- ベストアンサー
与可画竹とは?
- 与可画竹とは、与可という人物が竹を描くことを始めてから注目されるようになったことを指します。
- 与可は最初は自分の才能をあまり重視していなかったが、人々からの要望に応えて竹の絵を描くようになりました。
- しかし与可は人々を嫌い、彼らが持ってきた白織物を地面に投げつけ「これらの織物を靴下にするつもりだ」と嘲ったといわれています。
- みんなの回答 (2)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
先日も同質問ありましたね。長文の翻訳絡みは、手間をかけて回答しても放置する人が多いので、避けているのですが...。回答しても見たのか見ないのか、分かったのか分からなかったのか、訳文で意味が分かったら感想の一言もありそうなものですが。一言伝えられない人の何と多いことか。しかしお困りならばと思いつい...、以下のごとしです。 ついでに、質問の表題は一工夫しましょう、これでは回答付きにくいでしょう。 ===回答本文=== 先ず質問にある文章は蘇軾(蘇東坡)『文与可画筼筜谷偃竹记』の第2段。原文ではなく、原文に対する解釈文ですね。どこから引用されましたか。 念の為中国語資料と対比したら2か所異動があります、 質問:起初自己并不看重 →資料:起初并不看重自己的画 質問:带着白绢来请他作画的→資料:带着丝帛来请他作画的 参考:http://baike.baidu.com/view/1003630.htm 他の数サイトも内容同じ。 意味としては本質的差異なし。 ⇒語順違い、絹は伝統的に丝、などを勘案して中国資料を採ります。 注:ここの白絹は、原文で缣素(書画用絹布)。 後出の白絹は、原文で鹅溪绢(四川産の特定銘柄)。 予備知識: 与可(文与可、苏轼の従弟、文同とも)は蘇軾の従弟で墨竹画の名人。 蘇軾は文与可から画の極意を学び(第一段)、蘇軾自身も画に一家言を持ち名人として知られた。 文与可が洋州太守の任を終え北宋の都汴京に戻った時期、蘇軾は彭城で徐州知事の職にあった。 絹は画材として使ったが高価で礼物・褒賞・賄賂・財産ともなる。 文中にある鹅溪绢:四川省盐亭县鹅溪的绢帛。高級品 唐代为贡品。 文人=文人・官僚→インテリ→暇人 の感覚、揶揄の感もあり。 [以下訳] 与可は竹の画(絵)を画き始めたころ自分の画を大して値打あるものとは思わなかった。あちらこちらの人たちが、礼品に絹地を携え彼に画を描いてくれと頼みに来る、彼の屋敷の門前で脚の踏み場もないほどにひしめいて。与可は彼らを煩がって白絹を庭に投げ捨てて言うには「俺はこの絹で雑巾を作るぞ!」、文人達はこれを話のタネに言いふらした。与可が洋州太守の任から戻った当時、私は徐州太守をしていた。与可が私に手紙をよこして言うには、「私(与可)は最近文人連中に言っているのだが '我々墨竹画の仲間で近頃徐州に居る蘇軾、貴方たちは彼のところへ出かけて画を頼めばよい’ と。さすれば雑巾の材料も貴方の所に集まるでしょう」。その手紙の終わりに詩があり、意味はおよそこんなものであった、「およそ一反の鹅溪绢を使って、寒中の万尺の竹を画くつもり」。私が与可に言ったのは「竹の長さは万尺ならば絹布が二百五十匹要るぞ。貴方の億劫そうな筆の運びが分かるよ。頼むからそんな絹布はやめてくれ」。与可が答えるすべもなく言うのには「私の話は間違いだった、世の中のどこに万尺の長さの竹があるかな?」。.........話はつづきますが、この辺りは冗談話です。 分かりにくかったのは、手紙の中の話者が誰か煩雑な点でしょうか。 話がよく見えない場合は、主題の背景を知ると分かりやすくなるものです。 上記のサイトに原文も解釈文もあるので残りも読んでみませんか。
その他の回答 (1)
- danielwang
- ベストアンサー率28% (2/7)
このままじゃ現代語なもんよ、古語なら、これです—— 与可画竹,初不自贵重,四方之人持缣素而请者,足相蹑于其门。与可厌之,投诸地而骂曰:“吾将以为袜材。”士大夫传之,以为口实。及与可自洋州还,而余为徐州。与可以书遗余曰:“近语士大夫,吾墨竹一派,近在彭城,可往求之。袜材当萃于子矣。”书尾复写一诗,其略云:“拟将一段鹅溪绢,扫取寒梢万尺长。”予谓与可,竹长万尺,当用绢二百五十匹,知公倦于笔砚,愿得此绢而已。与可无以答,则曰:“吾言妄矣,世岂有万尺竹哉!” でもそんな解釈はとっても読みにくいです、私だって「とりづらい」、古語なんて、中国人はあまり使わないので、習えちゃったって、使うところは多くないです
お礼
ありがとうございます!
お礼
わかりやすかったです。 ありがとうございました!