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昔から納得いかないことがあります。
昔から納得いかないことがあります。 どうして、水族館や動物園が必要なのですか? 動物に良いこと、地球に良いことって、何かあるのですか? ニュースで、北極グマに氷の差し入れをしても、彼等は辛そうだし、ペンギンに無理やり服を着せて園内を散歩させたり、何のためにこんなところまで連れて来たのか?と思ってしまいます。 光熱量も、きっと相当な規模だと思うし、繁殖させたかったら、生息地で、そのまま見守ることは出来ないのでしょうか? 檻に入って、やたら視線にさらされている彼等は苦痛もあると思います。 ずっとずっと疑問に思っているので、無知なわたしに、教えて下さい。 水族館や動物園は、本当に必要なのですか?
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確かに動物達を檻に囲って人間だけのために愉しんでいるというのは非人道的ですね。私はこれらが自然発生的に動物が大好きな人間が彼らと友達になろうとして身近に飼うことから始まったのではないかという(人間には大甘な)見方をしているのですが、もちろんそれが必然的に見世物として金儲けの手段になって大規模になったということでしょう。また、学問の対象として博物館や図書館のような観点から公共的に発展してきたということもあるのでしょう。どちらをとってもこのような大規模なものは現代社会に絶対必要不可欠な施設だとは私も思いません。でもここまで来た結果として、自然にいる個体よりも世界の動物園にいる個体の数の方が多くなったという希少動物もいるようですし、動物園を一挙に廃止するというのも非現実的だと思います。 これからの営利的な動物園(あるいは水族館)は大方は規模縮小の方向か、そうでなければ動物の気分や権利を充分大切にするものでなければならないということになると私も思います。
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- hanzo2000
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必要か必要でないかで言えば、私にとっては必要です。 なぜ必要かというと「見たいから」です。 私にとっては好奇心を満たしてくれる楽しい場所だから、です。 こんな理由では弱いですか? あなたのその理屈をどんどん広げていくと、 牛肉を食べることすら問題視されそうですね。 「あなたのその食欲は、牛の命を奪ってまで満たされないといけないものなのか」 と問われたらどうしますか? もちろん、牛だけでなく、豚であれ鳥であれ、魚であれ、同じことです。 あなたが快適な生活をするうえで、たくさんの電気を使います。 たとえばあなたが死ねば、使われたはずの電気の量も減るでしょう。 あなたを住まわせるための家の木材も不要になって、 伐採される森林の量も減って、生き残れる生物が増えるかもしれません。 それでもあなたが生きる理由はありますか? そういう問いにあなた自身が答える努力をしてみれば、 自ずと動物園に対する答えも見えてくるかもしれません。 あとはまあ、もう少し普通の答えをすれば、 あなたような人がこんな風に質問することも重要な意義だと思います。 たとえば、ホッキョクグマが絶滅の危機にあるとして、 知識としてキチンと知っている動物と、 見たことも聞いたこともない動物とでは、 保護に対する意識も変わってくるのではないかと思います。 これが知識の効用です。 知識があることで、世界観が広がるのです。 あなたのその疑問も、動物園や水族館を見て、 世界観が広がったからこそわき出た疑問だと思います。 あなたが「こんな施設はない方がいいのではないか」という 問題提起が生まれましたが(そしてそれはいいことですが)、 それも知識の効用であり、あなたなりの世界観の広がりです。 世界にはこんな生物がいる、世界にはこんな魚がいる、 そういう知識を得ることで世界観が広がります。 それによって、結果的に動物にとって住みやすい世界が生まれることも 十分あり得ると思います。 短期的な効能だけを追うなら、 人間なんていないほうが生物のためですよ。 それでも私たちは生きるのです。 そのための動物園であり、水族館です。
お礼
ご回答、ありがとう存じます。 わたしの疑問は、この世の命に不必要なものはなく、自由を得る権利があっての自然だと思うからです。 学問的側面について、わたしも少なからず、その施設の役割は知っています。 ただ、必要な範囲が解りません。 全否定ではないのです。 この疑問を突き詰めると、わたしたちが生きていくために必要な数の動物園と水族館とは、一体どの位なのかということと、どのような生活を生き物に提供し、どのような展示をするのが有効なのかという質問になると思います。 ロシアのアニメ「チェブラーシカ」にワニの紳士が出て来ますが、彼は、動物園のワニという「職業」をもち、閉園するとアパートへ帰って、独身生活をしています。旅行もします。 これを観たとき、きっと難しいけど、こんな風になれば良いのにと思いました。 像使いと働く像も、仕事が終わると森へ帰され、また、呼ばれると働きに出て、老いても像使いにしっかり大切にされます。 この両者の距離は、とても愛情深いものだと感じました。 そうすると、ますます、動物園と水族館の限られたスペースで、生き物が暮らす幸せについて、考えることになりました。
- akiko0828
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動物や地球にとっては迷惑だけどあくまでも人間に必要だからあります。 単純に水族館や動物園がなくなったら小学校の遠足とか社会科見学が味気なくなるしデートの場所も制限されちゃってつまらないかも。 戦争や災害とかでそういう文化的余裕がなくなったら多分レジャー、文化施設はなくなるでしょう。
お礼
ご回答、ありがとう存じました。 デートの場所は、他にも沢山あると思いますし、遠足も、幾ら都会でも、少し脚をのばせば、自然に触れ合うことができます。 子供たちの創造性は、本当に素晴らしいです。山歩きをすれば、キノコを探して、毒がないものを先に見つけた方が勝ち!など、すぐに遊びにして楽しんでしまいます。 他の方にもお話をさせて頂いていますが、学問的側面において、必要なのは否めないと思いますが、何処までが必要な範囲なのか、疑問に思います。 わたしが、生まれて間もなく母と引き裂かれて檻に入れていて、毎日コンクリートの上で寝起きし、誰かに指差されて過ごすとしたら、かなりの苦痛です。 「チェブラーシカ」に出てくるワニのキャラクターは、「動物園のワニ」という職業をもち、閉園すると好きな家へ帰り、友達と過ごして、得意なアコーディオンを奏でる自由を持っています。列車に乗ったり、飛行機に乗ったりして、旅行だってします。 ですが、実際にワニがお給料を貰って、閉園すると好きな沼に帰るようになったら、人間の安全を考えて、皆が反対するでしょう。生態系だっておかしくなります。 だから、じっと狭い人工のプールで、肉の塊を待ちぼうけしているのです。 わたしには、絶対、堪えられない生活です。
- mojitto
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ハッキリ言って人間のエゴです。 目的は図書館と一緒です。 ただ、本か動物かの違いです。 (まぁ動物園や水族館は他にも“研究機関”の役割もありますけどね) でも動物や魚についてもしっかり勉強しないと、生活に密接に関わる魚の見分けがつかないばかりか、本気でトロが泳いでいると思っている人もいるようですよ。 見る、聞くくらいなら本やビデオでできますが、それでは体験できないものが、それらの施設にありますしね。 (そのような施設がなかったら、体験する機会もないでしょうし、それこそ体験するためには莫大なエネルギーが必要になってしまいます) とはいえ、不要だと思っている人は、何を言われても不要だと思うでしょうけど。 必要だと思っている人のひとつの意見として。
お礼
ご回答、ありがとう存じました。 小さな頃は、わたしも喜んで見ていました。 イルカのショーにアシカショー、ラッコのプール。楽しかったです。 今でも、知らない魚を知る機会をもらったり、研究員の皆さんの研究の成果の恩恵を、日々生活する中で頂いていたり、わたしも無関係ではないと思います。 ですが、いつも最後に腑に落ちないまま、この疑問が消えずにいます。 一体、何処までが必要な範囲なのでしょうか?
- yn5178
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世の中に必要ないものなんて、きっと無いんだと思います。 誰かが必要だと思っているからそこに存在している、とは 思えませんか? 必要がなくなったら消えていく、そんなもんでしょう。 水族館や動物園は、そこにいる動物たちを見たいと思う 人たちがいるから存在する、見たいと思う人がいなくなれば、 必然的に消えるでしょう。(そんな事になるとは思えませんが・・・) 確かに生息地に見に行けば動物たちに会えますが、いろんな理由で 生息地に行けない人たちにとっては、ありがたい存在でしょう。 確かに動物たちにとっては、迷惑な存在かもしれません。 ですが、人に見せるためだけに動物園・水族館が存在する わけではなく、生態の研究に使われてもいるんです。 生態の研究をする事によって、生息地に住んでいる同じ 種類の動物たちの保護にも役に立っているはずです。 あなたは洋服を持っています。どれくらい洋服があるかは 別にして、今のところ着るつもりがあるから持っていますよね。 何年かして、流行ではなくなったり体型が変わって着れなく なったりすれば、いずれ捨てられゴミになって、燃やされたり 夢の島に埋められたりすれば、それは消えた事になります。 同じことではないでしょうか?
お礼
ご回答、ありがとう存じます。わたしも、水族館や動物園の学術的・教育的側面については知っています。そこでの研究員の皆さんの努力と、現代技術への貢献は、テレビ等でも垣間見て来ました。 しかし、学術性よりエンターテイメント性や規模を競い合っているようにも見えます。これは、経営者側の存続の為の知恵なのかも知れませんが・・・。 狭い空間に閉じ込められた生き物を見る度に、もしもわたしが「飼われた」としたら、絶対、直ぐに逃げることを考えるな、と思ってしまいます。 良い面も悪い面もあるからこそ、長い間納得が出来ないのです。
お礼
ご回答、ありがとう存じます。 まさにその通りだと、わたしも思います。 かつて戦にサイや象が使われ、勝った国が戦利品に持ち帰ったということもあるようです。 見たこともない物を見たい、自慢したいという思いは、誰にでも生ずるものだと思います。 また、そういう知らないことを、知る機会は、かなりの財産にもなります。 希少動物には、最後の砦かも知れません。 ただ、命と知性を育む為に必要な範囲を模索する意義はあると、わたしも思います。 わたしの町に世界最大級のペンギン飼育施設が出来ました。 きっと市民の多くは、自分の町が、南極の次にペンギンが多く住んでいて欲しい、なんて思っていないと思います。 寧ろ、一度は南極に行って、野生のペンギンを見てみたいと、何となくでも考える人の方が、多いかも知れないと考えるのは、わたしだけでしょうか?