葉」を発してしまっているのかもしれない。あと20年もすれば同窓会の席では互いに「胴回りが気になる」とか「額の生え際が………」として共通の話題でぼやくオジサンの姿で出会うことになってしまう。どちらかと言えば、男は不器用の範疇にはいる生き物だから。  以上、仕事しながら一方では大学で「特任教授」なる名前だけは立派な「よろず相談室の好奇心旺盛な」オジサンのお話でした。 

その他の回答 (11)

  • tanuki4u
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回答No.1

クズから未来が開けます。 大学でたらすぐに役立つような知識だったら、すぐに劣化する。 汎用性のある知識体系を獲得するために大学はある。 だから大学は研究と教育を両輪として持ちます。 ※ 大学の先生の仕事が研究と教育というのは誤解です。 19世紀にドイツが先進国イギリスにキャッチアップするには、既存の知識を教えているだけでは、追いつけない。どうしたらいいか?と考えた末に到達したのが、研究しつつ教育するという「研究室」スタイルです。 その結果、19世紀の末の段階で、イギリスはドイツの後塵をはいし、20世紀初頭のノーベル賞はドイツが優勢となります。