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他人を蹴落としてでも自分だけは幸せになりたいって思ってる人のほうが多い

他人を蹴落としてでも自分だけは幸せになりたいって思ってる人のほうが多いかな? 時代を問わずに。 蹴落とすところを誰かが見てるだろうから確実に他者からの評価は下がると思うが、それでもその方が人生うまく納まるのかなーっともおもってしまう。少し汚れてる方がお得って感じがする。 大人になるにつれてみんな少なからずそう思うのかね。自分はまだ20代だが

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  • dai-ym
  • ベストアンサー率22% (848/3824)
回答No.7

他人と争って、勝利して幸せになること。 他人を蹴落として自分が幸せになること。 この二つは違うと考えた方が良いです。 前者は自分がより良くなることで、他人より勝る何かを得て幸せになります。 後者は自分は変わらずに他人の足を引っ張り他人を貶めることで幸せになることです。 前者は自分の正当な方向の努力が必要不可欠になります。 関わる人もより良い人と関われるのですから、その人にとってもいいことになります。 敗者も自分の力が及ばなかったのですから、次回はよりよくなれば良いだけです。 後者は間違った努力という無駄な時間を費やすことになります。 関わる人もより良い人と関われてより良い状態になるはずが、劣る人と関わることになります。 敗者は納得することが出来ずに、不当にいろいろなものの損失を与えられることになります。 前者は全体にプラスになることですから良いことです。 後者は全体的にマイナスになることで悪いことです。 で、他人を蹴落として自分だけが幸せになりたいという人は多くはないですがいることは確実です。 またそういう人は非常に目立つので、印象に残り易く、そのために多いように錯覚し易いです。 ただ、最終的にこういう人は、どんどん人が離れていき、同じ様に他人を蹴落とす人たちが集まることになります。 ある意味他人を蹴落としても幸せになりたい人たちで、蹴落とし合いのトーナメントをするようなものですね。 だから短期的には大きな利益を得たりして幸せになっているように見えても、長期的に見ると幸せな期間は長くは続かないということが多いです。 だから、長期的に見ると損になりますよ。 まれに騙すことがうまく、自分が他人を蹴落としていることを上手く隠して、蹴落とし続けられる人がいますが、こういう人はある意味天才で、他人を蹴落とさなければもっと成功をしていただろうになって場合が多いですね。

noname#116856
質問者

お礼

回答を見てすごく腑に落ちる意見だなと思いました。 私自身の周りには後者のような考えの人(行動の仕方が利己的で打算的)が多いです。そして前者のような考えの人も少なからずいることに気づきました。後者の人のしてることが印象に残りやすいせいか考えが偏ってしまっていたと思います。視野が狭くなって世の中ってこういう風に(多少汚れた考えの方が生きやすい)出来てんのかなと思ってしまいました。だけど、回答を見て偏った一面しか見ていないことが分かりました。ありがとうございました。

その他の回答 (6)

回答No.6

お得かどうかは、実際その人でないとわからないものです。 あなたは自分の理性に従って、ご自分で正しいと思う選択をとっていくべきだと思います。 人ではなく、あなたが何を思い、何をするか。 行為には善悪どちらにも、種を蒔いたその本人がいずれその刈り取りをする時期が来るものです。 人生はすべて仮説です。 あなたの考えと行動が原因と結果というループを生み出し その積み重ねが経験となって、次の行動の指針と成っていくのです。 人から聞いたこと、人がやっていることはあなたにとってのひとつの参考資料ですが それ自体があなたの行動の指針ではありません。 あなたがいろんなことを見聞きしたことで、ご自分の理性というフィルターを通し正しいというものをチョイスして仮説を立てるのです。 その仮説の下、あなたは実験にあたる行動で実証していくわけです。 すべての考えは仮説です。 そう、私の考えもあなたの考えも。 あなたが何を選択するか。 あなた次第なのです。

  • tomban
  • ベストアンサー率26% (2616/9771)
回答No.5

人間の本質の一端は「競争」にありますから、濃い薄いはあるけど、そういったところは全部の人が持ってると思います。 だから「自分が少し汚くなったな、と感じられたほうが」安心はできるわけです。 だけど…もっと時間が経つと、今度は面白いことに逆転するんですよね。 他人よりも白くあろうとするんです。 私は平和主義者です、善良ですよ、と自分を飾るようになります。 それは「競争力がなくなったから」です。 つまり、おおかたの人間は「真っ黒になるのも嫌」だし「真っ白になるのも嫌い」なんですよ。 わがまま勝手なんですよね(笑)。

  • pie-suke
  • ベストアンサー率39% (112/281)
回答No.4

 あまり思いませんね。  やはり「自分が幸せになる」ためには「周りの人が幸せ」であるということが一つの条件ですし、あなたの言うとおり「周りの自分に対する評価」=「信頼」等も長期的にみた場合の「幸せ」への欠かせない条件だと思うからです。そして、それを犠牲にしてまで得たい「幸せ」像というのがどうもイメージしずらいです。また「罪悪感」を抱えたままでは、どうも自分が幸せを感じられそうにありません。  もちろん、私は聖人君主ではありませんので、「自分が犠牲になって」までも「他人の幸せ」を願うということもありませんが、少なくとも「他人を蹴落として」「幸せ」になろうとも思いません。  まあ私の考えが一般的であるかはどうかはわかりませんが、すくなくとも「みんな」思うと言うことへの反論になるとは思います。

  • sakulabon
  • ベストアンサー率16% (12/74)
回答No.3

少ない定員に入る行為はぜんぶそれに該当するのだから 否定するのはおかしい。 標準的に子供のときからだいたいみんなそうですよ。 なお、20代はすっかり大人です。

  • piscadela
  • ベストアンサー率35% (56/158)
回答No.2

他人を蹴落として上にいく人って、誰かに蹴落とされやしないかってビクビクしてるんじゃないかな?他者からの評価も下がるんでしょ? それって幸せなのかな? 周りに敵をたくさん作って、人生うまく納まるのかな? 金銭的に有利になる事もあるかもしれないけど、やっぱり失うものの方が多い気がするな。

noname#116136
noname#116136
回答No.1

道徳的には美化できませんが、少なくとも資本主義経済はそれを肯定するシステムですね。 そしてそれが受け入れられるもんだから、よけいに傾倒してしまう。またそれを内心否定していた人ほど反動形成しやすいようです。

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