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「ルールはルールだ!」という言い分が、正しいと思えません
生徒に「なぜこんな校則があるんですか?」と聞かれたとき、 「ルールはルールだ!守れ!」と答える人がいますよね? 私は成人ですが、昔も今もこの言い分が納得できないんです。 ルールには、それができた理由や必然性があるはずです。 言い換えれば、必然性がないルールは存在価値がありません。 そもそも「理由もないのに人を縛る」という発想が、私の理解を超えています。 しかし世間には「文句があるのか!」「不満があるなら出てけ!」と、 説明もせずに怒鳴りつける方がいますよね? あるいは「はぁ?いい年して何を屁理屈言ってるんだ」と冷笑する人とか。 私はこういう反応に、非常に腹が立ちます。質問の答えになっていない… そこで質問です。 (1)「ルールにはとにかく従え。その正当性など関係ない」 (2)「理由や正当性がないものは、ルールである資格がない」 私は(2)を常識だと思うのですが、 (1)を常識だと思う人は、なぜそう思うのですか? 例えば(2)を常識だと思う人を、どう思われますか? 理由を説明できないことを他人に強制するとき、ためらいを感じません? また、こういうときの常套句として「社会に出れば、もっと理不尽なことがある」 「そのときに備えて訓練だ」と返す人が多いのも疑問です。 基本的に、世間にのさばる理不尽は、皆でなくすべきものではありませんか? 「理不尽に慣れろ」というのは「受け入れろ、抵抗するな」という意味ですよね? ちょうどアルハラ上司が「酒に慣れろ!」 というようなものではないですか? なぜ「理不尽を無くすため頑張ろう!」ではなく、 理不尽を容認・後押しするような台詞を、当然のように言うのでしょう?
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- hanagata99
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(1)と(2)を区別する必要性が分かりません。 ルールはルールで守ればよろしいのでは? 正当性が無いと思われるルールは変えれば宜しいのでは? ルールを変えずに個人が正当性が無いと思う事によってそれが破られてはならないと思いますが。 まずは、「世間にのさばる理不尽」の理不尽性についての合意形成を計るべきで、次にそれが変わったとき或いは無くなった時の影響を多面的に考慮した上でより良い代案を出し、それについての合意形成を計って新たなルール化すればよろしいのでは?
- yama_x
- ベストアンサー率20% (188/940)
自分もNo1の方がおっしゃるように実はできたときは、理由も正当性も 十分にあったけど、今の社会にそぐわないので説明できない、という ことが多いのだろうと思います。 また、「誰にとって正当」なのか、ということも重要だと思います。 先生にとっては学校を管理しやすくし、秩序を保つ、という「正当性」が あっても生徒にとっては自由な発想・行動を阻害するという「不当」な物に なることはよくあることです。 DVDなどのコピーガードは著作権者からすれば、著作権保護の正当な 施策ですが、購入したユーザーからすれば、購入したコンテンツの 自由な閲覧を阻害する不当な物です。 自分なんかはDVDのコピーガードは仕方がない、正当性がある物と 判断しますが、どうしても納得いかない、不当な物だと理解する人の中には コピーガードを外して利用することに正当性を唱える人もいます。 正当か、不当か、理不尽か、理不尽でないか、そのあたりは人それぞれの 価値観にもよります。 おっしゃられることはもっともですが、注意しないと独りよがりの 正当性を主張している場合もあるかもしれません。 行き過ぎれば納得できないことには従わなくていい、ということに なりかねません。
お礼
回答者さまのご意見、よく分かります。 ただその場合、少なくとも 「こういう理由で、学校という組織にとっては正当性があります」と 説明くらいはすべきだと思うんです。 説明せずに怒鳴りつけることは、生徒の信頼を失う行為だと思います。 実際、「あの先生キライ」「言ってることが意味不明!」 と、敵意を持たれる教師は数多いです。 また「あなたが尊敬する教師は?」との質問には 「子供だからとバカにせず、真剣に向き合ってくれた先生」というのもよく聞きます。 なぜ世の大人は、そういう姿勢を見せようとはしないのでしょう? 「きちんと話に応じてくれた」
補足
すみません。お礼の最後の一行は、消し忘れです…
- Ichitsubo
- ベストアンサー率35% (479/1351)
正当性が無くともルールである以上従うほかありません。 それは「ルールだから」です。 正当性がないルールは従わなくてよい、などという屁理屈を認めてしまうと、 「私は正当性を認めないからルールに従わない」 という不届き者を制することができなくなるのです。 ルールを変えるように働きかけるのももちろんだと思いますが、 それは従わなくて良い理由になどなりません。
お礼
誤解を招く表現があったので、少し補足させてください。 私は「従わなくてよい」とまでは、言うつもりはありません。 ただ「なんでこんなルールがあるの?」という質問を 反抗のしるしととって 「不満なのか!」「屁理屈を言うな!」と、 一方的に怒鳴りつける大人が、多すぎると思うのです。 私のような人間は (当然の疑問を口にしただけなのに…) (なんでいきなり怒るの?)と驚き、 「いや、だから理由を聞いてるんですが」と聞き返します。 すると相手は、さらにその態度に怒り、 「まだ言うか!」「口の減らない奴だ!」「反抗的だな!」と、 話が通じないことが頻繁にあるからです。 まるで疑問をはさむことが悪であるかのように扱われるので、 回答者さまのように冷静に対応してくれればよいのに、 なぜそんなに高圧的なのかが、疑問なのです。
- 中京区 桑原町(@l4330)
- ベストアンサー率22% (4373/19606)
理由や正当性がないものは、ルールを見直すべき 現在では正当性が無くてもルールが出来た当時は正当なものだった事が大半です。
お礼
やはり時とともに、必然性が風化することもありますよね。 法律も、時勢に応じて見直したりしますし…
お礼
おっしゃることは分かります。 もちろん納得いかないからといって、破ってよいとも思いません。 ただ(1)のような方は、理由や正当性が全く気にならないようなので、 その精神構造を知りたいと思ったのです。 少なくとも、私にはぜんぜん想像がつきません。 また(1)の方は、ルールを変えようとするとき、 例えば「靴下の色/髪型を自由にしたらどう?」に対して 「それは高校生にそぐわない」という、 非常に主観的で、漠然とした言い分を言う方がおられます。 もっと実際的な影響をなぜ考えないのでしょう? 単にこれまでの習慣を変えるのがイヤなだけに見えるんですが… そこまでして、理由の明確でない案にしがみつく理由が分からないのです。