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満たされてない人ほど自己主張が強い気がする

 バイト先の人間関係を見てると  なんだか容姿・環境・学歴に恵まれてないタイプの人ほど、人を見下そうと必死に自己主張をしているような気がします    容姿・環境・学歴が恵まれてる人は他人に押し付けがましくなく、人を素直に受け入れているような気がします    私の環境がたまたまなんでしょうか?  それともコンプレックスは人格を悪くするのは世の常なんでしょうか?

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noname#89603
noname#89603
回答No.13

>容姿・環境・学歴が恵まれてる人は他人に押し付けがましくなく、人を素直に受け入れているような気がします >私の環境がたまたまなんでしょうか?  確かにその様な傾向は一般にあるでしょうね。 とりわけ、環境が良いというのがポイントが高いと思います。 例え、容姿や学歴で妬まれようとも、良い環境に育った人は感謝する心が育っているから、例え貶めるようなことを言われても、寛容さがあることでしょう。 そして、少なくとも学歴以外は自分の努力とは直接結びつかないと認識しているのではないでしょうか。生まれつき勘が良かったりすると、学力さえ自分の努力の賜物とは思わないかもしれません。 天から与えられた物だと思えば、奢ったりする様な性格にはなり難いでしょうね。 そして、その様な人は、執着心が薄いのだと思います。 執着心の薄い人は、他者に寛容だし謙虚な性格になるものだと思います(話がそれてしまいますが、その様な人はあっさりと死を選ぶこともあるでしょうね。執着心がないのだから)。 >なんだか容姿・環境・学歴に恵まれてないタイプの人ほど、人を見下そうと必死に自己主張をしているような気がします この中でも、何一つ持っていないと感じている人は、人を見下そうと必死に自己主張とはなりにくいのではないかと思います。 自己嫌悪や自己憐憫、卑下する感情を強く持ってしまいがちなのではないかと思うのです。 言い換えれば、その様な負の感情でもって、攻撃を自分に向けてしまう傾向を持ちやすいのだと思います。そして、人を恐れて目立たないように、傷つけられないようにと必死になって、自分の存在を消すことに終始しがちになるのではないでしょうか。自分で自分を貶めて、人に心を閉ざしてしまう人は多いと思います。 しかし、そのことに疲れ果てると、一気に攻撃の矛先が他者に向かうことはありえます。その極端な例が、無差別殺人犯の中に見られると思います。 人の命を代償とした最悪な自己主張です。 自分には何もないと思うと、人を使って自分を表現する人も中にはいるのだと思います。虚しい行為ですね。 また、容姿・環境・学歴の中で、例えば環境だけに恵まれなかったと感じている人は、自分は本来なら、もっと愛されて、より良い人生を歩んでいたはずだなどという思い込みを持つこともあると思います。そして、環境が悪かったが故に、学問の才はあったのに、初志を貫徹出来なかった、学業を全うし得なかったと感じている場合は、他人や社会に厳しい人になりがちなのではないかと思います。 容姿に恵まれなくとも、良い環境に育っていれば、感謝する心は持ち合わせているので、やはり他者に配慮する心も持ち合わせている人は多いと思います。しかし、環境(金銭的なものよりも親子関係)にも恵まれず、自分には学歴しかないと感じていると、それに執着し、学歴を縦に人を見下したり攻撃したりするのではないでしょうか。 やはり、環境が悪い中で育った人は、人を怨む気持ちが強く、許すという気持ちが育ちにくいのだと思います。 自分はもっと愛されるべきだと、自分を守るために攻撃的な性格に成りやすいのでしょう。 肥大した自己愛を持った人は、思いやりを無くしやすく、自分自身のことは省みない傾向にあると思います。 >コンプレックスは人格を悪くするのは世の常なんでしょうか? 例え、容姿・環境・学歴の何一つ恵まれなかったとしても、自分自身が今ここにあることが、自分一人の力ではなくて、小さな善意や幸運の積み重ねによって支えられてのことだと気が付き、感謝することの出来た人は、他者に寛容になれるのだと思います。 コンプレックスを持っていても、感受性が豊かならば、受け取った優しさを自分の中で充分に育てて、人にも注ぐことは可能だと考えるからです。 感受性が豊かな分、傷つくことは多くとも、受け取った善意や愛情を大切に出来ると思うのです。 それらの大切さを実感出来る感性を持っていれば、コンプレックスの無い人よりも、より深い感謝の念を持つことが可能だと思います。寧ろ、苦しみを多く味わった分、優しさの大切さを身に染みて感じていると人に優しくなれるし、成長する機会を多く持っているとも言えるのではないかと思うのです。 結局は、視野をどれだけ広げることが出来るのかと言うことです。 傷つけられたとその事にばかり拘らずに、自分が受け取った良い感情を育むことが出来る人、小さな愛情を大きな物と感じられる人は、コンプレックスをバネに前進できるのだと思います。

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  • dell_OK
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回答No.12

質問者様の環境がたまたまであるし、世の常でもある。

  • youchan37
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回答No.11

>なんだか容姿・環境・学歴に恵まれてないタイプの人ほど、人を見下そうと必死に自己主張をしているような気がします >容姿・環境・学歴が恵まれてる人は他人に押し付けがましくなく、人を素直に受け入れているような気がします そういう傾向がないと言えば嘘になりましょう。 しかし。後者はまず、自分を受け入れるのが楽なのです。たまたま背負ったマイナスのものが少なかったのです。 自分を受け入れているからこそ、他人のことも受け入れられます。 前者は、自分を受け入れるのは大変です。 しかし。前者が自分のことを受け入れることさえできれば、後者よりも遥かに「強くて優しい人」になれるはずです。 >コンプレックスは人格を悪くするのは世の常なんでしょうか? 端的に言えば、まさしくその通りだと思います。 「自己蔑視は、愛する能力を奪う (カレン・ホルナイ)」 加藤 諦三さんが、よく著書において、この言葉を引用されます。 コンプレックス、劣等感、自己嫌悪、自己卑下、自己蔑視… 同じような意味でしょう。 「自分には人に比べて劣るところがある。そしてこれを自覚している」 これだけなら良いのです。時にこれは、今後改善していこうという努力目標にもなる。 或いは又、決して改善できない質のものかも知れません。いずれにせよ人より劣るという自覚がある。 そしてこれは、ある特定の部分が、ということです。誰にでも長所も短所もあります。 一つの短所を全人格的な欠点と考えるのは、例えば森田療法では「部分的欠陥の絶対視」と云います。 或いは間違った完全主義、オール・オア・ナッシングに基づく捉え方とも言えます。 ですからもっと正確に言いましょう。 「自分は人に比べ、ある部分が劣っている。そしてこれを自覚している」~これだけで違うはずです。 一番大切なのは、この自分、人に比べてある部分が劣っているこの自分を、自分が受け入れているか否かです。 自分を受け入れるためには、自分を愛せなくてはいけません。 そして自分を愛するためには、誰かのせいにしてはいけません。何かのせいにしてはいけません。 これは大変なことです。持っている「ある部分~マイナスの部分」が大きければ大きいほど、大変です。 こうやって「受け入れろ」と口で言うのは簡単ですが、実際は大変なことです。 実は私にも、未だコンプレックスは残っています。まだまだ修行の身です。 加藤さんが一つのやり方を "運命のうけいれ方" という本に書いているのですが、 気がついたら自分でも同じことをしていました。まるで呪文のように、 「オレには価値がある。オレには価値がある。オレには価値がある…」と心の中で繰り返し唱えるのです。 とても苦しい時には、私はそういうことをやります。 自分の心に築かれてしまったコンプレックス。実際にそれをすっかり解消することは、 人によっては、これは本当に大変なことだと思います。 私は、私より大きなものを抱えていて、それを受け入れている人がいれば、その人を尊敬します。 その人は間違いなく、私よりも強く私よりも優しいはずだからです。 言葉が達者だとかPCができるとか金があるとか何だとか、そんなことは関係ありません。 「今日人と接していて、自分が背負っているマイナスの部分のせいで、人より劣った…」 そのマイナスの部分とは、生まれつき足が不自由なことかも知れない。神経症かも知れない。 幼児期に親に心を傷つけられて、間違った完全主義が抜け切れていないことによるものかも知れない。 …沢山あります。 とにかく今日、そのせいで人より劣った。 でも自分は、そのせいにしなかった。そういう「何か」のせいにしなかった。 親のせいにもしなかった。「誰か」のせいにもしなかった。 これは自分が背負った運命だから、と。時には耐えた。時には人よりがんばった。 そうすると「自分は偉い」という、本物の「自尊心」を感じることができます。「強い自分」です。 「今日人と接していて、自分が背負っているマイナスの部分のせいで、人に傷つけられた」 しかしこの時、本物の自尊心のある人は、自分でこの心の傷を癒すことができるのです。 自分に価値を感じることができるからです。「強い自分でいられた、この自分には、価値がある!」 自分の価値を信じることができるということは、本物の自己愛を持っているということです。 「受け入れている自分は偉い。だから傷つけられた自分の心を分かってあげよう」という気力が湧くのです。 自分の心の傷を自分で癒せれば、自分の心の傷をも受け入れることができます。 そして何時か、回りにも自分と同じように心が傷ついた人がいることに気づきます。 すると人に優しくなれるのです。それから又、容易に人を傷つけられなくなるのです。 これだけの力で殴られれば痛い。それを知っている。 自分でそれを感じて、自分でそれと向き合い、それを癒したのだから、良く知っています。 そうすると、同じ力で相手を殴ることは容易にはできなくなります。怖くてできなくなります。 だから人に優しくなるのです。 「強さは優しさ。優しさは強さ。自分を愛することができる人は、人からも愛される」 自分がどんな容姿であろうと、どんな環境に置かれようと、どんな学歴であろうと関係ありません。 素晴らしい容姿と能力を持っていても、例えば境界性人格障害と診断され、自己蔑視の心を強く持ち、 万引きをしてしまった女優もいます。 或いは又、素晴らしい自己愛を持って人から愛され、いつも人に囲まれている、人が自然と集まってくる、 工場で油まみれで働いているおっちゃんもいます。おっちゃんは実は酷いアダルト・チルドレンでした。 おっちゃんは、自分ではそんなことを知りませんでした。そんな言葉さえ知りませんでした。 このおっちゃんの優しさを感じたくて、まるで吸い寄せられるように人が集まってくるのです。 器の大きい人と言ってもいいです。 そしてこの器は、誰のせいにも何のせいにもしないで生き抜いてきた、自分の力で作った器なのです。 油まみれの手。汗で汚れた顔。 でもこのおっちゃんの心には、コンプレックスなどありません。

noname#91035
noname#91035
回答No.10

こんにちは。  そういう人は、コンプレックス(劣等感)といった上辺というか見た目というか肩書きというか、そういうものを価値の判断基準にしているのでしょう。  容姿・環境・学歴など、本質を外しているものばかり。 逆も、嫌でしょ? そういったものに優越感なんか持っている人。  ハンデとは考えず、どうでもいいことばかり気にしている。 質問者様も、なかなかかと。<(_ _)>

noname#94983
noname#94983
回答No.9

ん、微妙なとこだな。「恵まれているか否か」が態度に関係しているか、というと、正直、そうともそうでないともいえるような気がする。 ただ、何事につけ、あることに対し「自信を持っている」人間ほど、そのことに対して寛容になれるような気がするな。つまりな、相手に対して攻撃的になるというのは、実は「自分に対する自信のなさ」からきてるんでないか、と思うんだよ。自分に自信がないから、人から攻撃されると困る、だからその前に相手を攻撃して「攻撃は最大の防御」となす。ってことでないかね。 相手に対する寛容な姿勢ってのは、つまりは「どこをどう突っ込まれても、すべて受け止める自信がある」からこそ可能と思うんだよな。何をどうされてもまったく動じない自信があるからこそ、「さあ、どうぞいらっしゃい」てな態度を貫ける。ってことでないかね。 ただな。そこで微妙になるのが、「自信と、容姿・環境・学歴は、関係があるようなないような関係」ってことなんだよな。まぁ、美形の人間は、容姿に関しては滅多に負けない自信があるだろうし、学歴を重視する人間は、自分が高学歴なら自信を持つだろう。が、中には、高卒であっても自分の能力に絶大なる自身を持てる人間もいるし、容姿はたいしたことないのに、その人間性からやたらもてる人間だっている。だから、必ずしも関係があるか?というのは、ちと断言できねえぜ? コンプレックスってやつも、同様だな。あることに自信がないからコンプレックスを持つ。だからそれについて(自信がないから)攻撃的になる。それは確かにあるだろうな。ところが、コンプレックスがあるからこそ、そのことについて絶大なる自信を持つに至ることもある。たとえば、学歴にコンプレックスがあるからこそ、人並み以上に努力して勉強し、ゆるぎない実力と自信を得る人間もいる。 自信ってやつは、不思議なもので、ある一点について、誰にも負けない絶大なる自信が身につくと、それ以外のところでも自信が得られるようになるんだな。あることで「自分は誰にも負けない」というものがあると、それ以外のところで自分の能力が低くても、なぜかそれを素直に受け入れ、そして寛容になれる。「あれは全然駄目だけど、でも自分には○○がある。これは誰にも絶対に負けない自信がある」というものがあれば、他のところでにっこり笑って負けることができる。 あんたの周りにいる不機嫌な連中は、自分の中で「これだけは誰にも負けない」というものを持っていないんだろうよ。自分に対する自信のなさが、攻撃的な性格を生むんでないかね。

  • fujii324
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回答No.8

たしかにそういう事実はあると思います。でも、全てがそうと当てはまるわけではない思います。

  • yo-ry
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回答No.7

ぶっちゃけ、環境が たまたま、だと私は思います。 後ろ向きな考え方は、人格をよくなくする、とは思います。 コンプレックスは後ろ向きな考えを生みやすい、とも思います。 でも、コンプレックスが人格を悪くする、とは 限らない と思います。 コンプレックス打破の為に、日々頑張っている人は世の中に沢山居ると思いますよ。 人を見下す・・・満たされていない人に多いようには思えますが、 容姿・環境・学歴に恵まれているかどうかとは別問題な気がします。 学歴で・・・は、本人が、ではなく、第三者の目が勝手に変わるってのはありますね。 本人は運にも恵まれ、必死の努力の甲斐もあって、○○大学を卒業できました。 人事に携わった人が同僚に学歴をバラシタら、周囲の態度が一変・・・本人は何も変わっていないのに・・・。 あまり仕事が有能でなければ、 ○○大学を出たのに、この程度しか仕事が出来ないなんて・・・と陰口を叩かれたりして。 自己主張は性格でしょうね。 目立つのが難しい、なんて歌もありますが、目立たない方が難しいです。 普通にしてると、浮いちゃう・・・なぜ? なんて人も、世の中には居ますよ。

回答No.6

世の常とはいえないでしょうけど、そういう事実はあると思いますね。

  • cucumber-y
  • ベストアンサー率17% (1846/10420)
回答No.5

ご質問者さんに問題があるという話ではありません。 人を見下そうと必死に自己主張をしているような方を見ると、人はその方の悪いところを無意識に探してしまうのではないでしょうか。 そして、逆のタイプの「いい方」相手だと少々の悪い点が許せてしまう傾向があると思います。 実はこれは私の人の見方です。 苦手なタイプの方の欠点ってどうしても目についてしまい、更にその方が苦手になる悪循環だと自己分析しています。 コンプレックスが全く無い方は世の中にいないのではないでしょうか。 ただ、他人の目につきにくいというのは本人の持つ、それまでの態度や言動といったものから得た人徳であるように考えます。 ご質問者さんのお考えを否定するものでは無く、私自身の自戒を込めた回答とご理解ください。

  • nemoax006
  • ベストアンサー率14% (343/2433)
回答No.4

衣食足りて礼節を知るということでしょうか

回答No.3

そんな事は一概には言えないんじゃないのかな? 育ちが良くてイケメンで金持ちでも性格破綻者は世の中にたくさんいるし。 何かの研究結果なら発表はしないほうがいいと思いますね。 恥をかくと思います。