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満開の桜の木の下 「の」が3回続くが、不自然な日本語ではない?
満開の桜の木の下 「の」が3回続くが、不自然な日本語ではない? タイトルの通りなのですが、「満開の桜の木の下」という言葉は「の」が3回続きます。 同じ助詞が何度も続くのはあまり美しい日本語とは言えないと思いますが、 問題無いでしょうか。 他に綺麗な言い方はあるでしょうか。
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「満開の桜の木の下」で問題ないと思います。 そして、不自然と言うこともないと思います。 返って「の」が続くことによって、桜並木が何処までも続いていく様な印象があって、空間的な広がりを持たせるのに良い表現だと思います。 「の」の連続を避けて言い換えるとするならば、 「満開の桜の下」 (No.2さんと同じですが、「満開」って良い響きなので、この言葉は個人的に残したいです。) 「咲き誇る桜の木の下」 「咲き乱れる桜の木の下」 ――なども良いと思います。 ただ、自宅のパソコンで文章を打ち込んでいると、「の」が3回連続すると必ずと言っていいほど、《「の」の連続》と赤字で警告文が出て来る(ATOK 2006を使用している場合)のも確かですから、「の」の連続を避けるというのは、文章を書く上での基本なのでしょう。 http://okwave.jp/qa/q158587.html http://www.daily-essay.com/archives/38 試しに、「私の伯父の孫娘の先生」と打ち込んだら、予想通り《「の」の連続》と警告が出ました。 しかし、ご質問にある、「満開の桜の木の下」と打ち込んだ場合、警告は出ませんでした。 これが、「満開の梅の木の下」でも、「満開のライラックの木の下」でも警告はありませんでした。 更に、「ご質問の“満開の桜の木の下”と良く似たタイトルの小説があったなあ」とネット検索したら、ありました(未読ですが、タイトルだけは聞き覚えがありました)。 それは、坂口安吾さんの『桜の森の満開の下』です。 けれど、こちらを打ち込むと、《「の」の連続》と警告文が出ました。 有名な小説のタイトルでも警告が出るのですね…。 何故、このようなチェックが作動したのかというと、日本語として間違っているとかそういうことではなく、結局、「意味が分かり易い表現なのか」ということに尽きると思いました。 「満開」といえば、通常、花の状態を指す言葉だし、桜が木であるのも常識です。 ですから、「満開の桜の木の下」を、「満開の桜」、「桜の木」、「木の下」と何処で区切っても意味の繋がりには混乱がありませんし、全体に繋げたときも状況がスッと頭の中に入ります。 しかし、「桜の森の満開の下」で考えたときは、どうでしょう? 「桜の森」、「森の満開」、「満開の下」と区切ったならば、サッパリな表現になると思いませんか? 後の二つに注目が行ってしまうと、 「森が満開って何? 満開の下って何の満開なの?」となるとは思いませんか? 出だしの「桜」まで遡って、言葉を巧みに繋げてイメージしないと状況が解りにくい表現です。 ここで、「私の伯父の孫娘の先生」についても同様に、「私の伯父」、「伯父の孫娘」、「孫娘の先生」と区切って、考察してみたいと思います。 「孫娘の先生」という言葉に注目してしまうと、まるで先生が「話者の孫娘の先生」であるようになってしまいますが、本当のところは、先生は話者の「伯父の孫娘を教えている先生」なんです。 ですから、「私の伯父の孫娘の先生」もまた解りにくい表現です。 もちろん、パソコンのソフトは、人間のように柔軟な言語表現力などありませんし、文学的なセンスは無いと思います。 しかし、子供や外国人にでも解りやすい表現かどうかぐらいは、判別できるようになっていると思います。 そこで、「満開の桜の木の下」は、ATOK 2006ではパスして、「桜の森の満開の下」の場合はチェックが入ったのでしょう。 そう考えると、パソコンの変換ソフトと言えど侮れないと思います。 私はパソコンで文章を書いているときに、《「の」の連続》と警告文が出ても、「間違い」とか「誤用」とまでは指摘が及んでいないので、「誤解を生みかねない表現なので、自分で文章を書くときは注意して下さい」程度の意味で捉えて、他に表現が可能な場合は書き換えるようにしています。 ※私自身は『桜の森の満開の下』という表現は文学的で、何処までも広がる満開の桜の情景が浮かび、視覚にも充分訴える芸術的な表現だと思っています。 坂口安吾さんの作品と、小説のタイトルの表現を批判しているのではないと言うことを、ここでお断りしておきたいと思います。 また、パソコンのソフトを引き合いに出すなど、蛇足気味な箇所も御座いましたことをお詫びいたします。
お礼
ありがとうございました。