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浄土真宗大谷派のお墓の文字についてお尋ねします。
浄土真宗大谷派のお墓の文字についてお尋ねします。 このたび東京近郊の公園墓地にお墓を作ることになりました。 真宗の場合は、南無阿弥陀仏を入れると聞きましたが、 公園墓地内ではそういったお墓はほとんど見かけません。 特に菩提寺を持っている訳ではないので、 こだわらずに一般的な「○○家の墓」にしたのですが、 構わないものでしょうか?
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ある一つの霊園において、周囲にそういう墓石が見あたらないから、他に合わせて… ということが、どれだけ大事なのか、それも一種のこだわりかとも思いますが、そういうことににどれだけ拘られるか…かな、と思いました。 ご本人さまがどう感じられるか…ということかと思います。 その墓地に行って見たわけではないので分かりませんが、一つの霊園の中でも、墓石も色々なのではないでしょうか? そんな中、墓柱の正面は「南無阿弥陀仏」、台石の正面とか柱に「○○家」とか家紋とか、軸石の側面に法名を刻むなど、逆に、真宗式でも、全然、かまわないように思います。 (特に真宗のデザインがイヤだということがご本人さまになければ…。真宗は門信徒数が多分日本最大で、まあ、多数の人がそれが良いなぁと思って建てていると考えれば、別に、その霊園で周囲のデザインにデザインを合わせなくても良いかなぁと思います。土地付き一戸建て注文住宅であれば、ある分譲地で、あんまり周囲の街並みと異なるのは止めてねということはあるのかも知れませんが、お墓というもの、そんなに奇抜なデザインというのはあんまりないように思うのですね。また、真宗は、日本全国単位で見たらメジャーでしょう。もちろん地域性があって、北海道とか、鹿児島とか、山口ではメジャーだけれども、関東ではマイナーとかはあるかとは思いますが。でも真宗の墓石、特に奇抜なデザインとは私には思えません。他の墓地などでながめてみると、なんというか、御同朋、御同行、仲間、グループに属するのも良いかも…と思われるかも知れません。) 真宗の場合、特に、家のお墓、個人墓は、原理的には多分、必ずしも絶対に必要なものでもないので、原理主義的には、まあ、大谷祖廟(親鸞聖人(+)門徒全員の共同のお墓)に納骨すれば、家のお墓はいらないじゃんとか、後は、真宗本廟(京都の東本願寺のこと)に須彌壇収骨とは今は言わないのか、今は真宗本廟収骨という名称に名称が変更されたかと思いますが、要は京都の東本願寺に納骨するか、とかで済んじゃうというのが、昔に遡れば伝統的かも知れませんから(というか庶民が、家のお墓を建てるという歴史はご宗旨に関わりなく、多分、そんなに歴史は長くないかとも思いますが)、そう思えば、いずれにしても、どちらにせよ、墓石のデザインにあまり拘ることはないとは言えるかとも思います。 一つの霊園でたまたま周囲とちょっと違うということはあっても、そんなに奇抜なデザインでもないように思いますし、全国的には、メジャーというか、仲間がいるわけで、せっかく、真宗というご縁があるなら、真宗デザインでも良いように思いますが、ご本人次第かと思います。 結論として、つまり、仲間と合わせる、という場合、その霊園一カ所で、たまたま、今現在の周囲のデザインと合わせるという考え方もあり得るのでしょうが、別の視点で「仲間と合わせる」という視点もアリなのではないかと思うものです。
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- otherwind
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> 皆さんのご経験談やアドバイスを伺いたく質問をしたわけです。 すみません。分かり難かったです。 あくまでも私、一個人の感覚になりますが、もしも、今、新たにお墓を建てるとしたら、私は真宗デザイン(?)を選ぶと思います。そういうものは単なる習慣なので、こうでないと仏罰が下るとか祟りがあるとかそういうものではないと思っています。 そうではなくて、ある仲間に属しているというのはなんというか良いことかな、安心かな、仲間がいるのは良いな…ということが一つ。 =================== みんなまた同じ場所で会いましょう…という。 =================== 具体的には太谷派となりますね。 それと、お墓とは直接は関係ないのですが、もう二十年以上も前の話になりますが、祖父が突然に亡くなって、多分、祖母が病院に待機していた葬儀屋さんのパッケージ、コースみたいなもので依頼してしまったのだと思いますが… ====================== 「普通」というのは、 ある宗派ではないというのは、 どこの宗派でもない、となり、 結局、仏教ですらない… ======================= となるのだなと思った経験があるのです。 あまり、良いお葬式の印象では私の中ではなかったんですね…。 具体的に言うと、個人の茶碗を紙袋に入れて、家の玄関を出た所の階段にぶつけて割れと葬儀屋さんの指示があったりしたんですね。 まあ、そういう無宗派、「普通」の、というか、はっきり言ってしまえば仏教と180度相反する、仏教とは正反対のことをさせられたんですね(まあ、断っても良かったわけなので、流されたのは私なんですが…)。 死はケガレである。49日間は冥界で迷っている、成仏していない、ゾンビが還ってくるといけないから、茶碗を割るという呪術、仏教とは絶対に相容れないおまじないをしろと。 同様に、石のもつ呪術力で、おかんの釘を叩いて、ゾンビが出てこれなくするというのもやらされました…。 直接にはお墓とは関係はないです。 ないんですが、どこの宗派特定でもない「普通」というのは、葬儀屋さんが、勝手に、最近なんか自分たちで作った、歴史も何もない呪術、そして、それは仏教とは完全に正反対で、相反するという実体験があるんです。 あまり良い感じではなかったんですね。 なので、お葬式を自分が出すことになったら、真宗式でしたいなぁと、思っていますし、自分の葬式を出してもらうことになったら真宗式でやって欲しいなぁと思っています。何か49日間は冥界で迷っていて喉が渇くから水とか、守り刀の呪術とか、旅装束とか、三途の川の渡し賃とか、葬儀屋さんが最近発明した反仏教イベントは、葬儀屋さんの想像力のある限り色々勝手にあるみたいですが、そういう、反仏教的な呪術儀式なしが望ましいと私は思っています。だいたい自分の親しい人がお浄土にお参りしているのではなくて冥界を彷徨っているみたいに強迫されること自体がイヤなんですね。冒涜だと感じます。 お墓は既にあるので、新たに建てることはないですが、もしも今から私が建てるのなら、そんなに奇抜でも普通でもないとも私には思えない(そもそもおもいっきり大きく○○家と台座に刻んでも全然OKでもありますし…)こともあって、真宗式が良いと私は思っています。仲間もいっぱいいて、みんなで同じ一つの場所でまた会いましょう…という。但し、くどいですが、習慣みたいなものだと思います。 私が良いなぁと思う「物語」に、質問者さんもコミットしないといけないということは断じてありません。
お礼
自分の宗派すら知らなかった人間なのですが、 お墓のデザインだけが気になるだけで、 真宗の考え方やシンプルな儀式のあり方は私もいいなと思っています。 自分のことなのでじっくりと考えてみます。 ご回答ありがとうございました。
- otherwind
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> 実は今回、「できれば普通のお墓」で行きたいという不謹慎?な思いで質問させてただきました。この点で書き方が明確でなく申し訳ございません。 真宗デザインでないと駄目っ!と言われると困ってしまうというか無視するしかない、別に○○家の墓で良いんじゃないでしょうかと言って欲しいということですね(^0^;)。そういう気持ちはOKWaveの質問では良くあることで(ともうしますか、人間普通のことともうしますか、普通の会話でも良くあることで)、謝られることはないです。大丈夫ですよ。 強いて実用的(?)な側面からしますと、真宗であるならば、儒教じゃなくて仏教なんだから先祖供養はしないというご宗旨なので、仮に、家とか、個人とかのお墓がある場合、そして、墓柱が「南無阿弥陀仏」でない場合には、多分、三つ折り本尊をご本山(京都の東本願寺)から受けて、それを墓石の前に立て、その三つ折り本尊に向かって合掌し、念仏するという形を取ることになるかと思います。墓柱に「南無阿弥陀仏」と刻んでおけば、この手間(?)は省略(?)できるともうしますか、「南無阿弥陀仏」という文字そのものが、ご本尊になりますから、先祖供養をしているのではなく、霊魂の存在も信じていない、がっ、阿弥陀仏を拝んでいるのである、という形になる、ということがあるのではなかったかと思います。仏壇なのであって、先祖壇ではなく、儒教ではなくて仏教なのだから、仏壇に位牌や遺影は置かない、というのと、同じ形のはずです。 但し、絶対に駄目!と言うことはないと私は思います。 たとえば、越後のどこかの山(まあ日本の山はどこでも阿弥陀が原とか地獄谷とかあってお地蔵様はありますよと言われてしまえばそのとおりなのでしょうが)で神仏習合、阿弥陀仏を本地仏という神社(+)真言宗のお寺(その山には真言宗なのですが阿弥陀如来がご本尊という異例のお寺が何カ所かあり、逆にもちろん神社にも神宮寺があってご本尊は阿弥陀如来だった)があって、明治維新で廃仏毀釈で、阿弥陀如来像を焼却せよとの命令が明治政府から下り、真言宗のお寺の住職さんは放心状態、但しこの地域の村々は、実際に歴史的事実として親鸞聖人が来られたということではなくて、村人の真理、真実としては、親鸞聖人が杖で突いたらわき出た清水などなど、また、親鸞聖人が自ら彫られた(とされる)御影なども多数あるお土地柄で、京都の東本願寺からは異安心というので破門されたから今は自動的に仏光寺派だけれども元は大谷派の門徒さんが暮らす村々であり、そもそも、ご本山には関わりなく、周囲の本願寺派、太谷派、仏光寺派、興正派の門徒さんが、一緒に、講というのか、つねづね、集まって聞法している地域。地域の東西本願寺別院は明治政府と揉めたくないので困ったらしいですが、地域全部の門徒さんが仏光寺派、興正派、だけでは人数が不足なので、周囲の村々の本願寺派や太谷派の門徒さんにも呼びかけ、門徒総代からなにから、命に替えても阿弥陀如来像を守るというので、道々に人があふれ、とうとう、明治政府側が折れちゃったというようなこともあった地域というのがあるらしいんですが、明治維新まで神社はあっても誰も神事に参加しない、村の鎮守の神様なんてものは存在しない、強いてお祭りのようなものがあるとすると報恩講だけという地域だったらしいのですが、それでも、神棚強制設置、報恩講やってるんだから同じ事じゃないかというので祖霊崇敬しましょうとか、仏壇の真ん中じゃなくって良いから片隅で良いから位牌を置いてねとか、村の鎮守の神様がないのはどうでしょうかとか、だんだんに、明治政府の政策が浸透したらしいです。そんな地域でも、時代によって、まあ、すみっこにちっちゃくだったら位牌置いても良いかな…となったと理解することも可能となります。(2010年現在、逆に位牌を今から作りたいと京都の東本願寺に相談したら真宗は儒教じゃないんで位牌は作りません、ときっぱり言われるとは思いますので、歴史的には短い期間の習慣というか流行に過ぎないとも言えますが) 元々自分の宗旨ですらない真言宗のお寺の仏像を命がけで守ったのは明治政府の政策である祖霊崇敬という概念にたいして命がけで自らの信仰を守ったお土地柄ですら、それでも、お上の意向だから、まあすみっこにちっちゃくだったら位牌くらい置いてあげても良いかな時代の流れ(明治維新から敗戦まで)ということがあるわけですね。霊魂などというものは仏教なんだからいかなる意味でも存在しない、また、凡人である我々が祀る、慰撫する、鎮魂するという、そういう考えがけしからんと元はみんな思ったわけでしょうが。死はケガレだから祓わなくちゃいかんというような発想に元々は耐えられなかったわけでしょうが…。
お礼
重ね重ねありがとうございます。 >三つ折り本尊をご本山(京都の東本願寺)から受けて、それを墓石の前に立て、その三つ折り本尊に向かって合掌し、念仏するという形を取ることになる そういった問題もあると分かり助かります。 お寺さんのことを知るよい機会だと思いますので、 後々のことも含めてじっくりと考えてみたいと思います。
お礼
ご回答ありがとうございました。 最終的には本人次第という事、良く分かりました。 実は今回、「できれば普通のお墓」で行きたいという不謹慎?な思いで 質問させてただきました。 この点で書き方が明確でなく申し訳ございません。 真宗のお墓の流儀は本で調べたのですが、なんとなく馴染めず、 それでも宗派が真宗である以上従うべきなのかなと思っていました。 ところが最近東京近郊の公園墓地を見る機会があり、 ほとんど真宗式のお墓が無く石材店に聞いたところ、 「東京では真宗の方も普通のお墓を作る場合が多い」との話でした。 お寺さんの檀家でもなく、お墓は公園墓地にと考えていたもので、 渡りに船というか、じゃあ我が家も「○○家の墓」で行こうとなったのですが、 ご意見にもあったように「その霊園一カ所、一石材店の意見」で判断してもと思い、 皆さんのご経験談やアドバイスを伺いたく質問をしたわけです。