No.22ですが、追加で回答させて頂きます。
基本的に差別と区別をごっちゃにして考えているように感じます。
私が話していたのは、肌の色がどうだとか、どこの出身だとか、背が高い、低いだとか、顔がキレイだ、不細工だというように、その人の努力によっては、どうにもならないようなことに対して攻撃を加え、優越感を味わうような行為を差別といい、自分の頑張り次第でどうとでもなるようなことに対して(例えば、勉強やスポーツもそうでしょうし、仕事などもそうでしょう)、上下関係を付けるようなことは、区別として認められるということです。
勿論、我々は、ある特定の国家、コミュニティにおいて生活を行っているわけですから、その中における秩序維持や権利保護などのために、特定のルールを設けて然るべき区別をしていくことも必要となります。
例えば、何らかの罪を犯した人は、罪人として区別する必要があるわけですし、日本人と非日本人とでは、義務や権利も違うわけですから、その辺も区別して考える必要があります。
この区別がというものが、合理的、論理的に考えても納得感の得られないものとなっている場合には、それが区別ではなく、時として差別として追及されることもあるんだと思います。
その意味では、差別と区別については、こういう言い方もできるかと思います。
合理的、論理的に考えても納得感の得られる区別であれば、それは区別として認識できる。
しかし、その逆に合理的、論理的に考えても納得感の得られない区別となってしまった場合には、差別となってしまうことが出てくる。
尚、その事象が、合理的、論理的に納得感の得られることなのか否かというのは、多数の人達が持っている常識的な見地、感覚からみてどうなのかということもあれば、他国との比較対照でみてどうなのかというようなこともあると思います。(日本は民主主義国家、法治国家なので、その判断が難しいような場合は、最終的には、裁判や政治判断となることもあるのが実情でしょう)
家族愛や友情についてですが、これらを差別の概念で捉えるとそういったことがいえるでしょうけど、家族愛や友情は、差別とは違うと思います。
家族愛や友情というのは、家族や友達を他の方と分けて考えている区別であって、それを他者に対する差別という概念で捉えるのはあまりに無理があるでしょう。
家族は家族であるが故の接し方や距離感、愛情というものがあり、友達の場合もこれと同様だと思います。
こういった接し方や距離感、愛情を家族でも友達でもない他人に対して同じように抱くこと自体無理なことでしょうしまた、おかしなことになってしまうのではないでしょうか?
自分の奥さんや子供に対しては、誰しも無償の愛を注ぐものですが、それを他人に対しても同じように注ぐということができるものなんでしょうか?
また、同じような無償の愛を注がなかったら、それは他人を差別しているということになるのでしょうか?
少なくとも、私は、こういった家族や友達と他人とを区別することは、合理的、論理的に考えて十分納得感の得られる区別の範疇に入ると思います。
また、外国人の指紋の押捺・提出や地方参政権付与などに関しても、日本国民と外国人とを区別して管理したり権利の付与をすべきものなので、これらに関しても単純に差別という概念で捉えるのは基本的に間違っていると思います。
但し、この問題に関しては、単に日本国内での問題として捉えていくことができないのも確かです。
何故なら、ご存知の通り、日本は先進国の一国として国際社会の仲間入りをしている国際的にみても非常に影響力の大きな国であり、国際的な視点から様々な問題を捉えていかねばならない立場にもあるからです。
そのため、当問題についても、他国における外国人の扱われ方や権利などとも照らし合わせた上で慎重に考えていく必要があるのは間違いないでしょう。実際、海外で生活している日本人も非常に多いわけですしね。
でないと、"区別"ではなく"差別"として国内外から見られてしまうこともあるでしょう。(日本人が海外で生活する場合には、これこれこういった扱いや権利が保証されているのに、外国人が日本で生活するときには、同様の権利や扱いを受けることができないとなった場合には、少なくとも外国人からしたら区別ではなく差別として捉えられてしまうこともあるでしょうから)
結果的には、上記観点で捉えたとき、"差別"に該当すると判断されたんだと思われますが・・・
以上が、私の考えですが、先述した通り、差別と区別の違いは、その事象が合理的、論理的にみたとき納得感の得られることなのか否かということになると思います。
当然そこには、個々の良識や見識、常識といったようなものが大きく絡んでくることにはなるため、明確な境界線、線引きというのはできないでしょう。
お礼
>>基本的に差別と区別をごっちゃにして考えているように感じます。 モデル業や技能界には容姿の差別が往々にしてあり、プロスポーツでは出身地が重要なファクターだったりする。 極論や腐肉が言いたいわけではなくて、基本的に差別問題は、何と何を区別したかより、どう取り扱ったかに主眼を置くべきだと思っています。 >>接し方や距離感、愛情を家族でも友達でもない他人に対して同じように抱くこと自体無理なことでしょうしまた、おかしなことになってしまうのではないでしょうか? 国籍や出身は、愛国心や同胞愛は、家族愛や友情の代わりにならないのでしょうか? >>外国人の指紋の押捺・提出や地方参政権付与など、 >>この問題に関しては、単に日本国内での問題として捉えていくことができないのも確かです。 何とか団体レベルなら兎も角、欧米諸国が、日本の差別問題に介入した警告したという話は訊いた事がありません。 無知なだけかもしれませんが、実際はどうなんでしょうか? 日本人だけが敏感になり過ぎてるような、一人相撲になってるような気がしてならない。 近隣国と軋轢を抱えてる日本国の事情は、国際世論には通用しないものなんですかね。 http://anond.hatelabo.jp/20090420014751(スウェーデン人による日本人への差別意識) 何とか団体の主張は、これに近いような気がします。日本の事をを対等に見ているとは、ちょっと思えないないです。 >>差別と区別の違いは、その事象が合理的、論理的にみたとき納得感の得られることなのか否かということになると思います。 >>当然そこには、個々の良識や見識、常識といったようなものが大きく絡んでくることにはなるため、明確な境界線、線引きというのはできないでしょう。 模範回答です。異論を挿む余地がありません。 MOinTKYさんの回答は、とても読みやすく理解しやすかったです。ありがとうございました。