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殺すべきだ!

「そいつは極悪非道だから殺すべきだ!」 という感情は、仏教でいうと煩悩に値するのでしょうか? (対象者は拘束されており、暴れたりすることもない状態にあるとします)

みんなの回答

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.3

参考程度に >「教導」と言うからには、ただ怒るだけで終わってしま っては、「教導」していることにならないので、何らかの行動(何らかの手段で 訴えるとか)が伴ってはじめて、「教導」の怒りとして成立するように感じました。 そのとおりですね。何もしないというのは悪を助長しているだけですね。いうべきはいわなければいけませんね。経済制裁が必要なら恐れずに実行しないと教導の怒りにはなりませんね。 >日本においては年間3万人近くの自殺者を出していますが、こういった国の指導者に怒りを覚えな いことも、やはりまともでないことになるのだろうかと、疑問に感じました。 これもそのとおりですね。 イラク戦争でもこんなに死んでいないでしょう。数を考えれば大戦争ですね。サイパンや硫黄島の万歳玉砕状態ですね。そのような客観的見方ができないところが問題ですね。個人や団体は自殺防止を訴えないといけませんね。それから政府は政策の失敗を認めてやり直さないといけませんね。政治に熱心な宗教団体もありますが、責任は重いですね。民主政治ですから誰も責任取りませんが、昔であれば、政治家は遠島か、はりつけ獄門というのが量刑になりますね。足元がわからなくて国際協力はないんですね。

sarada_p
質問者

お礼

ありがとうございます。 >経済制裁が必要なら恐れずに実行しないと教導の怒りにはなりませんね。 そうですか。ということは、イラクに対する経済制裁も必要という合意の元に なされたことであるので、医薬品不足で50万人以上の子供が死んだことは (大人も含めればその倍以上?)、仏教的にはやむを得なかったと見なされ るのだろうかと、疑問に思いました。 >そのとおりですね。何もしないというのは悪を助長しているだけですね。 >いうべきはいわなければいけませんね。 ということは、教導することを放棄して罪人の命を奪うような制度に対しては、 反対の意を訴えることが仏教的には正しい行いになるのだろうかと、疑問に 思いました。

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.2

参考程度に 「怒り」ですね。「怒り」は煩悩のひとつですが、これはあくまで個人的な場合です。怒りでも「教導の怒り」は別です。教導の怒りというのは間違いを正す場合です。北朝鮮の指導者への怒りはもつべき教導の怒りです。多くの市民が餓死している状況をみて怒りを覚えないのはむしろまともではないと考えるのが常識です。仏教でも同じです。釈尊は世間解(常識)は外してはいません。では極悪非道についてはとの質問についてですが、教導の怒りはありますね。その人物の間違いを正すという意味で厳しく罰するというのも教導の怒りですね。外的には同じかも知れませんがよくなってほしいと思って罰するのと、復讐の心で行う違いがありますね。仏教では教え導く怒りですね。

sarada_p
質問者

お礼

ありがとうございます。 >北朝鮮の指導者への怒りはもつべき教導の怒りです。 ふと感じたことですが。「教導」と言うからには、ただ怒るだけで終わってしま っては、「教導」していることにならないので、何らかの行動(何らかの手段で 訴えるとか)が伴ってはじめて、「教導」の怒りとして成立するように感じまし た。 ただかーっと怒ってそれで終わりでは、個人的な怒りと同等ではないかと思 えてしまいました。 >多くの市民が餓死している状況をみて怒りを覚えないのはむしろ >まともではないと考えるのが常識です。 湾岸戦争後のイラクにおいては、経済制裁の影響による医薬品不足から、 非常に多くの子供が死んだと聞いてますが(戦争による死者よりも多い)、 「経済制裁」に対して怒りを感じていなかった人は、まともでなかったのだろ うかと、疑問に感じました。 また、餓死者を多くだしている国は結構ありますし、日本においては年間3 万人近くの自殺者を出していますが、こういった国の指導者に怒りを覚えな いことも、やはりまともでないことになるのだろうかと、疑問に感じました。 >では極悪非道についてはとの質問についてですが、教導の怒りはありますね。 >外的には同じかも知れませんがよくなってほしいと思って罰するのと、 >復讐の心で行う違いがありますね。仏教では教え導く怒りですね。 「極悪非道者に対して、死を要求するほどの怒り」というのは、教導は放棄し、 あるのは「復讐の心」のみのようですから、やはり煩悩の表れということにな りそうですね。

  • void2000
  • ベストアンサー率17% (41/229)
回答No.1

 仏教というのは「自分中心の考え方」を否定するわけですね。  それで煩悩というのは「腹が立ったり」「物が欲しかったり」することで、それらは自分中心の考えから出ているから否定されるわけです。  そうするとある人を「極悪非道」と決めつけるのも、自分中心の考え方なのですね。なぜなら、その本人自身は自分を極悪非道だとは思っていないかも知れないからです。極端な場合、彼を極悪非道だとおもっているのは、世界中であなた一人かも知れません。人を裁くというのはとても難しいことなんですね。  回答になっていないかも知れませんが・・・

sarada_p
質問者

お礼

ありがとうございます。 >それらは自分中心の考えから出ているから否定されるわけです。 >そうするとある人を「極悪非道」と決めつけるのも、自分中心の考え方なのですね。 何の罪もない子供を何人も刺し殺した人間に対して、世の中の多くの人が 「そいつは殺すべきだ!」と思っている場合でも、その思いは「自分中心の 考え方」であって、否定されるべきなのでしょうか? >その本人自身は自分を極悪非道だとは思っていないかも知れないからです。 金正日自身は祖国防衛のためにどうしても拉致をする必要があったと思っ ていたら、拉致に関して金正日に怒りを向けることは、「自分中心の考え方」 になるということでしょうか?

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