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使命感と責任
社会に認められて、人に頼られ、家族が裕福に暮らせるようにしたい。 という自分の強大な使命感?目的達成意欲に引っ張りまわされ、 足元や自分の精神すら満足にコントロールできてない平社員です。 親は銀行員のような強力な責任感があり、自分の現実を見つめ、高望みはしない、という信念を持っています。他人は信じるな。疑え。家族だけを信じる。 すばらしいと思います。ただ、私には理想を追い求めても、人間は現実を必ず見つめられる!という強い信念があります。 親は、目の前に障害があっても避けていけば安全で平坦な道が続くし、壁を壊すのは自分ではない。自分の家族を守るため、自分は安全で安定してなければならない。といいます。 それは、私には目の前に映る障害に目を背けて、自分の家族を言い訳にして逃げてるように心のどこかで感じてなりません。 前に進むことをやめたくはないのです。わたしは努力を続けて能力さえ上がれば、必ず家族は幸せにできる。と信じて闘っています。 わたしは勘違いをしているんでしょうか。 確かに自分でも少し目的達成意欲は高すぎ感があり、親に言わせると完璧主義らしいです。わたしは使命感が強すぎて、責任感が負けてしまっているのでしょうか。 親の言うことも正しいような気もしないでもないです。 世帯主の責任とはそういうものの気もします。 皆様はどうお考えですか。
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まず貴方のご両親は立派な方だと思います。 私もご両親と同じ考え方の持ち主であり、家族以外の人は親友を除いて信じていません。これは社会で家族を守る最良の方法だと考えています。そして、娘と配偶者の為、自分のやりたかった事を犠牲にし、そこそこ安定し幸せを感じる日々を送っています。 ただ、貴方の考えも正論であり、これは人それぞれの価値観の違いでしか説明出来ません。 目的達成意欲が高い人にしか人並み以上の収入、成功は得られない事は事実です。もちろん社会的な意味だけで無く、人生においての向上も望めず、意欲の低い人は何のために生きているのかを考えることも無く、生涯を終えるでしょう。 ご両親は家族の幸せを第一、貴方も家族の幸せをもちろん願っていると思いますが、それプラス自己実現を願っている、ただ、そこにリスクがあるのであれば、自分を信じるか、家族を安定的に守るかの価値観の違いです。使命感・責任感が強い・弱いというのは他人からみた判断基準でしかありません。 最終的にはご自身の価値観を見つめ直し、他人の意見は参考程度にし、ご自身で判断下すことが重要だと考えます。(そのスタンスをしっかりしていないと、人のせいにする人間となります。)
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- dai-ym
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まずは銀行員が責任感があるのでしょうか? 個人的に責任感がある銀行員の方もいますが、責任感などかけらもない銀行員もいますよ。 他人と家族の境界線は何? 歴史を見ればわかりますが身内ほど良く裏切り対立するものです。 逆に深い中になった他人の方が裏切らないことも多くあります。 他人を無条件に信じることも良くないですが、他人をいつまでも疑い続けることも良くない。 疑うことも信用することも出来なきゃ駄目ですよ。 目の前の障害も迂回路がなかったり、迂回路の方が障害を乗り越えるより危険なことは山のようにあります。 守りたい人々のために自分が壁を怖さな行きゃいけないこともある。 失礼ですが逃げているだけの人は、何かを手に入れた気になっているだけで、実際は幻でしかなく何も手に入れてないことが圧倒的に多いです。 yuki0826さんが感じているとおり逃げているものの良いわけでしかないですよ。 (yuki0826さんのお父様に対してそんなことを言うのはかなり失礼ですが・・・) 努力は必ず報われるわけでは無いです。 間違った方向に努力をすれば余計に悪くなるし、正しい努力をしていても報われないことも多々あります。 しかし報われるためには努力は欠かせない条件です。 努力をすれば必ず家族が幸せにできるわけじゃないけど、家族を本当に幸せにしたければ努力は欠かせないんです。 >確かに自分でも少し目的達成意欲は高すぎ感があり、親に言わせると完璧主義らしいです。 もしかして自分の最終的な目標しか見つめてませんか。 そしてその最終的な目標をすぐに現実化しようとしていませんか? 最終的目標とは電車で言えば終点の駅です。 当然途中にいくつもの駅に止まりますよね。 それと同じで最終目標を見据えながら、そこにつながる次の駅を見て進んで行く。 ちゃんと短期的な目標を見据えないと最終地点には到達できないですよ。 逃げてばっかもいけませんが、目の前を見てないのもいけませんよ。
お礼
おかげでまた少し自分の思考が見えました。 わたしには、「他人を信じる」という言葉に、「他人の意見・行為をそのまま受け取る」ことは含まれません。そして、それを違えても「他人は信じるものと言えます。」 そんな感じで人は「見える範囲で決断していく者」と考えます。 家族の最優先に守ることと他人を信じることが必ずしも正反対ではないと考えます。 ただ、「自分を信じるか、家族を安定的に守るかの価値観の違いです。」 ここも、私はこう考えます。 自分を信じる=家族を信じる 自分の家族をも否定しているような感覚を受けます。 自分の家族はこの社会には耐えられない。 という。 わたしはそれでは、自己満足に見えるのです。 あなたが突然いなくなったら家族はどうすればいいんですか? 抗う力もすべてあなたが守りに徹しすぎると子供どう育ちますか? 私にはそういう風な答えが見えています。 どうでしょうか。