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ジョバンニ・アルノルフィニ夫妻の肖像について些細な疑問です
ジョバンニ・アルノルフィニ夫妻の肖像について些細な疑問です この作品についてですが、 今まで長い間ジョバンニ・ディ・アリーゴ・アルノルフィニ夫妻とされていましたが 近年ではその見解も覆されジョバンニ・ディ・アリーゴ・アルノルフィニの いとこのジョバンニ・ディ・ニコラ・アルノルフィニ夫妻であるとの見解が発表されました ではなぜ今までジョバンニ・ディ・アリーゴ・アルノルフィニ夫妻とされていたのでしょうか? 出来るだけくわしく、わかりやすく回答お願いします
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こんにちは。 拙い文章と意訳で恐縮ですが、回答させていただきますね。 Giovanni di Nicolao Arnolfini (ジョヴァンニ・ディ・ニコラオ・アルノルフィーニ)は、イタリアのトスカーナ地方の都市ルッカ出身の商人で、早くにフランドル地方のブリュージュに移り住み、その地で残りの生涯を過ごしました。 彼は絹織物等やタペストリー、貴重な品々の商取引を通じて裕福になったものの、後年暗転し商いから退いたようです。 実は彼の場合、おそらく両親が住んでいたルッカで生まれたと察せられ、1419年の父親の手による手紙が最初の記録として認められはするものの、彼自身の生年月日に関する手掛かりが無いのです。 アルノルフィーニ家はルッカにおいてとても実力があり、ニコラオよりも幾らか年少のいとこであるGiovanni di Arrigo Arnolfini(ジョヴァンニ・ディ・アリーゴ・アルノルフィーニ)もまた、ブルージュにやって来て住むようになリ、そしてニコラオよりもさらに成功しました。 これらの事柄により、近年見解が覆されるまでの間、このアリーゴが肖像画の男性であるとみなされてきたのです。 さて、アリーゴはジョヴァンナ・チェナーミと結婚し、肖像画中で示唆される人物と長らく考えられてきたものの、1447年に結婚用に寄贈を受けた記録が近年フランス北部の都市リールで発見され、これにより矛盾が生じることとなりました。 つまり、当初絵画の人物と目されていたアリーゴ・アルノルフィーニ夫妻が結婚したのは1447年、そしてそれは絵画中の年記1434年よりも13年もの後のことであり、さらにはヤン・ファン・エイクが死去した1441年よりも6年後にあたるのです。 (以下のサイトに詳細が載っておりますので、よろしければご参考になさって下さい) http://www.open2.net/historyandthearts/arts/marriage_script4.html サイトによれば、当時かの地で該当したアルノルフィーニの5人のうち、ジョヴァンニの名を持つ者はアリーゴともう1人しかおらず、それがご指摘のニコラオ・アルノルフィーニその人なのです。 ニコラオはイタリア人商人マルコ・グイディッチオーニと組み、1422年のイングランド王ヘンリー五世に対する取引を試みるなどの精力的な活動を行っていた模様で、1426年には同郷の出身女性であるコスタンツァ・トレンタと結婚します。 その彼女は母親の手紙により1433年に亡くなったと言及されており、はたして肖像画の女性がコスタンツァその人なのかどうかも現時点では定かではなく、彼女ではないという有力な説のほか、最近の研究では、彼女の死後に死を悼んで製作されたとする説もあるようです。 なお、回答する上でほかに参考にしたwikipedia並びにロンドンのナショナル・ギャラリーのサイトも挙げておきますね。 http://en.wikipedia.org/wiki/Giovanni_Arnolfini http://www.nationalgallery.org.uk/paintings/jan-van-eyck-the-arnolfini-portrait ナショナル・ギャラリーのサイトにおいて絵画中の鏡の上部をご覧いただきますと、流麗な字体にて"Johannes de eyck fuit hic"、つまり、"Jan van Eyck was here 1434”=「ヤン・ファン・エイクここにありき1434」と記されているのがおわかりいただけます。 お時間のある時にでもご確認いただけましたら幸いです。
お礼
遅くなり申し訳ございません わかりやすく詳しい回答ありがとうございました やはりどの時代でもより成功した方が記録に残りやすいんですね>< またご縁がありましたらよろしくお願いします