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求愛の対義語とは?
求愛の対義語とは? 求愛、愛を求めるに対する対義語として、愛を与えるといった意味合いのある漢字はありますでしょうか?
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ANo.2です、aseton19772626さん。 与えるが故に得る、求める事で与えている。 こういう愛、というか、生き方、人としてのあり方を、ロマン・ロランのジャンクリストフと魅せられたる魂で読みました。そういう言葉を。 人と為りですよね。そういう事って、ヴァラエティがありますが、ある程度人間に共通ですよね。 宗教にアレルギーの方もおられますが、強いが故に信仰する人はやはり信仰で無償の捧げをしますからね。 やはり、結果は自分を取り戻しているのではないでしょうか? だとすれば信仰なんですが、仰愛とか呼愛とかはあまり一般的ではないですね。 景仰というのはありますが。愛という字・辞は入っていませんが。
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- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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aseton19772626様 締め切られた後、気づいた事があります。私たちは通りすがりの方や、そういう無関係の方と思っている人に求愛したり、愛を感じたりする事はないといえると存じます。 私たちは親しいものには、愛を感じます。それは同時に求愛であることも多いのではないでしょうか? 愛するだけということは現実にも理論的にも存立しないのではないでしょうか? 求愛する相手には愛を感じています。愛を感じている相手には求愛しています。 求愛の対義語は同時に求愛という事ではないでしょうか? 神に祈ります、愛さない神に祈る事はないと思います。 その祈るときには愛を感じ、愛を求めていると存じます。 私のインド哲学での生活経験なのですが。
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参考にさせていただきます、 ありがとうございました。
No.1です。ご指名ですので。 クイズの問題作りなら別ですが,言葉は文脈の中で初めて意味を持ちます。仮に対義語を探す必要が生じたとしても,場面によって,候補は変わるでしょうし,また,対義語が存在しない場合もあるでしょう。 ですので,対義語を網羅的に羅列したり,すぐには思いつかないものを探したりするのは,現実には必要とされないと思います。ただし,日本語の知識を深めたいと言うことであれば,それは結構なことです。
お礼
参考にさせていただきます、 ありがとうございました。
- cxe28284
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あなた自身が特定に人に愛を求める。>求愛 あなた自身が自分以外の人を分け隔てなく愛する。>博愛
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- 畑山 隆志(@deltalon)
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唯脳論の養老孟司氏も言っておられますが、日本語は主語があいまいです。例によれば、「お手前」と自分でも相手でも使えます。これと同じで、「求愛」も「私は、が、に」求愛する。という風に、どの立場からでも使えるわけです。ですから対義語は必要ないと考えればいいんじゃないでしょうか。
お礼
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- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
- ベストアンサー率20% (605/2887)
どういう意味の対義か、使用の仕方かが問題ですよね。 施愛とか慈愛とか慈恵とか。 あるいや撥愛、拒愛、憎悪とか。奉愛というのもありましょうね。
お礼
参考にさせていただきます、 ありがとうございました。
補足
よく恋愛で聞くのは恋人から愛が貰えないといった、愛を求める求愛。 ただし、動物のように羽を広げたり、踊ったりといった活動を するわけでもなく、ただふんぞり返って求めるばかりの求愛が人である ように感じています。 それに対して、私の愛の考えとしてあるのは利他の愛です。 見返りを求めずに与え続けることで、結果的に相手も与え返すことをし、 結果的に愛の大循環が起こる。 そういった意味での愛を漢字に置き換えると、何かあるのでしょうか。 無論、この愛の形は度の大小あれど、恋人以外にも向きます。
「恵愛」でしょう。 ただし,「求愛」という言葉は,動物の繁殖行動に使われることが多いので,この場合はナンセンスですね。 これに限らず,「対義語探し」は「国語」にとってあまり意味のないことだと思います。
お礼
参考にさせていただきます、 ありがとうございました。
補足
確かに、本来の意味では動物的であり、生殖行為を求めるための活動が求愛ですが、 現代ではさも意味がわかってなくて使っている人が多いのは事実だと思います。 対義語探しがあまり意味がないとは何故ですか? お答えいただければ幸いです。
お礼
そうですね、最後には全て自分に返ってきます。良いことも悪いことも。 自分の中では宗教という概念はありません。無神教というか、 私の思っている中ではブッダもアラーもキリストも1つの概念であり、 ただ呼び方・見方が異なるというだけだとし、それと同じくして 自分もいいとこどりし、いいように解釈しているといったところでしょうか。 何かを信じるというものではないです。 ロマンロランの著書、図書館で探してみたいと思います。