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宮城谷昌光「重耳」の遍歴する公子
表記の主人公は諸国を遍歴します。 また、孔子も同じように理想の君主を求めて遍歴したとか。 戦国時代、こういうことは一般的だったのですか。 不確かな血統と能力をあてにするより、子飼の人材のほうがはるかに信頼出来そうに思えます。 受け入れる諸侯の側にはどんな利得があるのでしょうか。 現在の入社試験みたいなことでしょうか。
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効率的に人を支配する、武力で勝つ、というのは、まさに、春秋、戦国時代の、韓非子、孫子を待たないと出てこない発想です。 徳で支配していたのではなく、社会階級と、利で、支配していたのです。 中国最初の支配者は、治水で天下を取りました。 人が少なく、土地も多いから、戦いではなく、生産性向上だけで、争わなくても勢力を伸ばせたんです。 生産力があれば、物資を輸出できます。富の下に集団が集まります。 最初の王朝、殷は、青銅器による農具の実用化で、富を築き、支配しました。 ただ、書かれているように、中国は大きく、一度に広くは支配出来ないため、王様の中のリーダーという位置づけです。 やがて、末子相続により富が分散し、殷の支配は弱まります。 誰も、王朝は倒せるもの、とは考えなかった時代に、周がやむにやまれない事情で倒しにいき、結果、新しいリーダーになります。 ただ、他国を支配する術は持っていないので、緩やかなリーダーの交代を演出して、争いにならないようにしました。その時の思想が易姓革命です。力で奪ったんではないですよ、選ばれただけですよ、ということです。 ご質問者さんは、出来上がったものをみるから、不思議に思えるのかと思います。
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- potatorooms
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大前提。 人口が少なく、生産人口もすくなかったため、有能な実務家がいたら、そのまま富となった。 春秋時代は、戦争があって国取りが行われるというのではなく、支配者の勢力が失われて、慕われる人が後釜になった。 で、その慕われていることを示す手段として、食客を集めたし、公子を招いた。 グループのリーダーどうしの人気投票で決まるようなものだから、身内を登用しても効果はないですよね。 格の上の人や、数をまねいて、こんなに人気があるんですよ、とパフォーマンスをしたんです。 だから、あくまでもまねいた人は家来ではなく、食客、客将、アドバイザーです。 いくつものの国の大臣や将軍を兼任する、ということも普通に行われていました。
補足
ありがとうございました。 ご教示の前提を理解しないと理解できませんね。 国を治める力の源泉は、武力よりむしろ君主の徳のようなもの、あるいは天命のようなものだった、ということになりますか、ちょっと信じ難いことですが。 「革命」思想にも通ずるのでしょうか。 そのような共同的な観念、幻想は、人間は天に支配されているとでも考えないと生まれないように思うのですが、いかがですか。 また、広い中国にあっては、評判が伝わるにも相当な時間がかかり、やがてはいい加減なものになるはずで、そんなものがあてになると考えたのでしょうか。第一、人を特定することさえ難しいのではありませんか。 散漫な質問ですみません。