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朝青龍が土俵上でガッツポーズをしたことについてどう思いますか?

私は、そのような本質的でないことについて問題にする方がおかしいと思います。今回も横綱審議委員の間でも賛否両論だそうです。 以前にも野球の試合でガッツポーズをして問題になったケースがありましたが、何が問題なのか全く理解できません。 どなたかわかるように説明して下さい。 このようなことを問題にするのは、いかにも日本的といえませんか?

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  • youchan37
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回答No.25

昔は大関が、一番強いランクだったらしいですよね。 そして横綱は、実力ナンバー1でなくとも、人格をも兼ね備えた人が選ばれたと。 しかし人格とは尺度として中々計りづらく、故に今のようになったと。 又、相撲は神の元で行われるモノであり、 勝利を与えてくれたのは最終的には神であると。 故ガッツポーズはイカン。礼儀・品行に障るものであると。 私の意見としては、従来の習わしに従い、 ガッツポーズは土俵の下でやってくれたらな、とは思います。 それが実質的には、儀式としての習わしに従うだけのものであったとしても、です。 我々が普段仏教徒でなくても、お葬式ではそんな習わしに従うのと同じです。 しかし同時に、朝青龍バッシングはおかしいとも感じています。 今回も思わずやっちゃったんでしょう。だから憎しみは感じませんでした。 直後に「しまった」という表情をしていたように、私には見えました。 当日中の自発的な謝罪インタビューもありましたし。 様々なことがありましたが、総じて悪気はないと思いますよ、この人には。 特に最近は反省をし、だんだん進歩していると思いますよ。 元々在来の儀礼だとか習わしに合わせていくとか、その辺りの能力に関しては やや劣る人なんですよ。運動能力や集中力や負けん気や努力には長けているのですが。 元々は他国の人なのですから。しかし他国の人でも、上手にできる人もいれば、ニガテな人もおり…。 大変極端なたとえで語弊があったら申し訳ないです。しかし悪意はありません。 なんだか例えば、発達障害の傾向がある人が、一般社会の中でいじめられているのにも似ていると。 バッシングを見ていると、そんな感じがして、痛々しく思うこともしばしばありました。 「心・技・体」、礼節、思いやり、リーダーシップ~  できれば全てがそこそこに揃っていて欲しいとは思います。 礼を知り且つ実践できている人こそ、スポーツの世界でもナンバーワンであって欲しいとは思います。 脱いだスリッパを真っ直ぐに置こうとしないのは、心がゆがんでいるからだ。 真っ直ぐに置こうとする心が練習にも繋がり、判断にも繋がり、 それ故実力でもナンバーワンだ。そういうことに欠く人は、実力ナンバーワンにはなれない…。 でも現実には必ずしもそうではないようです。 例えばマイク・タイソンなんて、もっとメチャクチャだったですよ(苦笑)。 今の相撲のシステムは、完全な実力主義です。 そして今回、朝青龍が実力ナンバーワンだったことは、紛れもない事実です。 そして彼をナンバーワンとするシステムは、彼が作ったのではない。既存のものでした。 審議委員がマワシ付けて土俵で彼と戦ったら、絶対負けます(苦笑)。 今彼は、いわゆる品行の類について、これを直そうと努力している最中だと思います。 そしてそうしながらも、有り余る闘争本能故か? 進捗状況は芳しくないようです。 しかし、もう少し長い目でみてあげるのが宜しいと思うのです。

oozora2000
質問者

お礼

朝青竜が、協会の注意に対して聞く耳を持ち、自己を改善しようとしていながら、仲々改善できない「不器用さ」を持っていることは、よくわかります。 相撲の強さだけではなく、「心・技・体」、礼節、思いやり、リーダーシップ・・・など全てが揃って、はじめて本当の「横綱」といえる、という考え方にも一応の理解は出来ます。 しかし一方、相撲をスポーツとして見た場合、やはりあなたのおっしゃる通り、完全な実力主義であるべきであり、「強さ」が一番優先されるのではないかと考えます。(仮に「神事」とか「~道」の一種だと規定しても、スポーツ的要素を全く取り除くことは出来ないと思います。)そこに、「心・技・体」とか、礼節とか、脱いだスリッパを真っ直ぐに置かなければならない、といったルールを過度に持ち込んだり、そちらの方を「強さ」以上に優先するのは、本末転倒なような気もします。はっきりいって、脱いだスリッパを真っ直ぐに置くことがそんなに大切でしょうか? 既存の規則や規範に対して反抗的な私の今の性格は、元々、物を並べる時にはまっすぐに、一点一角も違えずに、並べることにこだわった祖父への生理的反発から来ています。私は、物を置く時には、わざと不揃いに、雑然と、曲げて置くことを好みます。そこに既存の常識などではなく、思わぬアイディアや発想が沸く可能性をさぐることが、私は好きですが、きっと他人からはへそまがりと思われていることでしょう。 いずれにしても、杓子定規に考えず、朝青竜の行動に暖かい一定の理解を示しているあなたの回答には好感をもちました。 少々のことには寛容で、余裕をもった態度を示すことは、国際化を目指している以上必須だと思います。 さて、これまでのお礼で、私は国技でのガッツポーズを全面的に容認しているように見えますが、どっこいそうではないのです。 つまり、どちらの言い分にも理解が出来るのです。 国技や「~道」が、礼節を重んじているので、その気風に従うべき、と強く主張されたい皆さんも是非、引き続き持論を展開して下さい。 実は、昨日今回の話題につき、合気道の先生とお話しし、そちらの方向に私自身傾きつつあるのです。詳しくは、そのようなご回答があったら、そのお礼の中で述べたく思います。

oozora2000
質問者

補足

お礼文での私の前言を訂正します。 私は玄関やトイレに入る時など、必ず自分と他の人のスリッパをそろえることにしています。これは最低のマナーのひとつと信じます。 ただ、厳密にまっすぐになっているかまでは気にしません。私の祖父は過度に「まっすぐ」を気にしていましたので、少々反発を感じたものです。

その他の回答 (26)

  • QES
  • ベストアンサー率29% (758/2561)
回答No.6

大リーグでも、相手チームを侮辱するようなポーズをとると次の打席で球をぶつけられることがあるそうです。 そういう意味で、相手の目の前で露骨なポーズを取ることは感心しません。 以前から朝青龍は相手を倒した直後、相手の目の前で自慢するようにガッツポーズをとっており注意をうけていました。 ところで今回の朝青龍のガッツポーズですが、白鵬を倒した直後でなく、白鳳が土俵を降りた後に両手を挙げたものであり、またその日が29歳の誕生日だったこともあります。 このため白鵬や白鵬のファンが見ていても不愉快に感じるガッツポーズではありませんでした。

oozora2000
質問者

お礼

今回の朝青龍のガッツポーズが、白鵬を倒した直後でなく、白鵬が土俵を降りた後に両手を挙げたものであり、またその日が29歳の誕生日だったと言うことなら別にいいんじゃないかと思います。 そのようなことを問題にするのは、朝青竜に対するいじめではないでしょうか?もっと他に議論することはいくらでもあるのではないでしょうか?

回答No.5

こんばんは。(*^。^*) 私個人的には、現在の若者らしくてとても好感が持てます。 「品行に欠ける」と指摘する方も多数おられるようですが、 何を基準に品行方正なのか、そうでないのかと思ってしまいます。 ガッツポーズという姿勢が無かった時代なら、 直立不動の姿勢をするしか無いでしょう。 その姿勢が品行方正であるかのように思われているのですね。 私としては、時代と共にその辺も変わって良いと思います。 そのときそのときに柔軟に対応出来ない人は、 「品行に欠ける」と捉えるのでしょう。 私は決して若くはないですが、ガッツポーズは好感が持てます。 現在の喜びを表すときの標準的な姿勢だと捉えています。 参考までに申し上げました。(*^^)v

oozora2000
質問者

お礼

有難うございます。 確かに「品行に欠ける」と言われても具体性を欠きますね。 武士道華やかなりし頃には、ガッツポーズというものがなかったので、その頃もしかして認められていたら、今でも認められていたでしょうね。 私は、嬉しい時は喜び、悲しい時は悲しみを表現することが人間らしい行いだと信じている人間なので、喜びを抑える、というのはどうも理解ができにくいのです。

  • yuyuyunn
  • ベストアンサー率41% (20359/48650)
回答No.4

こんばんは でも以前にも怒られているのですから 普通はやらないともいます 横綱としての意識が足りないんだと思います http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1115713671

oozora2000
質問者

お礼

挙げて頂いたYahooの過去問へのベストアンサーに、 「嬉しい感情さえも外には現さずに自己に内包する強い精神力と思いやりと驕らない気持ちこそ武道精神の一つなのです。」とありますね。 確かに、喜怒哀楽の表現を抑え、物事に動じない平常心を養うには、いつも安定した、泰然自若とした平和な心の状態を作ることが大切なのだと思います。 国技としての大相撲を考える時、やはりそうした礼節や作法は、引き継いでいかなければならないかもしれませんね。

  • localtombi
  • ベストアンサー率24% (2911/11790)
回答No.3

この件でいつも思い出すのは「剣道」です。 確か、大会でガッツポーズをした選手が失格したことがありました。 日本古来の武道では礼節を重んじる風潮があります。 剣道で言えば、自分が勝ったのは、自分と同じ気持ちで修行してきた相手に対する尊敬と、互いに力を出し切って戦った相手に対する感謝の気持ちを表す意味で、禁止されているそうです。 武士が闘って、相手を負かし、相手が死にそうになっている時に万歳をするのは武士道にもとるという、根本的な思想があります。 相撲も似たようなことかも知れませんが、私もいささか荒唐無稽のような気がします。 そういう精神論で語っていては、カビ臭い感じがします。

oozora2000
質問者

お礼

有難うございます。 申し遅れましたが、私は日本の伝統や歴史を尊重している(と自分では思っている)一方、英米文化にも触れてきた50代男性です。 確かに、日本古来の武道や華道、茶道、香道など「道」のつく芸事では礼節を重んじる風潮がありますね。 なるほど、確かに、相手が死にそうになっている時に万歳をするのは武士道にもとるというのはわかります。 日本がサッカーでアウェイの試合をした時など、国によっては、敵である日本がエラーをした時拍手喝采をする国もあると思いますが、日本のファンにはそのようなことは少なく、一定の礼節を守っているように感じられます。ラグビーも「紳士のスポーツ」と言われている通り、シア試合が終われば、ノーサイドといって、敵味方関係なく親交を暖め合います。 しかし、自分自身がナイスプレイをしたり、勝ったりした時、単純に喜ぶことがなぜ、相手に対して礼節を損なうことになるのでしょうか? そのような考え方は、カビ臭いのではないでしょうか?

回答No.2

いいとか悪いとかというよりも、美しくないですね。 日本人の美学に反する、みっともない行為です。 せめて横綱たるもの、身体に故障があっても隠し、 勝負で勝っても負けても泰然自若としている 気高さがほしいです。 賛否両論あるということは、半数の人が不愉快に思っているのだから やめるべきです。 これは、単なるスポーツではなく日本の国技である 相撲道の精神にかかわることで、本質的な問題だと 考えます。

oozora2000
質問者

お礼

有難うございます。 私は、全ての価値観の中で「美」つまり「行動美学」を最も重んじます。確かに日本人の行動美学の中で、「奥床しさ」とか第一人者の持つべき「気高さ」や「誇り」が重要な位置を占めているようですね。新渡戸稲造の「武士道」でも描かれている通り、日本人のこうした気高い精神性は、たとえ世界の一般認識とは多少ずれがあったとしても、重んじられて然るべきだと思います。国技である大相撲では、そうした日本人の精神性が体現されることは、基本的に正しいことだと思います。 ところで、これはどこまで行っても平行線だと思いますが、 (1)強い者でも弱くなることがあり、それが人間だと思うのですが、強い者は一生弱みを見せてはいけないのでしょうか? 24時間365日泰然自若としていなければならないのでしょうか? (2)賛否両論あるということは、半数の人が不愉快に思っているのだからやめるべき・・・なのでしょうか? 逆に言えば、残りの半分は、そう思っていないと思いますので、やめるべきという結論にはならないと思いますが・・・。

  • seturi3
  • ベストアンサー率18% (6/32)
回答No.1

同感です。 しかし、日本は奥ゆかしさが重んじられるお国柄。 喜びを派手に表現するのは、はしたない・・と なるようで。 粋と野暮っていうのかな。 自分が良い思いをしたことを、素直に表すのは 自慢げでいけ好かない的な感じでしょうか・・・・。 鎖国開放以来、西洋文化をじゃんじゃん取り入れているにも かかわらず、精神は大昔のまま。 ほんなら、外国人力士を入門させるなよ!!!!

oozora2000
質問者

お礼

早速ご回答頂き、有難うございました。 人間として、喜びを派手に表現するのは当たり前だと思います。 例えば、賞の受賞スピーチなどでも、自分の功績は置いておいて、皆さまのおかげだとか、所属チーム全員がもらうべきものを代表してもらっただけだといったことを強調するのが一般的なようですね。それはそれでいいですが、自分の嬉しい、という感情をなぜ素直に表してはいけないのでしょうか?

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