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出エジプトしたイスラエル人は小麦粉はどこから手にいれましたか?

新改訳聖書第三版を読んでいたら、 出エジプト 29:2 種を入れないパンと、油を混ぜた種を入れない輪型のパンと、油を塗った種を入れないせんべいとを取れ。これらは最良の小麦粉で作らなければならない。 出エジプト 29:40 一頭の若い雄羊には、上質のオリーブ油四分の一ヒンを混ぜた最良の小麦粉十分の一エパと、また注ぎのささげ物として、ぶどう酒四分の一ヒンが添えられる。 出エジプト 34:22 小麦の刈り入れの初穂のために七週の祭りを、年の変わり目に収穫祭を、行なわなければならない。 レビ記 2:1 人が主に穀物のささげ物をささげるときは、ささげ物は小麦粉でなければならない。と小麦粉をささげるように神から言われていますが、荒野を放浪して一定の場所に留まっていないイスラエル人はどのようにして小麦粉、油を入手したのでしょうか。 どうぞ教えてください。

みんなの回答

回答No.1

 失礼ながら,歴史カテゴリーで質問なされた方が良いと思います。 http://oshiete.eibi.co.jp/210/c307.html  といっては無味乾燥なので,ヒント  舞台はカナンの地イスラエルはヨルダン川西岸で,今も抗争の地です。 入植と繁殖と虐殺が繰り返され,部族ごとの人口の圧力が抗争の原因で あり,勝因だったりもしています。  舞台の時期は通説で紀元前1200年前頃で,ウガリット(農耕民) のいるところに彼らは入っていったことになります。すいでにこの頃 海の民・ペリシテ人も盛んに入ってきました。たぶん部族間抗争もあり, 定住地を確保するまで大変だったでしょう。 <荒野  とありますが,今の感覚で捉えるのではなく,荒野もあるが, 豊かなところは豊かであったとお考えになられた方が良いでしょう。  第一,レバノン杉と呼ばれる巨木が林立していたといった 花粉化石の研究もあったはずです。少なくとも,ファラオの大きな 棺や交易・略奪の船。ギリシャ神殿の大きな赤い柱(初期は巨大な レバノン杉がギリシア神殿に使用されていた)など考えますと, 今より冷涼で,シナイのあちこちの谷には豊かな畑もあった。 ような考えも成り立ちます。  また,コムギも交易で入手という手もあります。  だいたい,定住まで40年放浪したとありますので, 手荷物だけで食べていけるわけではありません。  逆に,十分な食料があれば,シナイ半島は九州-北海道程度 ですから,1年もかからず縦断できます。  あちこちで放牧などで生計を立てながらさまよったといった ところでしょうか。  まずは歴史カテへどうぞ  ではでは

zaikun
質問者

お礼

ありがとうございます。歴史の方がよかったのですね。、ウガリットから新たに農耕民のところへはいっていったことがわかったりして小麦や油が手にはいる環境だったとわかりました、、その分野の聖書学者の津村俊男先生がみつかったりして、目からうろこでした。