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ブタがいた教室・・・皆さんだったら、ブタをどうする?
- 1990年大阪の小学校で実施された「ブタを飼育して、食べる」という実践教育について、卒業時のブタの処遇でクラス内で論争が起きた。
- 結論は下級生のクラスに引き継ぐか、食肉センターに引き取ってもらうかという二つの意見に分かれたが、先生は食肉センターを選択した。
- この実践教育には賛否両論があったが、ブタをどうするべきかは個々の価値観によると考えられる。
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面白いテーマですね。食べるのが残酷だという生徒も畜産農家から出荷されたとんかつは気にならないのでしょう。どの豚なら食っていいのか? いままで友達だったから、というのは理解できる理由です。一方で自給自足の山奥の農家の子が見たら、これはいったい何の議論だいと言うはなしでしょう。私も本屋でアヒルの買い方の本を立ち読みして、アヒルを幸せにする情報の最後のページが食べ方であったときはちょっとショックをうけました。結局、人や生き物の普遍的な価値というものは存在せずすべては個別の一対一の関係であると考えさせられます。ある生徒にとって親友であった動物が他の生徒にとって食欲の対象であることを否定できません。 ところがこれを小学校で教師が主催することについては言うことがあります。最大多数の最大幸福と言いますが、それ以前に最悪の不幸を蒙る人の不幸を最小にしなければなりません。豚を食う場合、幸福を得るものは豚を食う者であり、不幸を受けるものは親友を食われる者です。幸福を得る側には養豚場の豚という代替品があるのに対し、親友を食われる側には替りがありません。よって多数少数にかかわらずこの場合は食うべきでないという意見を採用すべきでした。
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- 192455631
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食べるべきです。 パックになっている肉は「うめぇ!」といって食べる。 生きて飼育した豚は「かわいそう」といって食べることを拒否する。 それは、間違った考えであるとわかって貰う必要があります。 幼い内から、人間は「他の命」を喰って生きている生物である ということをきちんと教えるべきです。
お礼
>幼い内から、人間は「他の命」を喰って生きている生物 多分授業で教えたかったのはそこだと思います。 だからこそ、食に感謝して人間のために食肉となっていくブタや牛に感謝する・・そういうことだったと思いますが、「そのために殺す」ということと「命」ということで、「人間の生」と同一にならなかったところが話として複雑になっていますね。 回答を頂き、ありがとうございました。
昔近所のお宅で縁日で買ってきたひよこを育てて大きくして、 食べたと言う話を聞いたことがあります。 子供心にショックでした。 豚は知能が高いと聞いたことがあります。 名前をつけて育てれば、それだけ豚も人に懐くのではないでしょうか? 豚舎で食肉にされるべく育てた豚とは違います。 センターには引き渡せません。
お礼
この話で思い出しましたが、外国で犬を食べる地域があることを聞いたことがあります。 日本ではペットとして飼われていて食べることなど全く想定していませんが、そういう国では食用としているんですね。 飼われている環境や目的で犬の運命が決まるというのはちょっと残酷ですが、今回は「大きくなったら食べる」という目的だけで、何もバイアスをかけなかったところがよかったのか、それとも悪かったのか、ちょっと考えてしまいます。 回答を頂き、ありがとうございました。
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生徒と一緒に教室で生かしてあげるべき…と思います。 私が飼育に関わった生徒のひとりなら「下級生のクラスに引き継いで、最期(ブタが自然死する)まで面倒みてあげて欲しい」と望まずにはいられません。 (うろ覚えですが、実話では、このブタは年齢や体格面で、既に食肉には適さない身体になっていたようです。) 他人が育てたブタで、その飼育の経緯を知らずにいられたならば、「何食わぬ顔」で食べることも可能だったかも知れませんが。 食事の前、「いただきます」と手を合わせますが、この「手を合わせる」意味について、「合掌は本来、目の前に存在する合掌の対象からチカラをいただくための行為」と教えられたことがあります。 そういう意味では、「いただきます」の挨拶は、食事を作ってくれた人への感謝というより、人間のために寿命を犠牲にした動物への弔意とした方がふさわしいのかも知れず、こうした食物連鎖の社会に生きていながら勝手な言い分ですが、私なら、自分が育てた動物を食べることは絶対にできません。 昔、私の親戚の家では、食肉用の子豚が飼育されていました。(現在は廃業) 子どもの頃、ブタ小屋によく遊びに行っては、ブタを追いかけて楽しんでいた記憶があります。 ブタの耳には、何やら金具のようなものが埋め込まれていて、「痛そう」と感じました。 ブタのお尻に、品番?のような数字がチョークのようなもので書かれてあるのも不思議でした。 ブタは、1年サイクルで顔ぶれが変わっていたように思います。 なぜ、この子豚達が大きくなるまで飼育しないのか、何処に連れて行かれるのか。 色々疑問は湧きましたが、その答えは絶対に教えてもらえませんでした。 一方で、やはり子どもの頃の話になりますが、その親戚のご近所さんが養鶏場を経営していたことがあります。(現在は廃業) 親戚宅へ泊りに行くと、父がよくそこへ出向いてはニワトリを一羽数百円で買い取っていました。母には止められましたが、私は父に付き合って父がニワトリの首を切り落とす場面を観察したものです。 そして数時間後、調理された鶏を私は「おいしい、おいしい」と普通に食べていました。 飼育されるブタが食される結末を知らないから、数々の疑問も「そういうものなんだろう」で片付けることができたのです。 自分が飼育しないニワトリだから、食べるという残忍な行為も「そういうものなんだろう」で片付けることができたのです。 しかし、「自分が愛情を込めて飼育した動物」と「食用の結末」が同一線上となるのは、私なら精神的にとても耐えられません。 綺麗事に過ぎないかも知れませんが、それが私の正直な意見であり感想です。
お礼
>「自分が愛情を込めて飼育した動物」と「食用の結末」 これで思い浮かべるのは、肉牛やブタなどを飼育して出荷している農家の方です。 丹精込めて大事に育てて・・いざ出荷となったらきっと複雑な心境だと思いますが、そこで吹っ切れるのは「生活の収入源だから」ということかと思いました。 おっしゃるように、私の田舎でも昔鶏を飼っていて、副産物(卵)を得たり食用にしたりする目的でした。 そこにはペットという感覚はなくて、専ら「生活のための動物」という位置付けでした。 動物は動物には変わりはないのですが、人間が食用に供するという前提で考えたら食肉用の家畜だし、家族の一員として飼うということを主眼におくならばペットという、これは人間の考えでどうにでもなってしまうところがあると思います。 この授業では、「生活のため・それがないと収入が得られない」という視点がないままに飼い始めたので、食べる目的だったのに「ペット化」して、食用家畜の役割がぼやけてしまったような気がします。 畜産農家が育てたブタや牛の肉は食べられるけど、自分が育てたブタや牛は食べられない・・難しい問題です。複雑ですね。 回答を頂き、ありがとうございました。
- poster
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食肉センターかどっかに持ってって、さばいて、みんな(飼っていた人)で食べます。 肉にする=殺す、じゃないんです。 ブタは食べられた人の体の中で生きてるんです!!←カッコつけたww って TVを見ながら叫んでましたww
お礼
>ブタは食べられた人の体の中で生きてるんです これと似たようなことを言っていた生徒がいましたね! 結局、殺すという気持ちが出てしまうのは、「Pちゃん=クラスメイト」という感情と関係があるのかも知れませんね。 回答を頂き、ありがとうございました。
お礼
「包丁人味平」ですか! 懐かしい、昔読んだ記憶があります。 でも、おっしゃっている「白糸ばらし」は何のことやら全く分かりませんでした。 回答を頂き、ありがとうございました。
- Devil-Ear
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みんなでBBQしかないね。
お礼
すごい量の肉になると思います。 豚肉は滴る油が多いので、BBQではすぐに下に火がついてやっかいですね。 回答を頂き、ありがとうございました。
お礼
家畜として飼うつもりがいつの間にか感情移入してしまって、ペットもしくは、おっしゃるように親友化してしまって、「食の対象」とは違ったものとなってしまいました。 ドキュメンタリーでは、ラストは豚肉となったPちゃんを皆で食べるシーンがありますが、喜んで食べる生徒、食べない生徒、泣く生徒・・で終わっています。 結局、親友が突然食肉となって眼前に出てくるわけですから、「食育」とするにはあまりにも残酷のような気もしますね。 回答を頂き、ありがとうございました。