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暴力団員は二級市民?
- 最近、相撲のいちばん前の席を暴力団関係者がとって座っていたので問題になっています。法的な処罰が終えられた後の人が、社会的制裁を受けて二級市民扱いされることは、社会として正当化されるのでしょうか?諸外国でも同様の例があるのでしょうか?
- 暴力団は違法行為を行っているため、法的な処罰は当然です。しかし、その処罰を受けた後の人々が公職や交友関係に制限を受けることはなぜなのでしょうか?そのような制約は、一般人の持つ権利を剥奪する行為ではないでしょうか?このような二級市民扱いは、日本社会の特異性なのでしょうか?
- 暴力団関係者が法的な問題を抱えていないのにも関わらず、特定の観戦や交友を制限されることは適切なのでしょうか?他の先進国でも同様の存在があるのでしょうか?暴力団関係者に対しては、社会的制裁ではなく、法的な処罰を行うべきではないでしょうか?
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議論が公的制度におけるものと、社会生活上の事実における見地のものと混同している気がします。 1.まず法律論・公的制度として。 ご存知の通り、と言うか常識ですが日本は法治国家です(法律学では「法の支配」と「法治主義」は別物ですがここでは便宜上「法治国家」と言っておきます)。 この法治国家の日本においてはたとえそれが暴力団員であろうと、前科者であろうと法の適正手続きに基づかない不当な差別は憲法で禁止されています。 ですからあなたの質問文で書かれている所論のとおり、暴力団員であっても相撲見学ができないなんて差別をするとか、国民を一級二級と分別するなんてことは、法律的・公的制度的には決して許されることではありません。 つまり暴力団員であるからと言って相撲観戦を制限したり、二級市民と規定したりすることは重大な憲法違反となります。 しかしこの憲法というものは、あくまでも直接的には国家や地方公共団体などの公権力を対象として規定している(「法の名宛人」)のがそもそもの本義でありまして、一私人間の法律関係においては諸々の法律解釈において憲法の定める各種の原理や趣旨を適用するだけに留まるのが基本です。 したがってたとえある一私人が「私は暴力団員を軽蔑する。あんな輩とは口を利くのもいやだ」と言おうが、ゴミくずゴキブリ扱いしようがそれは法律に違反しない限りにおいて自由であり、なんら憲法や法治主義と相反するものではありません。 2.社会的生活上の見地から 実際上の社会生活においては、暴力団というものには「必要悪」という見方もあれば、「絶対悪として根絶すべき」という見方もあり、それは人それぞれでしょう。 当然中にはNo7の方のように圧倒的差別をするべきで三級四級でも当然だと考える方も居て、それはそれでどのように考えてもそれは個人の自由であるべきでしょう。 さてひるがえって現状の日本社会での見かたといえば、私は次のような考えが一般的で最大公約数的な見方だと推察します。 「暴力団員は全員死刑で良いとまで言ったら、それは極論かもしれないけど、やっぱりああいう連中は恐いし迷惑だし、できれば暴力団なんて無くなって欲しいよな。それに暴力団の上層部が非合法的行為で巨額の利益をあげて、庶民では入手できないような相撲の観覧席の券を買ってそれで堂々とたまり席とやらでふんぞり返ってるなんて、やっぱり納得いかないよ」 このくらいが一般的な考えだと思うのですが、質問者さんはいかがでしょう? 3.今回の問題について ところで今回の事件については、質問者さんと他の回答者さんたちとのやりとりの中で、なんだか見過ごされているポイントがある気がします。 それは今回の事件が問題になったのは、暴力団員があのような高価なチケットを購入して特等席で良い思いをしたからでも、二級市民が生意気にも贅沢したからでもありません。 単に相撲協会がかねてから、協会関係者の暴力団員との関係や癒着を排除しようという協会の基本方針があるにも関わらず、二人の親方の斡旋的行為によって一般には入手できない特別な観覧券を暴力団に流出させたという点が問題になっているのです。 ご存知のとおり相撲に限らずボクシングやプロレス、そして芸能などは古来「興行」という分野において暴力団との関係が切っても切れないものでした。 しかし日本相撲協会は、ひとつには国技という性格から求められる社会的立場として、もうひとつには文部科学省所管の公益的性格の強い社団法人という立場として、かねてから地方巡業などの興行や部屋の運営などでも可及的に暴力団との関係を断ち切っていこうという基本方針を打ち立てていたんです。 それにも関わらず、今回本人たちは暴力団に流れていたとは知らなかったと弁明しているとは言え、長期間に渡って茶屋を通して販売される特別な券が暴力団に流れるという事態にしてしまったこと(もちろん裏では暴力団と関係があったのではないかという疑いも含めて)が問題とされているのです。 つまり暴力団が相撲観戦したのが問題になっているのではなくて、二人の親方が暴力団と関係を持っていたこと自体が問題とされているんです。 ですから他の回答者の方々が語っておられるような、暴力団がどういう存在であるかとか、相撲と暴力団の関係がどうかとか、暴力団員が相撲観戦を制限されるのは人権上どうかというようなことは直接には今回の問題とは関係無いと思います。
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- tact8118
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No.7です 補足説明を求められた?ので、 再度回答致します。 私は日本で五本の指に数えられる暴力団が 本部を構える町で生まれ今日まで暮らしています、 あなたはおそらく、違う状況でお暮らしでは? それは、さて置き・・・・ 先の回答でも述べたとおり 一般市民と組構成員を同列で述べることが そもそもの間違いです、 、「あの人は暴力団関係者だ。悪い人だ」と断言できるなら、社会的制裁じゃなくて、法的な処分をほどこしたらいいのに、と思います。 日本は法治国家なのは解りますよね 小沢幹事長は検察審議会がなにを言おうと 裁判で有罪になるまでは推定無罪です、 ですから、付き合いの有る芸能人を紅白から 締め出したら人権問題になりますよね、 ならば、組構成員も推定無罪では? そのとおり推定無罪です、 「我々と同じ空間に住み、同じコンビニやスーパーで買い物したり同じ店でごはんも食べれる人が」 そもそも、それ自体が迷惑なのです。 暴力の行使を掲げて組を結成している組など 有りません、あれば破防法を適用できます、 麻薬、売春、みかじめ料、縁日のショバ代、 若い頃(若気のいたりで)、ある組の酉の市の出店を手伝った事があります、 一晩だけでもかなり売り上げます、でも勿論税金は払いません、 ツケウマ(暴力バーで代金が足りない客の自宅まで同行してむしりとって来る) もやりました。 40年以上昔のことです。 彼らと交わって感じた事 1.法を守る気などさらさらない 1.堅気が自分たちを恐れることに快感を覚える 1.自分たちの悪さを自慢する(内々で) 1.麻薬の恐ろしさを知っているので 自分たちは使わない 利口じゃなれず、馬鹿じゃなれず、中途半端じゃなおなれず、 彼らの言葉です、 でも、私に言わせれば 利口ならならない、馬鹿ならなれる、中途半端はなおよろし、 若い衆がある人に注意された時のボスの言葉です、 「腹を痛めて生んでくれた親に逆らって不良やってんだ! アカの他人のてめえなんぞに、説教されてハイそうですかって やめられるか」 馬鹿に付ける薬なし、ヤクザを諭す言葉なし。 全体の質問文から、あなたが問題としたいことは なんとなく解りますが、暴力団と成ると どうにも、理解しかねます 先にも、述べたとおり一般人と暴力団構成員を 同列で論じてはなりません。
- tact8118
- ベストアンサー率27% (9/33)
二級どころか三級、四級でかまいません、 そもそも、一般市民と暴力団員を同じ土俵で語ろうとすること からして間違いです、 暴力団とは、暴力又は威嚇又は相手の恐怖心ももって 事を図ろうとする組織です、 組織を維持する為の資金は非合法な方法で(一部、合法的な会社組織も有り?) 調達されたものです、 暴力団の構成員である事そのものが不道徳です。 罪を犯して、更正をこころみている元構成員は 差別すべきでは有りませんが、大半は出所後は 組織に戻ります。
補足
ご回答ありがとうございます。 >暴力団とは、暴力又は威嚇又は相手の恐怖心ももって >事を図ろうとする組織です、 >組織を維持する為の資金は非合法な方法で(一部、合法的な会社組織も有り?) >調達されたものです、 もしそうなら、彼らは犯罪を犯しているので、暴力や恐喝や、「非合法な方法で」資金を調達した罪を問われるべきです。法に則り罰せられる存在です。しかし、それがなされずに、一般社会に普通に生息が許されながら、権利だけが社会的に制限される、という事態が、何を根拠になされているのでしょうか? たとえば、「組織を維持する為の資金は非合法な方法」で調達されたことはほぼ確実だけど、法の目をかいくぐっているので立件には至らないから罪に問えない、という事態だったとします。同じことは、民主党の小沢一郎幹事長や鳩山総理にも言えます。小沢幹事長の場合は、検察審議会で起訴相当という、至極もっともな判断が出たけれど、検察は再度、嫌疑不十分で小沢一郎を不起訴処分にしました。小沢は、違法な手段で政治資金を調達したことは、ほぼ確実です。ほとんどの人がそう思っている。僕もそうに違いないと思っています。但し、そのことで小沢が、相撲の観戦を拒否されたり、小沢と交流のある芸能人が紅白に出られないということは、当面起こりそうにありません。 つまり、犯罪を犯してることはほぼ確実だとほとんどの人が知っているが、証拠をうまく隠しているため法に問えない人の中にも、一般の権利を制限される人と、全然制限されていない人の違いがあります。この違いはどこから来るのでしょう?
- gootone
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何々組って形で集まっているのがそもそも問題です。 差別して下さいって言ってるもの同じです。 過去に犯罪を犯した人が、そのまま同窓会みたいに 集まっている例なんてほかにないでしょう。 「元婦女暴行犯の会」とか。 >法的な処罰を受け終わったら、少なくとも形式上は、完全な市民権を持つのではないでしょうか? 服役した後、まじめにラーメン屋さんとかやっているのに 暴力団と差別されたら問題だと思います。でもまた暴力団事務所に 戻ったら、また暴力で仕事しますって宣言してるようなものでしょう。 差別されて当然です。 元暴力団の弁護士さんだったいるわけで、元暴力団というだけで 必ず差別扱いされるわけじゃいでしょう。 >そういうのって、諸外国でも例があることでしょうか? 自分たちは暴力団ですって、おおっぴらに事務所まで 構えている組織なんて他にありません。 外国にもマフィアはありますが、組織に属していることは かくしているし、ここが事務所ですなんて分かる ところはありません。差別しようがないんです。 >つまり、「あの人は暴力団関係者だ。悪い人だ」と断言できるなら、社会的制裁じゃなくて、法的な処分をほどこしたらいいのに、 暴力団は服役した年数で位が決まるんです。法的処分を受ければうけるほど 組内では出世するし、収入もアップして行くんで、どうしようもないんです。
補足
ご回答ありがとうございます。 >でもまた暴力団事務所に >戻ったら、また暴力で仕事しますって宣言してるようなものでしょう。 >差別されて当然です。 暴力は犯罪です。「また暴力で仕事しますって宣言してるようなもの」だとしたら、そういう組織を作ることそのものを非合法化すればいいのではないでしょうか? 実際、そういう人たちが世間から白い目で見られることは当然起こります。誰もが、ある対象を好きになる自由も、忌み嫌う自由もあるわけですから、ほとんどの人たちが彼らを嫌います。 そこまではいいのですが、但し、(過去はともかく現在は)犯罪に問われているわけでもない人が、過去の犯罪歴を理由に、一般市民に認められている権利が制限されているという事態が、何を根拠に行われているのか?というのが僕の疑問です。
- sknysmr
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No.4追記 現在の暴力団と云われる組織は敗戦後の略奪・暴行・騒乱をしていたアジア人が組織し地元密着型の ヤクザ(地周り)を吸収しとのです。 敗戦後の実体験談です。
- sknysmr
- ベストアンサー率17% (18/104)
「暴力団」嫌な言葉ですね!!何時頃からこの言葉が出来たのでしょうか??。 「ヤクザ」が暴力を業とする団体に浸食されたのでしょう。これも「マスコミ・不法な事を真面目腐って平気で行う企業」が暴力という国民に嫌われる単語で烙印を押したのです。 「ヤクザ」=正義の味方・義侠心旺盛と一時期は警察機構の代行をしてきた時代もありました。 敗戦の混乱で警察力が衰退したと同時に朝鮮半島人の略奪・横暴・暴力が盛んに行われた時期当時の ヤクザ(俗に云う地周り)が闇市等商店を警備していましたヨ(敗戦時の混乱は酷いものでした) 業に一部に興業も有りました。相撲の興業も引き受けていました。 ヤクザ=江戸時代以前」にも存在していました。戦後(昭和30年頃)ヤクザは地域密着型組織でした。 地域の治安の一部を担っていたのです。有名な清水次郎長・大前だ英五郎他々。彼等は地元に大いに貢献していました。良い例が「美空ひばりの興業でしょう。(●×組) 世の中が平和に成り安定してそれが組織化され弱小組織が強大組織に吸収されてヤクザと云う単語が消失した。その強大に成った組織が暴力的になったのです。 あ~~
補足
ご回答ありがとうございます。 たしかにそのような歴史はあるのでしょう。彼らをヤクザ、任侠、暴力団、何と呼ぼうと、多くの人からは嫌疑の目で見られ、一部の人からは、ある魅力を持った存在と見られる。(任侠映画、みたいなものは一定の人気があります。) 但しここでは、好きだから犯罪集団でも正当化されるとか、犯罪歴があって気味悪いから差別していいというようなセンチメンタルな問題とは別の、社会秩序のあり方を僕は問題にしています。たとえば、コンビニや映画館に、単に態度が気に入らない人がいたからって、販売や入場を断るなんてことはあってはいけないでしょう。何か理由があればいいと思います。刺青があるからサウナへの入店を断るとか、明らかに大声を出して映画の上映を妨げると思われる充分な理由がある場合とか。でも、過去に犯罪歴があるから、という単にそういう理由で、一般人には認められている権利を認めないのは、社会として何がそれを正当化しているのだろう?というのが僕の疑問です。 こういう二級市民扱いは、社会として充分正当なことと考えられているのか、それとも必要悪として仕方なくそうしている、ということなのか?
- kawasemi60
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まぁ~戸籍に前科の記入は無くなったと記憶 していますから法的には二級市民は存在しません。 しかし警察で働くには前科の在る親戚がいると? 必要性による現実的区別は存在しているという感じ。 日本では市民権というよりは大衆権と呼ぶのが適切。 大多数と同じ態度を取る権利という意味です。 従って物事の理論的、現実的な是非よりは参加者数 が多い方を善であり適法と信じるのでしょうね。 暴力団を避ける人が多い→避けるのが善であり正しい→ 正しいから適法である→だから自分も避ける側に立つ。 日本的社会では正当化されています。 そこに法理論や思想や道徳は在りません。戦後の特徴です。 そのうち、あなたは児童ポルノを見ていたことが在るので 小学校には入らないでくださいと言われるかも知れません。 相撲以外に公衆浴場での刺青者お断りの例があります。 法的に違法なので禁止ではなくてお願いと書いてあります。 無視して入浴しても法の違反者には成りません。 日本が欧米と同じ法治国家との前提を置くのは間違いです。 また人権などと言うものにも大きな価値は在りません。 ヨーロッパにおける人権の成立過程を見てからそう思う。 先進国での区別は当たり前すぎて誰も問題にしないのでしょう アメリカでは犯罪歴を地域社会に公表して再販防止につとめる 事が在ると伝えられています。たとえば性犯罪者の犯罪内容や 本人の特徴です。強姦で刑期を終えても周り中が犯罪歴を知る 状況で暮らすのです。当然周囲は警戒感丸出しで対応します。 まぁ~二級どころか低級市民扱いなのでしょうね。 日本でも導入してみればと思います。人殺しや強姦魔は意外に 近くに住んでいるものなのですよね。
補足
ご回答ありがとうございます >そのうち、あなたは児童ポルノを見ていたことが在るので >小学校には入らないでくださいと言われるかも知れません。 ↑ 仮にこのような事態になったら、これは正当化できる事態でしょうか?好ましくない事態でしょうか? >アメリカでは犯罪歴を地域社会に公表して再販防止につとめる >強姦で刑期を終えても周り中が犯罪歴を知る >状況で暮らすのです。当然周囲は警戒感丸出しで対応します。 >まぁ~二級どころか低級市民扱いなのでしょうね。 ↑ このことは、日本で暴力団員であることが知られるのと同じことだと思います。「当然周囲は警戒感丸出しで対応」ということになります。但し、アメリカで、「あなたは過去に強姦罪歴があるから」という理由で、コンサート会場に入るのを拒まれたり、芸能人がその人と付き合ったらその芸能人が非難される、ということは、おそらくないのではないでしょうか?それを好ましくない人はいるでしょうが、「あなたは強姦罪歴のある人と交友があるから、グラミー賞の候補からはずしました」みたいなことは、たぶんないのでは?
- kawasemi60
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犯罪歴つまり前科が在る事を理由に差別する 事は法律で禁止されている、と記憶しています。 差別とは公共性の在る物事についての区別ですね。 これを理由に生活保護を受ける前科者もいます。 相撲協会についてですが税金の援助が在る点に おいて公共性を持つとも言えるのです。 相撲観戦は犯罪では在りませんからこれを理由 として誰かに不利益を科すのは不当差別と言える。 しかし相撲観戦により評判が落ちて入場者の人数 が減少すれば相撲界全体の不利益と成ります。 相撲界全体に不利益を与える行為だとの合意により 処分をする事は適法となります。 裁判になれば不当差別か民事契約自由かの争いと 成るでしょう。 ◎二級市民かどうかについてですが社会は区別に 満ちています。学歴の諸段階、財産の有無、教養の 有無、出身地、血統などなど区別は氾濫しています。 諸外国では日本以上に厳しい区別が在ります。宗教 や風俗が違うだけで大規模な殺し合いをするほどです。 通貨システムの同一性で日本人が人間扱いされている と思うなら大間違いでしょうね。世界正義や平等は無い。 普通人は当然ですが自分を襲う可能性が高い犯罪者 と距離を置きます。それは強姦の前科がある者に近 づきたく無いという娘の心情に似ています。
補足
ご回答ありがとうございます。 >学歴の諸段階、財産の有無、教養の >有無、出身地、血統などなど区別は氾濫しています。 ということですが、しかし、学歴、財産、出身地などが理由で、相撲の観戦や交友を禁止されたり、公職につけなかったりする例は、日本ではないと思います。諸外国でそういう例がもしあれば、おそらく人権問題として国際的に非難されるのではないでしょうか? >宗教や風俗が違うだけで大規模な殺し合いをする ということで、確かにそうですが、それを平時の社会で正当化されているとは思いません。まともな法治国家なら、そういうことが起きた時には、必ず法の裁きを受けるはずです。どんな理由であれ、A教徒がB教徒を一方的に殺すことが、法的にも社会的にも裁かれないような、まともな社会があるでしょうか? 日本では、(暴力団という)市民が、他の一般市民なら問題なくできることを許されていないし、それは法的、社会的にも是認されているとしたら、そこが、宗教、学歴、出身地などによる差別とは質が違うと思います。 蛇足ですが、僕は暴力団を正当化する意図はまったくありません。二級市民の存在が許されるのかどうか、というところに関心があってこの質問をしています。
暴力団構成員でも法を犯していなければ基本的人権は制限されることなく自由に観劇観戦、交友の制限などはありません。 暴力団関係者入店お断り等の制限ですが、店にも客を選択する自由がある、というだけです。 何故制限されるのか?それは暴力団が現在進行形で犯罪を犯している集団であり、又暴力団は暴力を持って他者を畏怖させ利益を得ることが生業であり、他者から特別な対応を取られても当たり前であり、善良な市民からすれば、それは自衛でもある訳です。 生き方は他者から評価されます、逆にスポーツなどで偉業を成し遂げた者などは、それを称えられ特別あつかいもされます。 社会の実態を良く知らないと解らないことですが暴力団と付き合うという事は、その力を利用するという事でもあるのです。 そして暴力団の存在、その力を容認していると社会的にはみなされるのです。 芸能人、島田なにがし、のオレのケツ持ちは~組みだ!との言動は週間誌にのり本人は否定せず事実なのでしょう。 (ケツ持ちとは、~組みが島田氏のバックに立つ、トラブルがあったら~組みが顔を出す、ということです。) 今回の相撲観戦の問題は、相手が暴力団だと知っていながらチケットを継続して融通していたということでしょう、そんなことは社会経験をつめば解ることです。 通常入手できないものを暴力団であるという力で手に入れた訳です。 現在問題となっている琴光喜の賭博問題に見られる相撲界と裏社会との付き合いも今に始まったことではありません。 社会の実態をよく学ばれるべきと考えます。
補足
ご回答ありがとうございます。 ただし、「社会の実態」という言葉は、あやふやな説明だと感じます。 その「社会の実態」というのは、日本以外の社会にも言えることでしょうか? この質問で僕が最も関心があるのが、二級市民の存在は、先進国社会で正当化されるのかどうか、というところであります。
補足
ご回答ありがとうございます。 1と3についてはほぼ納得しました。例のチケットが「一般には入手できない」というところは僕は知らなかったので、それならまあ納得できます。それを知らなかったから、「暴力団がここに座ってけしからん」みたいな印象を、報道から受けたのでした。 2についてですが、今回の相撲観戦の件はいいとして、別の例で、やはりひっかかるところがあります。北島三郎がかつて暴力団の交流があったことで紅白歌合戦に出られなかったことがあります。自粛だったのかNHKが断ったのか、覚えてませんが。それから、高知県の橋本知事が、ある公職に推薦された人が暴力団関係者だったことから、就任に難色を示されて、けっきょく就任を阻んだと記憶しています。 あとは、これは暴力団だけでなく、オウム真理教関係の団体が、あるところに賃貸しようとすると断られたりします。賃貸し終わった後に、暴力団関係者だと分かったら、賃貸契約を解約されたりします。最近では、暴力団関係者だと分かると銀行で口座も開けないとか。 僕は、これらはセンチメントとしてはすごく分かるんです。でも、たとえばオウム信者が集団で住民票を移そうとしたら、選挙などで影響が出たらたまらない、と超法規的に住民票の受付を拒否したことがあったと記憶します。 僕の考えでは、そんなことをしなければいけない集団や組織だったら、いっそのこと彼らの存在自体を非合法にすればいいと思うのです。しかし実際は非合法とまではしていない。まあ、法的に言ったら、白でなくても、灰色の存在ですが、その法的な灰色を、社会が、超法規的に、黒にしてしまっている、みたいな感じがあります。その、法的な歯止めのない社会を、僕は不気味に感じることがあるのです。 戦前のことですが、被差別部落に対する差別意識がひどかったそうです。結婚した相手がそういう地域出身者だと分かったら、一方的に離縁されたりして、それで裁判に訴えても、「現状ではやむをえない」みたいな判決が出たそうです。これは、社会生活上の事実が、法律をのりこえて優位に立っていて、裁判所でさえそれを認めざるをえない状況があった。今これをみると、なんだかべらぼうな感じがするのですが、今の日本も、暴力団や、オウム真理教などへの対応について、戦前とかわってないのかな?という気がするのです。現状は現状で仕方ないとしても、こういうのを改めてゆく努力ぐらいしたらどうかな?という気がするのです。 だから回答者様が >議論が公的制度におけるものと、社会生活上の事実における見地のものと混同している気がします。 というのも、もっともなことなのです。両者が接している、あるいは交わっているところを僕は問題にしています。 法律を超えた社会主観をコントロールする仕組みが、日本にはゴッソリ欠けている気がするのです。そういうのが一旦暴走しはじめると、誰にも止めることができなくなる。暴力団と二級市民の話からちょっと離れすぎたようですが、僕の懸念の根本には、こういうことがあります。