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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:脳から見た動物に対するモラル)

脳から見た動物に対するモラル

このQ&Aのポイント
  • 脳科学の観点から考えると、人間と家畜は感情をつかさどる部分で大きな差はない可能性がある。
  • モラルの観点からは、感情のある生命に対して尊厳を与えるべきだという意見もある。
  • 書物の著者が独断と偏見で執筆していることを考慮すると、内容には慎重に対応する必要がある。

質問者が選んだベストアンサー

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  • ruehas
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回答No.2

こんにちは。 「偏桃体」といいますのは入力情報に対して生物学的な判定を行うための中枢機能であり、その起源は魚類にまで遡ります。この偏桃体を中核とする「大脳辺縁系」では、身体内外の環境の変化に対して「利益・不利益の判定」を下し、脳内に「情動反応」を発生させます。この判定により、利益には「接近行動」、不利益には「回避行動」の何れかがまず直ちに決定されます。この結果は自律神経や運動神経を介して身体に直接連絡されます。これにより身体広域の生理状態が強制的に変更され、与えられた状況に応じた速やかな行動の選択が可能となります。 「強制的な変更」といいますのは、要は表情が変わったり、あるいは思わず赤面したり足が竦んだりといったことです。我々はこれにより、今自分に何らかの感情が発生していることを自覚します。もちろん、他人から見てもだいたい分ります。 このようなものをひっくるめて「情動性身体反応」と言います。つまり我々の「感情」といいますのは、それは環境の変化に応じて脳内に発生した情動反応が末梢神経系を介して身体に表出され、その結果を喜怒哀楽のパターンに分類したものです。 大脳辺縁系といいますのは動物が環境の変化に応じた行動を選択するためのものであり、脳内にこれを有する全ての動物には我々人間と同じ構造の情動機能があるということになります。ですから、動物がその脳内に発生した情動反応に従って接近行動を選択するならばそれは「喜び」、回避行動ならば「不満」、少なくともこの行動の結果は二種類の異なる感情として分類することができるわけです。 このように、大脳辺縁系の情動機能によって選択される行動を「情動行動」と言います。どうしてこんなにはっきりしているのかと言いますと、それは偏桃体の判定には利益と不利益の二種類しかないからです。ところが、我々人間の感情といいますのはそんなに単純なものではありません。これは、辺縁系に発生した情動反応が身体に表出される過程で更に細かな状況判断によって様々に分岐してゆくからではないかと考えられています。そして、このような細かな状況判断といいますのは、果たして哺乳動物のように発達した大脳皮質や辺縁系でなければできません。つまり、魚類と人類では偏桃体の機能ではなく、「感情の複雑さ」が違うというわけです。 脳の解剖学的構造の違いに基づき、高等動物とは哺乳類と鳥類を指し、爬虫類以前は下等動物になります。脊椎動物に著しい脳の発達は魚類に端を発し、その「生命機能」と「情動(行動選択)機能」は爬虫類を以ってほぼ完成を見ました。では、それ以降に進化した我々哺乳類と鳥類は、この爬虫類の脳をベースに、そこに大脳新皮質を発達させました。このため、両者の脳の構造はそこではっきりと異なります。 先に述べました通り、情動が複雑に分岐するのは、高等動物では大脳辺縁系や大脳新皮質が発達しているからです。加えて、「過去の体験を基に現在の状況を比較し、未来の結果を予測する」、このようなことは大脳皮質の機能であり、果たして、辺縁系の情動機能でもこれはできません。下等動物といいますのはこの大脳機能が不十分であるため、未来の結果を予測するというのはほぼできないと考えられます。 このように、爬虫類の脳で選択される「本能行動」や「情動行動」では未来の結果を予測することができませんので、今現在の状況にしか反応できません。これに対しまして、大脳皮質の「理性行動」といいますのは未来の予測を行い、現在の反応とは異なるより価値の高い結果を選択するための「計画行動」であります。ですが、この理性行動といいますのは必ずしも道徳行動と動議ではありません。 「道徳観」といいますのは論理的に解釈できますが、「道徳心」というのは、これは辺縁系の情動体験によって獲得されるものです。理性というは飽くまで未来の結果を予測する機能であり、それが最終的に正しいかどうかを判定しているのは、実は大脳皮質ではなく大脳辺縁系です。申し上げました通り、辺縁系といいますのは脳内では行動の選択を行うための中枢です。従いまして、ここに反応が発生しなければ良いも悪いもそれを行動に移すことはできないわけです。そして、大脳皮質の学習記憶とは違い、この辺縁系の情動反応といいますのは自分の心で実際に感情を発生させない限り絶対に学習することはできません。 我々が生き物を慈しむ気持ちというのは、相手が感情を有するかどうかとは、実は全く関係がありません。 魚類以前の無脊椎動物に情動機能は確認されていませんし、植物に至っては神経系もないです。では、否なる理由かは分りませんが、我々生物の使命とは子孫を残すために生命を全うすることです。ならば、これが阻止されるならば、果たしてそれが全ての生命にとって共通する苦しみということになると思います。そして、この「他者の苦しみ」を理解することを「感情移入」と言いますが、これは情動反応を司る辺縁系の大きな役割のひとつです。 他人の心の中を覗いてみることはできませんので、我々は相手の言葉や行動からそれを推測します。これを「情動理解」と言い、自分の体験を基に脳内で相手の心情をシミュレーションします。大脳皮質で行っていますのはこのシミュレーションの部分であり、それに対して「可愛そうだ」といった判定を下しているのが大脳辺縁系です。従いまして、自分の辺縁系に同様の情動体験がなければ脳内に相手の心情を再現することはどうやってもできないわけです。ただ、これも飽くまで一方的な感情移入ですから、相手が本当にそう思っているのか実際には分りません。ですが、逆にこれにより、我々は草木や非生物に対しても哀れみを抱くことができます。 情動といいますのは、基本的には発生させなければ学習できないものです。ところが、我々は自分が死んだこともないのにそれを悲しみと感じることができます。人間の大脳皮質というのはありとあらゆる思考体験を実現しますので、辺縁系ではこれに伴い、あれやこれやと様々な情動が発生します。このため、我々は多くの生き物を慈しむ気持ちと同時に、ひとの死や苦しみに深く胸を痛めなければなりません。たいへん高度な能力であると共に、それは人類に与えられた試練でもあります。果たして仏教といいますのは、人類がこの矛盾を解決するために生まれました。

その他の回答 (1)

  • ka28mi
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回答No.1

脳の構造や性質の問題と、モラルや尊厳の問題を繋げてしまうと迷路に入ると思います。 「脳が同じだから同じ尊厳」という理屈をすすめると、病気や先天性の欠落で、脳の一部が損傷している人は、他の人に比べて劣っているのか、という反論をすることができます。 「人間と変わりない感情や高い知性を持っているから高等」これは、捕鯨に関する話でもよく出ますよね。この理屈をすすめると、感情が欠落している場合や知性が低い場合は劣等とみなしてよいのか、という反論をすることができます。 どちらにしても、「どこで線を引くのか」という問題が出てきます。 極論を言えば、爬虫類や両生類の脳と人類の脳にも共通する部分があります。哺乳類だけは尊厳があって、その他の動物には存在しないのか、という問題も出てきます。 脳科学の問題は科学の問題、モラルや尊厳と言う問題は社会的な問題と分けるべきでしょうね。