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朝青龍が土俵上でガッツポーズをしたことについてどう思いますか?
私は、そのような本質的でないことについて問題にする方がおかしいと思います。今回も横綱審議委員の間でも賛否両論だそうです。 以前にも野球の試合でガッツポーズをして問題になったケースがありましたが、何が問題なのか全く理解できません。 どなたかわかるように説明して下さい。 このようなことを問題にするのは、いかにも日本的といえませんか?
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昔は大関が、一番強いランクだったらしいですよね。 そして横綱は、実力ナンバー1でなくとも、人格をも兼ね備えた人が選ばれたと。 しかし人格とは尺度として中々計りづらく、故に今のようになったと。 又、相撲は神の元で行われるモノであり、 勝利を与えてくれたのは最終的には神であると。 故ガッツポーズはイカン。礼儀・品行に障るものであると。 私の意見としては、従来の習わしに従い、 ガッツポーズは土俵の下でやってくれたらな、とは思います。 それが実質的には、儀式としての習わしに従うだけのものであったとしても、です。 我々が普段仏教徒でなくても、お葬式ではそんな習わしに従うのと同じです。 しかし同時に、朝青龍バッシングはおかしいとも感じています。 今回も思わずやっちゃったんでしょう。だから憎しみは感じませんでした。 直後に「しまった」という表情をしていたように、私には見えました。 当日中の自発的な謝罪インタビューもありましたし。 様々なことがありましたが、総じて悪気はないと思いますよ、この人には。 特に最近は反省をし、だんだん進歩していると思いますよ。 元々在来の儀礼だとか習わしに合わせていくとか、その辺りの能力に関しては やや劣る人なんですよ。運動能力や集中力や負けん気や努力には長けているのですが。 元々は他国の人なのですから。しかし他国の人でも、上手にできる人もいれば、ニガテな人もおり…。 大変極端なたとえで語弊があったら申し訳ないです。しかし悪意はありません。 なんだか例えば、発達障害の傾向がある人が、一般社会の中でいじめられているのにも似ていると。 バッシングを見ていると、そんな感じがして、痛々しく思うこともしばしばありました。 「心・技・体」、礼節、思いやり、リーダーシップ~ できれば全てがそこそこに揃っていて欲しいとは思います。 礼を知り且つ実践できている人こそ、スポーツの世界でもナンバーワンであって欲しいとは思います。 脱いだスリッパを真っ直ぐに置こうとしないのは、心がゆがんでいるからだ。 真っ直ぐに置こうとする心が練習にも繋がり、判断にも繋がり、 それ故実力でもナンバーワンだ。そういうことに欠く人は、実力ナンバーワンにはなれない…。 でも現実には必ずしもそうではないようです。 例えばマイク・タイソンなんて、もっとメチャクチャだったですよ(苦笑)。 今の相撲のシステムは、完全な実力主義です。 そして今回、朝青龍が実力ナンバーワンだったことは、紛れもない事実です。 そして彼をナンバーワンとするシステムは、彼が作ったのではない。既存のものでした。 審議委員がマワシ付けて土俵で彼と戦ったら、絶対負けます(苦笑)。 今彼は、いわゆる品行の類について、これを直そうと努力している最中だと思います。 そしてそうしながらも、有り余る闘争本能故か? 進捗状況は芳しくないようです。 しかし、もう少し長い目でみてあげるのが宜しいと思うのです。
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私は問題ないと思います。 例えば、いつぞのサッカー問題とか、巡業の時あまり土俵に顔を出さないとか、そういうニュースを聞いたときには、「横綱としての自覚が足りないな」と思います。 でも、優勝を決めた直後、極度の興奮状態にある人が、ついガッツポーズをしてしまっても、あれほど騒がれる必要は無いでしょう。ちゃんと冷静になってから反省もしているんですから。 私としては、そんなに品格品格と言うのなら、下にいる大勢の力士達の見本となるべき関取という地位にある高見盛関のパフォーマンス(本人曰く、パフォーマンスの意図は無いとのことですが、だったら朝青龍関のガッツポーズも一緒)も問題にされるべきだと思います。 相撲の神事という面より娯楽という面が強くなって、もう何百年も経ちます。相撲が儀式であるのなら、みんな同じ振る舞いをしなければいけませんが、娯楽なら、「ルールと最低限の常識だけは守って」あとは個性に任せればいいと思いますね。 その「最低限の常識」にガッツポーズをしないこと(その他、優勝インタビューの際の態度などなど)が含まれるかについてですが、つい1、2年ほど前までは含まれていなかったと思います。だから朝青龍関は多くの相撲ファンから本気で憎まれていました。 ところが、最近は、朝青龍関を憎んでいる人が確実に減ってきたように思います。朝青龍関は特例・・・と言えないこともないですが、世間は確実にああいうパフォーマンスを容認しつつあるのではないでしょうか。四本柱が撤廃されたとか、優勝カップ(賜杯)がもらえるようになったとか、そういう改革に比べれば些細なことかもしれませんが、朝青龍関は大相撲のスポーツ性・娯楽性を強めた一人の改革者だと思います。 今、力士がテレビ番組やCMに出ているとか、力士は寡黙でなくてはいけないから殊勲インタビューの際は「・・・そうっすね」としか答えてはいけないとか、そういうことで関取個人の人格を攻撃する人はかなり減ってきて、単なる好みの問題になりつつあります。今の横綱・大関が日本相撲協会の中枢を担うようになる頃には、「土俵上で"俺がチャンピオンだ!!"と叫ぶこと」なんてのが問題になっているんでしょうかね。
お礼
相撲が娯楽なら、「ルールと最低限の常識だけは守って」あとは個性に任せればいいとか、世間は確実にああいうパフォーマンスを容認しつつあるとか、朝青龍関は大相撲のスポーツ性・娯楽性を強めた一人の改革者だとか、のご意見に一々賛同出来ます。 どのような時代にも、伝統的な作法と新しい作法の間には、綱引きがあるのだと思います。 一方、だからといって何でも許される、というのではなく、そのイベントの草創の時期の精神に常に立ち返り、一定の規範や礼節はその基本線で守る、TPOを考えて、土俵上にいる間は少なくても、派手なパフォーマンスを差し控える、というわきまえ、めりはりは心がける必要があると思います。(これが先日会った合気道家から学んだことです。)
補足
大体、主なコメントが出尽くしたと思われますので、そろそろ質問を締切ります。実は、私の質問の内、これまでの最多回答質問(26個)を更新しました。 皆さん、本当に有難うございました。 さて、これから良回答を選びますが、どうしようかな? (10/8 台風のため休暇になったので、自宅にて)
- serina55
- ベストアンサー率39% (37/93)
他の文化、例えばフランス料理に当てはめると、 三ツ星レストランで「う....うめえ...!!」とか叫んじゃうようなもんかな(笑) 気持ちはわかるけど、そこは抑えるのがマナー。 生理的な衝動を抑えて型にはめようとするのは日本だけではなく、 貴族社会的、階級社会的な文化では共通です。 大衆的文化である野球とか串カツの場合、 ルールブックや、二度付け禁止とか、 共有できるルールさえ守れば楽しみ方は自由。
お礼
面白いたとえですね。 やはりTPOということでしょうか? >生理的な衝動を抑えて型にはめようとするのは日本だけではなく、 貴族社会的、階級社会的な文化では共通です。 ・・・なるほど。 その点、野球などの大衆文化の方が、楽しみ方に制約がなく気楽ですね。
優勝したので、してもおかしくないと思います。 相撲協会どうかしてます。
お礼
おっしゃっている意味は、「優勝したので、何をやっても許されるんじゃないか」という意味ではないですよね。 私は、「優勝したので思わず歓喜のあまりガッツポーズをした。」という意味に解しましたが・・・。
- tank3712
- ベストアンサー率0% (0/1)
私は、魁傑、輪島の頃からの大相撲ファンです。今回のガッツポーズは自然に出た行為であり、自身の喜びの表現として素直に見るべきだと思います。基本的には質問者と同感です。 国技である大相撲ですが、半数近くを占める外国人力士がいる環境の中で、協会も横審もオープンになるべきだと感じます。 イチローの意見が回答にありましたが、かっこいいですよね。人間的魅力いっぱいで大好きな選手です。
お礼
そうですね。人間として自然に出た行為にまでとやかく言うのは、やはり私は賛同できません。私も、協会や横審はもっとオープンになるべきだと感じます。イチローに関しては、確かにかっこいいのは事実ですね。
- mizunoe
- ベストアンサー率20% (71/351)
思うところがあったので、再度失礼します。 「神事や~道」か「スポーツ」かもそうであるが…。 それ以上に、日本文化には「和を以って尊しとなす」。この精神論に尽きると思います。 つまりは和の中で朱に交われば文句は言わず、宗教でも人種でもどんなものでも受け入れるが、そこから突出すると排除しようとする傾向があるという。 ご質問の趣旨は、こういうことだったのでしょうか? 私事では、成果を重視するより、高みを目指す過程や形の美に清々しさというか、凛とした美しさ感じます。千代の富士の四股には見惚れたほどです。 相手の立場を考え、自分の立場をわきまえ、調和を考え行動する日本文化の一つとして、後世に伝えて頂きたいと思いますが…。 No.21さんのイチローの話には同感です。自分の感覚が、腑に落ちました。有難うございます。
お礼
日本のこのような「和」の伝統は、非常に貴重なものだとはいうことは理解できますが、近年私はやや懐疑的です。
補足
(お礼の続きです。) ・・・しかし、神道や陰陽道や日本の伝統文化にも人一倍の関心も持ち合わせており、色々な価値観の交錯に自己矛盾をかかえている昨今でもあります。
- gogosmart
- ベストアンサー率60% (229/378)
話は違いますが、 今年のWBC決勝戦でイチローが決勝点となるセンター前ヒットを打ったときに、喜びの表情を全く顔に出さなかったのはとてもかっこ良かったと思います。 朝青龍もガッツポーズなどせずに、平然と勝ち名乗りを受けていればファンももっと増えた筈であろう、と30年来の大相撲ファンである私は思っております。
お礼
そのようなポーカーフェイスを好まない私としては、申し訳ありませんが、かっこよいとはちっとも思いません。 これは価値観の問題ですのでご容赦下さい。
補足
(お礼の続き) ごめんなさい。イチローが、やはりかっこいいのは認めます。さまになっているからいいのでしょうね。
相撲の歴史など難しいことはわかりませんが、 「道」としての所作を重んじて相撲競技を見るか、競技的な部分の評価がまずあって所作は付随するものと捉えるかというところで二分するのじゃないでしょうか。 自分は相撲に関してはやはり競技と所作を全て成し遂げてこそかと。なので土俵を降りるまでは個人的感情はおさえてほしいかな。 朝青龍が競技で半端なく強いのは明白のもとだしそれはほんとに素晴らしい。 「あるまじき行為だ!」と激昂するするほどでもないと思います。 ただ、例に挙げておられる野球試合でガッツポーズが問題になったは知りませんでした。日本的というか、これはちょっと変ですね。相撲とは勝手が違います。
お礼
おっしゃる通り、程度問題の所はあるでしょうね。 なお、「野球」と「ガッツポーズ」で検索すると、最近プロ野球ファンに対して実施した「高校球児の派手なガッツポーズについてどう思う?」というアンケートの結果が出てきますが、回答者の80%は肯定的なようですね。それでも昔、高校野球で問題になったことを私は覚えています。プロテニス試合でも松岡修三選手などが大試合に勝った時の喜び振りを覚えておられる方は多いと思います。 やはり、私は、人間の自然な感情を抑えることには、どこか無理を感じざるを得ません。まあ、大相撲は仕方がないとしても、それ以外のスポーツにまでは、あまり及ぼしてほしくないものです。
- tamiemon96
- ベストアンサー率49% (658/1341)
・理屈ではわかっていても、理屈を超えた緊張感で戦っていれば、無意識に出ますよ。 ・やわらちゃんのオリンピックでのガッツポーズは、みんなで讃えたのに、朝青龍かわいそうです。
お礼
理屈ではわかっていても、緊張感から解放された時には、無意識に出ると思いますし、それでこそ人間だと思います。 柔道では最早こんなことは気にしないのに、大相撲だけ、少々意固地な気もします。
- mizunoe
- ベストアンサー率20% (71/351)
どこから語ればよいのでしょうか? 神代の時代、相撲は神事であった辺りでしょうか?今では誰もそんなことを考えはしませんが、横綱が四股を踏むとその土地の霊力が高まるとか聞いたこともあります。 今は「品位」という言葉すら私語に近くなっていますが、横綱の品格というものですね。 日本の場合、武道もそうですが、スポーツでなく「~道」なんですよね。
お礼
大相撲は神代から存在する神事ですね。そこではあらゆる所作が神に対しての敬虔な礼拝を意味するものであったのでしょう。 「~道」のひとつという位置づけであり、ほかもスポーツとは全然違う重みがそこにあると思います。その基本精神はしっかり入門の時点で教育し、横綱にも最低限の手本は示してほしい、と思います。
- lions-123
- ベストアンサー率41% (4360/10497)
>朝青龍が土俵上でガッツポーズをしたことについてどう思いますか? ↓ 様式美を追求し、心技体の充実を期待する相撲道ファンには顰蹙モノでしょうね。 髷やまわし、仕切りや勝ち名乗りの手刀、土俵入りに、また口をすすぎ、塩を撒く由縁にもあるのだと思います。 しかし、外国人を採用、横綱誕生した今、実力主義と国際化&スポーツ化がどんどん価値感の変化を促進しているとも思います。 そこで、私の受け止め方としては、奨励する&美しい所作だとは思いませんが、自然な喜び表現の一環である場合は日頃の教育で教え、タイミングを見ての口頭注意や部屋別の稽古場での徹底と場所前の所作やモラル指導で行えば良い、ことさら騒ぎ・土俵以外でのバッシングは合理性・必然性・社会性の背景が無い場合には、日頃の生活指導を超えた要求や批判は→外人イジメ&差別に繋がり、賛同致しません。 ※古い比喩・引用ですが・・・私が教えられ感動したシーンで言えば「日露戦争での日本の武士道」と太平洋戦争における「傲慢・尊大な日本陸軍」の勝者での対応の差に見えます。 ◇水師営の会見 「乃木大将とステッセル将軍の旅順開城、敵味方・勝者敗者を超えた戦い済んでの両軍の勇戦敢闘への称え合い、子息の戦死への悼みに感動した」 ◇シンガポール攻略・無条件降伏を迫る山下将軍VSパーシバル将軍 交渉事、条件の攻防や駆け引きがあるとは言え、そこに勝者の傲慢さ・非情さを感じ惻隠の情・相手の尊厳への忖度・労わりが希薄なのは同胞として哀しく悼たまらない。 そこに余裕の無さ、大義の薄さ、人間性の衰退を感じます。 上記の引用は何が言いたいのかと言うと、死者に鞭打ち、溺れる敵には石をぶつける、徹底的に打ちのめし、逆襲の芽を摘む感性・価値感・DNAと死せば贖罪され神仏に還る、罪を憎んで人を憎まず、ノーサイドの精神を希求・共感して来た私達の国民性・求道精神が勝者の敗者への対応に現れ、我が国と敵国での受け止め方が乖離しているのだから・・・ 相撲や朝青龍のガッツポーズに話を戻すと→単なる、押し付けや儀礼としてではなく、日本文化・相撲道・日本のスポーツ観として、入門の時から→日本人力士も含め、相撲に関わる者が全員で守る様式美・気風・エチケットとしなければ根本解決&再発防止は難しいと考えます。 見た目・外観は日本人・相撲取りと変わらないかもしれないが、中身は心の中はメイドインモンゴルなんだから・・・ 観客も横綱審議会も親方衆も同じ日本人が大同小異で批判したり、弁護してるが、彼らには違う価値感・感性・国民性も残っていると思います。 本音で、他の外国人力士(力士会って無いのだろうか)の言い分や意見をもっと取り入れていかねば、彼らに依存し、番付も取り組みも大きく依存している現実を直視しなければ不公平で時代と国際化に背を向けることとなる。 分り易く基本精神&精神風土やルーツとして、全力士に仕込み指導して行かねば、横綱だから、外人力士は・・で異議・批判は、ダブルスタンダードであり、何故という疑問や俺だけにという不信&猜疑心を生むのではないだろうか? それでは、心からの反省や同意納得を齎さないであろう。 余談ですが・・・ 〔個人的には、スポーツ界全体で、全力プレーと敢闘後の相互の健闘への尊敬とねぎらいの対応が→見る者をして、全力プレーへの拍手喝さい、勝負の決着後で爽やかに美しく感動させると思います)
お礼
今日は10/1です。お礼が遅くなりすみません。 さて、念の入ったご回答恐れ入ります。 日露戦争や太平洋戦争での逸話まで飛び出し、正直驚きました。 しかし、おっしゃっていることには一々賛同出来ることばかりです。 日本文化に見られる「礼節」などの基本精神について、大相撲への入門当時から、日本人、外国人を問わず、わかりやすく説明し、一応の納得を得ておくのは当然だと思います。大相撲の所作の中でこれだけは全員に守ってほしい部分については、エチケットとして理解を求める努力は必要だと思います。しかし、土俵を下りた後などには人間的な感情が出てくるのは自然であり、そこは大目に見るのが、賢明だと考えます。個人的にどうしても賛同出来ないこと(信条、信念に属すること)は誰にでもあり、そこの部分に対する押し付けは禁物だと考えます。
お礼
朝青竜が、協会の注意に対して聞く耳を持ち、自己を改善しようとしていながら、仲々改善できない「不器用さ」を持っていることは、よくわかります。 相撲の強さだけではなく、「心・技・体」、礼節、思いやり、リーダーシップ・・・など全てが揃って、はじめて本当の「横綱」といえる、という考え方にも一応の理解は出来ます。 しかし一方、相撲をスポーツとして見た場合、やはりあなたのおっしゃる通り、完全な実力主義であるべきであり、「強さ」が一番優先されるのではないかと考えます。(仮に「神事」とか「~道」の一種だと規定しても、スポーツ的要素を全く取り除くことは出来ないと思います。)そこに、「心・技・体」とか、礼節とか、脱いだスリッパを真っ直ぐに置かなければならない、といったルールを過度に持ち込んだり、そちらの方を「強さ」以上に優先するのは、本末転倒なような気もします。はっきりいって、脱いだスリッパを真っ直ぐに置くことがそんなに大切でしょうか? 既存の規則や規範に対して反抗的な私の今の性格は、元々、物を並べる時にはまっすぐに、一点一角も違えずに、並べることにこだわった祖父への生理的反発から来ています。私は、物を置く時には、わざと不揃いに、雑然と、曲げて置くことを好みます。そこに既存の常識などではなく、思わぬアイディアや発想が沸く可能性をさぐることが、私は好きですが、きっと他人からはへそまがりと思われていることでしょう。 いずれにしても、杓子定規に考えず、朝青竜の行動に暖かい一定の理解を示しているあなたの回答には好感をもちました。 少々のことには寛容で、余裕をもった態度を示すことは、国際化を目指している以上必須だと思います。 さて、これまでのお礼で、私は国技でのガッツポーズを全面的に容認しているように見えますが、どっこいそうではないのです。 つまり、どちらの言い分にも理解が出来るのです。 国技や「~道」が、礼節を重んじているので、その気風に従うべき、と強く主張されたい皆さんも是非、引き続き持論を展開して下さい。 実は、昨日今回の話題につき、合気道の先生とお話しし、そちらの方向に私自身傾きつつあるのです。詳しくは、そのようなご回答があったら、そのお礼の中で述べたく思います。
補足
お礼文での私の前言を訂正します。 私は玄関やトイレに入る時など、必ず自分と他の人のスリッパをそろえることにしています。これは最低のマナーのひとつと信じます。 ただ、厳密にまっすぐになっているかまでは気にしません。私の祖父は過度に「まっすぐ」を気にしていましたので、少々反発を感じたものです。