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芥川の地獄変をエロティックだと思うのは、おかしい?
中学生で地獄変を読み、よく判らないまま、凄まじい衝動を感じました。 数年後に性行為を体験し、当時の衝動の意味が理解出来ました。 ちなみに、私は女性です。(恥!) でも、作品中、何処にも性的な場面はありませんよねえ。。。 一カ所、殿がちょっかい出しているのを、暗に描いてはいますが。 エロティックだと思う方、はその理由、 思われない方、もそうは思わない旨、回答頂けないでしょうか? やっぱり、性行為って、軽く「生と死の狭間の体験」なのかなあ、 それが、燃え盛る牛車(と良秀の娘)と重なるのかなあ、と考えております。 よろしくお願いします。
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問題を整理しましょう。どこに視点、重点を置いているか、そこに錯覚があるように思われます。作品全体に置くのか(きわめて良識的)、良秀の心情にそのものに思いを致すのか。質問者の文章を拝見して、作品より、絵師・良秀に力点があると思われたので、サドを持ち出したのです。 私は前回の投稿で「ある事件」と書きましたが、常識ということを基準にすれば、まさしくおぞましい事件ではありました。ところが、仮にXさんとしましょう。そのXさんがおぞましい行為の途中に「射精」したと言われています。 事件は作品、Xさんの心情はまた別。お名前は忘れましたが、質問者が「エロチック」といったのは、まさしくXさんそのものに言い及びたかったんだ、と私は理解しています。教条主義は、死すべし!
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- kadowaki
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こんばんは。 例によって、牽強付会のこじつけとなることをお許しください。 >中学生で地獄変を読み、よく判らないまま、凄まじい衝動を感じました。 私の場合、高2の夏休みの宿題として、大嫌いな読書感想文を書くように強請され、芥川の短篇から選ぶなら、より長めのものを選んだ方が教師の覚えもめでたいはずという思惑から、たまたま「地獄変」を読んだのですが、その当時の三倍以上の齢を重ねたオヤジになった今でも、正直言ってよく分からない物語だと感じております。 たとえば、あの「良秀」とあだ名された猿の、いかにも意味ありげな振る舞いにしても。 その他の、たとえば読者をして多義的な解釈に誘おうとする、手の込んだ仕掛については、いかにも「藪の中」の作者らしいやり方だとまだ納得できるにせよ。 >エロティックだと思う方、はその理由、 >思われない方、もそうは思わない旨、回答頂けないでしょうか? エロカテ御用達の私ですが、全然「エロティック」だとは思いませんでした。 でも、女性であるyukkinn6さんが「燃え盛る牛車(と良秀の娘)」の側にわが身を置き、もって「エロティック」な感情に襲われたとなると、それなりに納得できますが。 思うに、われわれが何かのモノ・コトに反応し、エロティシズムなり、美的感動や恍惚感なりを覚えるのは、普段はわが身を守っている世俗的、表層的な価値体系(たとえば衣裳、科学、法律、道徳等)が、同じくわが身の深層に棲息する、善悪を超えた、一種凶暴な生命のエネルギーによって剥奪されたり、破壊されたりしたときではないでしょうか。 ところが、牛車に良秀の娘を乗せ、これを炎上させること命じたのは、あくまでも大殿の指示によるものであり、しかも大殿にその筋の嗜好癖があったわけではなく、その真意はと言えば、単に耽美の鬼たる良秀の鼻っ柱をへし折ってやろうという程度のものでしかないですよね。(手籠めにし損なった娘への腹いせもあった?) さらには、確かに良秀は地獄絵図さながらに燃え盛る牛車に恍惚として眺め入ったにせよ、それはあくまでも画師の鬼才が覚醒しただけのことであって、彼自身が能動的に持ち前のサディスティックな嗜好欲を充たそうと働きかけたわけではないですよね。 ということで、牛車炎上という状況設定にも、大殿と良秀の娘との間にも、良秀と娘との間にも、サディストとマゾヒストとのあ・うんの呼吸のような憎悪愛(反発、馴れ合い等を含む)で結ばれた者同士の関係が認められない以上、ここにエロティシズムを見出すのは難しいような気がします。
お礼
kadowaki様、丁寧な回答ありがとうございます。 そうかあ、、、エロティックでないとのご感想なのですね。 その後に続くエロティシズム、サディズムに対する冷静で的を射たご指摘で、 先の方に褒められ少々高くしていた鼻っ柱を、見事に ペシッ、ペシッ、ペシペシッ、ペシッ、と数回に渡って完璧に折られました。 私の読解の穴(それも大穴?)の多さにしょぼん。。。 なんてまあ、含む物の多い物語なのでしょう。。。 >女性であるyukkinn6さんが「燃え盛る牛車(と良秀の娘)」の側にわが身を置き、 >もって「エロティック」な感情に襲われたとなると まったくもって、その通りかも知れません。 そして、その視点から考えると、今度は「自身の女性性への嫌悪」と言う厄介な問題が現れてくれるのです。。。 >サディストとマゾヒストとのあ・うんの呼吸のような憎悪愛(反発、馴れ合い等を含む)で結ばれた者同士の関係が認められない以上、ここにエロティシズムを見出すのは難しい サディズムやマゾヒズムではなく、単なる己の女性性への憎悪かな、とも。 只、、、 あの残酷な地獄絵図は、登場人物とは違う「傍観者の視点」としてのサディズムは成り立たないかしら?とは、諦め悪く考えております。^^ あ、でもマゾヒストと対でないと、サディズムは成り立たないのかしら。。。 あーー難しいです。。。 サディズム単体では、サディズムではないのでしょうか。。。? もう一つ気になるのが、大殿が良秀の娘を手篭めに仕損なった事件。 その事件での、娘の隠れていた艶かしさの描写が無ければ、 燃え盛る牛車の情景に其処迄はエロティックを感じなかった、と私は感じております。 つまり、あの事件は 大殿の牛車(と娘)を火にかけると言う決断の為の布石である、と同時に、 燃える牛車と娘の妖婉さを際立たせる為の布石である、とも考えられないかな、と思うのです。
- magura
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いや、感服しました。私も同じ年代に読みましたが、そこまで想いがいたりませんでした。「芸術のためなら・・」と、教科書に書かれている程度しか、認識していませんでした。あなたの文章を拝見して、「あつ」と悲鳴をあげて、自身の甘さ、迂闊さに、思い切り頭を叩きましたね。 そうだ、良秀の行為は、ドナチァン・アルフォンス・フランソワ(サド侯爵)が理想とした「リベルタン」そのものではないかと。「伝統への敵意・・信仰および宗教的行為を拒否」し、「目的はただひたすら快楽」である、と。実は、事件の質こそ違え、十数年前にある地方で起きた事件も、同じ延長線上にあると、私は思っています。ここでは詳しくいえませんが・・。 しかしあなたの意見によって、アラカン(還暦)の歳になって初めて、芥川の目指したところを思い知らされました。ありがとう!
お礼
回答くださり、感謝申し上げます。 感服とは、、、身に余る褒め言葉で恐縮です。 ありがとうございます。 >ドナチァン・アルフォンス・フランソワ(サド侯爵) やっぱりやっぱり、、、「サディズム」ですよね? はああーーーこれは私の嗜好性が反応したのかしら。。。 何だか、、、うーーん、、、 >「芸術のためなら・・」 確かにそれも有るのでしょうけれど、 良秀は娘の乗る牛車に火をかけられる瞬間、身を捨てて止めに出ようとしました。 しかし、時既に遅しで、牛車は燃え上がり、娘は身をよじって悶えた。 その苦しさを我が身に感じ、同様に悶えつつも、その「苦痛」に良秀は恍惚とします。(えっ?違うかな。。。) 「芸術のため」と言う「犠牲」の感覚ではない、と読んだのです。 ただただ、純粋に文字通り「命燃ゆる」美しさ、なのだと思うのです。 残酷、は確かにそうなのですが、、、 そんな倫理を超越して「美しい」のです。。。 やっぱり、私はおかしいかな、、、 暴走してしまいました、お恥ずかしい。。。
《中学生で地獄変を読み、よく判らないまま、凄まじい衝動を感じ》たこと。 数年後に《性行為を体験し、当時の衝動の意味が理解出来》たこと。 そして現在、《やっぱり、性行為って、軽く「生と死の狭間の体験」なのかなあ、それが、燃え盛る牛車(と良秀の娘)と重なるのかなあ、と考えております。》 という、あなたの感受性や、意識や思念の変化のなかに、充分にその回答が含まれているように思います。 エロティックです。 それは、作者が、自分自身を含めた、人の生を描いたからです。 生が、エロティックでない筈はありません。 ただし、「生」や「性」を直接的に語ることは、憚られる傾向がありますので、表現する場所や時期については、注意が必要です。 親たちや、学校の先生、職場の上司たちは、きっとあなたの「生」や「性」についての言動を喜ばないでしょう。本質的であればあるほど嫌がるでしょう。 ☆ ☆ ☆ 芥川龍之介は、「地獄変」の一年後くらいに、今度は堀河の大殿様の息子を主人公にした「邪宗門」という作品を、同じ大阪毎日新聞に書いています。 「地獄変」を語っていた同じ話者が再登場して、その時代風俗を描いています。 芥川龍之介の意識の変遷と、「凄まじい衝動」「衝動の意味が理解」「生と死の狭間の体験」という、あなたの意識の変遷とつながるものがあるかも知れません。 また、三島由紀夫の「憂国」は、ちょうど現在のあなたが「凄まじい衝動」を感じる作品かも知れません。 「かも知れません」が2題も続いて申し訳ありませんが、あなたがここで90年も昔の短編小説に対して質問をしているように、尾を引く作品であることには、違いないようです。
お礼
回答ありがとうございます。 >生が、エロティックでない筈はありません。 そうですね。 きっと、日頃気にせず気付かず通り過ぎている「生の実感」をまさに「生々しく」引き出すのが「性(行為)」なのでしょうね。 >本質的であればあるほど嫌がるでしょう。 ふふっ、、、さすがに性についてはしゃべりませんでしたけれど、生については何かと小賢しい質問で先生たちを困らせていた元生徒です。苦笑 でも、結構素敵な返答をしてくれる方が多くて、幸せな学生時代でした。 今は夫がおりますので、夫にしゃべくる事にしています。 夫は「こんなヤツだったっけ。。。?」と困惑気味ですが。。。汗 芥川の「邪宗門」は手元にあったので、ささっと読んでみました。 さすがに、地獄変のように直接的な?刺激は感じ取れませんでした。 でも、未完故、妄想が膨らみます。爆 三島の「憂国」。。。 三島さんもその手のエロエロ?作品が有りそうですね、 って、そう言うおつもりで推薦下さった訳ではないでしょうに。。。 申し訳ありません。。。 (一体私は何を読み取っているのでしょうね。。。) ありがとうございました!
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お礼
magura様、再びの回答ありがとうございます。 >どこに視点、重点を置いているか、 簡潔に重要な点を付いてくださり、ハッと致しました。 >作品全体に置くのか(きわめて良識的)、 >良秀の心情にそのものに思いを致すのか。 此処に第三の視点。。。「読み手の(勝手な?)感性で物語を書き換える」と言うのはダメでしょうか。(苦笑 私が「エロティック」と感じた視点は、良秀の視点と同じではないと思います。 良秀は牛車と娘の炎上で恍惚としましたが、それは決して「射精に繋がって行く恍惚」では無いと感じるからです。 我が子の身体に性を感じる事は有っても(親の性的虐待?)、 我が子の悶死に性的な美を感じ取る人間って、、、居るのでしょうか。 (でも、こう思うのは私が「凡人の母親」だからかも知れませんね。。。 「我が子」を越えて「美」を感じ取る事こそが、「芸術至上主義」なのかも知れませんし。。。) こんな私の考えから、 エロスを受け止めた私の視点は、良秀の視点に一番近くはあるけれども、決して重なっている物では無い、と思います。 言うなれば、「良秀の肩越しに見ている」と言うような。。。 視点の分類?としては、 1)作品全体に 。。。「芸術至上主義」と言う解釈。 2)良秀の視点 。。。「美(の毒性)」の追究? 3)良秀の肩越しに 。。。エロティックだ。 4)その他諸々 となるかしら。。。と思います。 いかがでしょうか。。。?