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赤穂浪士、足の冷たさはただただ我慢したのでしょうか
間もなく国民待望?の忠臣蔵の日がやってきます。 そこで一つ、二つ。 1.討ち入り当日は雪だったといわれています。草鞋に足袋?では、雪が 沁みこんでつらかっただろうと思いますが、ひたすら我慢をしたので しょうか。 2.草鞋というものは結構丈夫だったのでしょうか。数時間闘争を続けた のでしょうが、その間紐が切れるというようなことはなかったのでし ょうか。 3.討ち入り時には鳴り物(太鼓あるいは銅鑼)を使ったのでしょうか。 打ち鳴らせば、周りにすぐ知れてしまうと思うのですが。 4.吉良邸の周囲の屋敷は何の反応も示さなかったのでしょうか。物音な どで気付いたと思うのですが。 5.武器ですが、槍が主で刀は副だったのでしょうか。弓矢は使ったので しょうか。 以上、素朴な疑問です。
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1.赤穂浪士討ち入りの日は雪だったは、後の創作によるもの。 実際は非常に寒いが、満月が見えるよい天気だったと言われています。 2.討ち入り時には、兜や鎖帷子を着用していたようで 足元も草履ではなかった可能性が高いです。 みんな揃いの格好で吉良邸に向かったというのは、後の創作によるもの。 3.太鼓も実際は持っていませんでした。 連絡用の笛や鐘は持っていたといわれています。 これも、後の創作によるもの。 4.討ち入り開始が、午前4時ごろ。 みんな寝ていたのでは・・・。 上記にもあるとおり、太鼓を鳴らしながら進んだわけでもないので。 5.塀で囲まれているので、外から狙うことは難しいし 中に入ったら、敵味方入り乱れての乱戦となり、狙うのは難しい。 このような理由から、弓は使いづらかったのでは。 門番を倒すのに、弓を使ったという説はあるみたいですが。
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- k16399638
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1 回答がありますが雪はありませんでした。 2 丈夫です。4時に討ち入って8時半には徒歩で泉岳寺に着いており、その間に落伍者がでていないので(75すぎから17歳までいる)、少なくともその時間は用事に耐えたことになります。赤穂浪士に死者はでていません。 3 叩きものを討ち入るときにならした、という説と、裏門を大槌で叩き壊したときの音を鳴らし物と勘違いした、という説があります。叩き壊したのは本当です。 4 隣の屋敷に「今、仇を討つために討ち入った。どうか手出し無用に」「いま仇をとった」などとあいさつしています。その隣家では、とにかく塀を越えてくるものには全て矢を放て、と屋敷主人土屋主悦は言っています。その後「額に傷がある」「本当のことを言え」という問答が吉良家であったあと、全員が嗚咽の声をあげるのをきいて、いま仇をとったのだな、とわかったそうです。 この家(土屋家)は、武士の情けとだまって提灯をかざして、吉良邸の庭を明るくしてくれ、吉良家に助太刀しなかったことが取り調べ記録にのこっており、歌舞伎、映画ではほぼ必ずでて来る有名シーンです。 5 刀も槍もつかいました。吉良邸に弓の使い手がおおい、という情報(真偽は不明)があったので、討ち入ったとき弓がきちんとならべられている場に出くわした赤穂浪士二人が、弓の弦を全て切って使えなくしたという事実はあります。
お礼
k16399638さん、回答をありがとうございます。 >4 隣の屋敷に……などとあいさつしています 土屋主悦ではないほうの隣については、何か記録が残っているのでしょうか。
- DIooggooID
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> 1.討ち入り当日は雪だったといわれています。草鞋に足袋?では、雪が > 沁みこんでつらかっただろうと思いますが、ひたすら我慢をしたので > しょうか。 関東地方の雪であれば、以外と大丈夫です。 雪の上を、素足で歩き始めて10分、15分あたりが、冷たさのピーク ですが、30分を過ぎるとあまり冷たさをあまり感じなくなります。 ※軽い凍傷といいますか、しもやけになりかけですが・・・。
補足
>2.…足元も草履ではなかった どんなものを履いていたのでしょうね? >4.…みんな寝ていたのでは・・・。 切り結ぶ音、気合い、走り回る音などなどで周囲の屋敷の人たちは 目を覚まさなかったのでしょうかね。 >5.…このような理由から、弓は使いづらかったのでは。 やはり刀が主だったのでしょうか?