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幸せはいつも心の中に?
- 幸せは外にあるのではなく心の中にある。幸せは探すものでも与えられるものでも無く、既に心の中にあるものである。
- 幸せは歩いてこない。だから探しに行くんだ。何かしら動くことで変わる。何もしないで幸せを待っても変わらない。努力を乗り越えて幸せを手に入れる。
- 物を手に入れても幸せなのは最初だけ。そんなのほんとの幸せじゃないけど、一時でもそれで幸せを感じたならいいんじゃないの?幸せは心の中に既にある。
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こんばんは 幸せ…辞書にその意味は載っていますが、 幸せ自体に『実体、実相』はないのです。 つまり『感じるモノ』ですから、 その感じる部分『センサーは心』となりますので、 やはり『実体も実相もない』のです。 >やっぱり『幸せは外では無く中にある』の意味が分かりません。 『あなたの心はどこにありますか・・・?』ときかれた時、どう答えますか? おそらく、なんとなく、『自身の内面』と言う答えになるでしょう。 決して『自分の心が自分の肉体の外側にある』とは答えにはずです。 仮にそう答えたとしたら、『外にあるモノ』ですから、『提示する事ができる』はずです。 『これが心です』と、手に乗せてでも示せるはずです。 でもそうはいきませんよね。 心は自身の内にあると、感覚が知っているのですから。 したがって『外にある何か』に、『内なる心が反応した時』、 幸せを感じたとなり…、どこで感じたの?ときかれれば『内側』となるのです。 別の例をひとつ。 『花は綺麗だ』…これは実は『間違い』なのです。 『花は花』でしかありません。ですが“花”と『感性(心)』が反応すると、 『綺麗だと感じる』のです。 その感覚は『外側(花)には無く、内側(心)にある』のです。 それでは。
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- moshimo200
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No.5です。 >夏と冬という「環境=外側」が変わったからと言えるのでは無いでしょうか? 実はこの文章を読んで、ありゃぁ? 確かに反応は自分自身だから内側といえるけど、 takutakamaさんの言うとおり外側ともいえる!と気づきました。 環境という外側に自分自身が反応することで起こる現象(感情気持ち)となると、 「外側の影響で自分自身の反応が変わる=外側によって自分自身の反応が変えられている」 そうなると外側とも言えますよね。 回答しておきながら、すいません、私自身も、どっちだろう?と考えてしまいました。 そこで自分なりにこんな風な考が出てきました。 視点の違いで、内側と外側のどちらとも言える可能性があるんじゃないかなぁと思います。 極端な例ですが、毛布も、自分自身からの視点だと、 冬場は暖かい、夏場は暑苦しい、という反応が出ます。 そして反応を出しているのは自分自身だから内面と言うことができました。 今度は第三者の視点で、実験室のマジックミラー越しに、 人が寒い部屋で毛布に触れ幸せを感じるのと、 人が熱い部屋で毛布に触れ暑苦しさを感じるの比べてを観察したら、 環境=外側によって、その人自身の反応が変化させられているから、外側と言うことができました。 物事を、自分自身の目線(視点)で解釈する場合と、第三者の目線(視点)で解釈するのでは、 時には真逆の解釈になることがあると思います。 表裏一体という言葉もあるように、幸せがどこにあるかも、 その視点によって、解釈が内側でも外側でも出来るのではないのかなぁと私は思いました。
お礼
再度の回答ありがとうございます。ほんとに内外考えるとごちゃごちゃになってきてしまいました。結局、最終的には自分次第と言う事は変わらないのかもしれない。様々な観点から考えてもそう思えたら本当に幸せですよね。
- kebu
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きっと「幸せ」は心の中にもないでしょうね。 「幸せ」は感じるものであって、どこかに存在しているものではないんですよ。 だから、「保存」できないんです。 「幸せ」はいつか必ず消えていくものなんでしょうね。 まさに「諸行無常」なんですよ。
お礼
幸せをずっとためて置く事は出来ない‥‥そうかもしれない。やはりその時感じるものだからですよね。ありがとうございました
- moshimo200
- ベストアンサー率33% (35/104)
私はNO.4さんに賛成です。 >地震にあっても心の中は幸せとはなかなか思えず、毛布と言う『物』があるから幸せと思える。 という部分を 冬場と夏場で考えてみてはどうでしょうか? 冬場、毛布があることに、幸せを私は感じます 夏場、毛布があることに、暑苦しくて嫌な感じが私はします。 毛布は冬場でも夏場でも、姿や形は変わらないと思います。 変わったのは、私自身の毛布に対する反応です。 だから幸せも嫌も、どこにあるかと考えたら、 モノにあるというよりも、自分の中にあるのではないでしょうか? 極端な話、もし悩みに対する反応として喜びを感じるとしたら、 悩みが沢山あって私は幸せだなぁ~と感じる可能性があります。 悩み自身ではなく、それに対してどう反応するかだと私は思います。 さらに、私たちは毎日、目にするモノ、触れるモノ、耳に届くもの、におうモノ、味わうモノ、 沢山色々な情報が五感を通して入ってきます。 毎日入ってくるモノに対する反応として、幸せを感じることが多かったら、幸せで、 逆に幸せを感じることが少なかったら、不幸せになると考えることもできます。 だから幸せも不幸せも、私たち自身の反応として存在するので、 どこにあるのかというと、私たちの中だと思います。
お礼
どう感じるか、どう反応するかは心の中にありますもんね。ただ‥毛布は毛布に変わらなくとも夏と冬という「環境=外側」が変わったからと言えるのでは無いでしょうか?
- kansya-arigatou
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究極の心の状態が『幸せは外にあるのではなく心の中にある』なのでは? 心レベルMAXの状態。 あなたが、毛布があれば幸せと感じられるならば、相対的にレベルは高いと思います。 毛布が手に入れば「毛布しかない」と不満に陥る人は往々にいる。 しかし、毛布もない人にとっては、「毛布があるだけまし」となる。 これは限度がない限り永遠と続きます。上のレベルにも下のにも。 例えば、家持の人が「もっと高級なベッドが欲しい」 逆に「寝る場所があるだけ幸せ」と思う人もいる。 一般人は経済状況や心理状況により感情は変わります。 しかし、心レベルMAXの状態になると、心は状況に左右されなくなる。 どんな状況でも、幸せを感じられる。幸せを見出せる状態と言い換えても良いかもしれません。 そうなると、「生きてるから、幸せ」と感じられる。ようになる。 想像はしにくいですが、そんな人もいます。どこかに必ず。 その状態に一歩でも近づくことが人間の使命なのではないかと私は思います。
お礼
その状態に近付きたくて近付きたくているような気がします‥。心一つって言うか‥ほんとその通りかもしれません。ありがとうございます。
- fuken
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そうですね。 身の回りの幸せは気づくと遠くの記憶の中。 振り返って思い返しても印象が薄く・・・・ 例え話ですが。 数年前の私が感じた 小さな幸せの数々は。 長期入院してまして。 ICUからC棟と言うところに看護が緩和され移されました。 まだまだ立ち上がれず・・・寝たきりでしたが、一日の長さが感じれて幸せでした。 絶飲絶食・・・つまり点滴で栄養と水分を与えられた生活から脱却するころ。 凍らせたポカリスエットを口に出来たとき・・・それこそ、その味は至福と言っても良かったくらいです。 上体が起こせるまでに回復して・・・食事が始まった時には、また幸福感がありましたね。 しかし・・・食事とは言えない代物でして・・・おもゆ(米粒の無い糊みたいなもの・・) カツオ出汁だったりシイタケ出汁の具が無い汁モノ・・などなど。 体調も良くなり。そこに、三分がゆというメニューが出たとき。 米粒が小さじ1杯ほど入っていまして・・・その食感に感動して食べる幸せを感じましたよ。 ベットから立ち上がり、自分の足で立てた時。 何でも出来そうなくらい自信があふれ、それも幸せでした。 今は、多少怪我の違和感は感じますが、家族の近くに居られる幸せ。 「引き落としが出来ていませんでした」的な・・・葉書がきても・・・(笑) 負けないくらい 。 小さな事を見つけては幸せを感じれるようになったので、長期入院も・・振り返れば幸せの一部だったのかな?と思います。 要するに、自分が その時 どう受け取るか?でしょうかね。
お礼
自分がどう受け取るかは大切な事ですよね。大変な思いをする程に何気ない事の有り難さに気付きます。ありがとうございます。
- tarori2
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欲に駆られ外にばかり幸福を求める人を戒める言葉ではないでしょうか 動けば動くほど良いという考えにとらわれると無限に自己を拡大せねばならないです。いつか限界が来る。 「足ることを知る」の精神だと思います。
お礼
足るを知る‥とても大切な言葉ですね。ありがとうございます!
お礼
幸せはセンサーとも言えるんですね。花を見れば当たり前の様に美しいと思う‥‥‥これが心に見えない内にある幸せなのですね。ありがとうございました。